6.亀裂

 ほんの短い間。世界が、止まったように感じられた。

 腕をはしる痺れと熱も、あたりを覆う喧騒も、冷たい風も、何もかもが遠ざかって。

 ディランは腕をのばしたまま、凍りついていた。やがて、少しだけ刺すような痛みが感じられるようになって、ようやく腕をひっこめる。小さな手にはたかれたところが赤く腫れていたが、彼には見えていなかった。

「レ……ビ……?」

 呆然と、名前の形に、口を動かす。こぼれた声はやけに遠くて、自分のものだと思えなかった。

 一気に色を失ったように映る景色のただ中では、同じく凍りついている少年だけが、不自然に色をまとって見えた。彼は小刻みに震えたまま、その場に縫い止められたように動かずにいたが、ディランより早く我に返る。そして、みるみるうちに震えが激しくなる自分の体を、かき抱いた。

「――あ」

 ほとんど形にならなかった声が、冷えた石畳に落ちる。レビは己の手をゆっくり開いた。五指を伸ばし、広げる。彼はハシバミ色の瞳を伏せて、手を見た。のばされた優しい腕を拒んだ、矮小わいしょうな自分の、手を。

 瞳が揺れ、上へと動く。立ちすくんだまま動かないディランを、いろんな気持ちがぐちゃぐちゃにまざりあった瞳が、見つめてきた。

「……あ……ああ……」

 レビの声が、不安定に揺れる。言葉にすらならない。小柄な体の震えは収まるどころか、激しくなるばかり。

 消えそうな声で何かを呟いたあと、彼は唐突に立ち上がったかと思うと、駆けだした。冷たい空気をかき分けて、レビはディランの脇を走り抜ける。そのときになって、ディランもようやく正気に戻った。小さく息をのみ、すぐに振り返る。が、そのころにはもう、レビは柵の切れ目のすぐそばにいた。

「レビっ!」

「ご、ごめんなさい……ごめんなさい!!」

 泣き叫ぶように言った彼は、ディランの呼びかけを無視して、柵の向こうへ飛びだしていった。子どもの背中はみるみるうちに遠ざかり、雑踏の中に埋もれていく。混乱していたディランには、それを立ち尽くして見送ることしかできなかった。

 冷たく鋭い風が、少年の髪を揺らす。鳥の鳴き声のような音を立てる寒風にまじって、誰かの声が聞こえた。

「ちょ、おい、レビ!?」

 慌てたような声には覚えがある。ディランは、無意識のうちに喉を鳴らしていた。

「トランス」

 呟いた直後、まるでその声を聞きつけたかのように、盗賊狩りの人々を案内しに行っていた男が、裏庭に顔を出す。棒立ちになっている少年の姿を見た彼は、渋い顔をすると、柵の切れ目から庭に入ってきた。そして、ディランの肩を強く叩く。

 無遠慮な衝撃に意識を揺り起こされたディランは、一瞬震えてから、息を吸って男を見上げる。

 ディランの目にいつもの光が戻ったことを確かめたトランスが、厳しい口調で問いかけた。

「おまえ、レビに何かしたか?」

 ディランは首を横に振った。だが、すぐにうなだれた。先程はたかれたところを、手でそっとさする。

「わからない」

 針で刺されるような痛みが走った。そこではじめて、彼は腕が腫れていることを知った。

「俺、知らない間に何かしたのかな。……最近、レビに避けられてる気はしてたんだ」

 冷静でいようと心がけたはずなのに、こんなときだけ失敗する。ディランは、自分の声が揺れていることに、腹が立った。

 一方、ディランを見ていたトランスは、彼の顔色が悪いことに気づいて眉間にしわを寄せる。何を言おうか少し迷って、今度は優しく彼の肩を叩いた。

「まあ、なんとなく状況はわかった。おまえは部屋に戻って休んでろ。まっさおだぞ」

「っ、でも!」

 暗に「出しゃばるな」と言われたディランは、勢いのままに食ってかかった。動揺する少年を、トランスの手が押しとどめた。

「今おまえが出てっても、あいつはよけいけるだけだ。レビ坊のことは、俺に任せておけ」

 な? と言われたディランは、うなずくことしかできなかった。

 

 トランスにむりやり宿の中へ押し込められたディランは、魂が抜けたかのようにおぼつかない足取りで階段をのぼる。自分がどこへ向かっているのかもわからなくなりそうだったが、足は自然と、部屋へむかって動いていた。目の前に現れた扉を、ただ開けるために開けて、閉ざすために閉ざした。

「む、ディラン。レビは見つかったか」

 自分の荷物をあらためていたらしいゼフィアーが、扉の開閉の音に気づいて顔を上げる。が、その表情はすぐに凍りついた。ディランが声に引き寄せられてゼフィアーを見ると、彼女は心配そうに首をかしげた。

「どうしたのだ? 怖いことでもあったか?」

「……いや」

 答えたディランが、とっさに、そでからわずかにのぞく腫れた腕をかばったのは、無意識だった。が、部屋にいたもう一人の女性が目ざとくそれを見つける。

「何があったの?――レビが、そんな乱暴するような子には、見えないけれど」

 マリエットの鋭い声に、ゼフィアーがはっと息をのんだ。声を詰まらせたディランは、悩んで、唇をかみしめたすえ、ただ一言を投げ捨てる。


「あいつは悪くないよ、何も」


 自分の声を怖いと思ったのは、はじめてだ。

 ディランは自嘲的に唇をゆがめ、幽鬼のような足取りで歩く。そして、寝台の上でうずくまった。今はとにかく何も見たくない。ゼフィアーたちにも、どんな顔を向けて、どう接していいのかわからなかった。

 異質だ。今のおまえは異質だと、どこかで何かがささやく。

 

 一方、ゼフィアーとマリエットも、憔悴しょうすいしきっている少年を前にしてどうしてよいかわからず、困惑して顔を見合わせていたのである。

 

     

     ※

     

     

 うす青い壁の宿屋のある通りを西北の方にそれると、遠くに防波堤が見える。その付近は、街の地面とちょっとした高台のような場所を粗末な石の階段でつないでるという、少し複雑な造りになっていた。上から見ると四角いでこぼこがたくさんある玩具がんぐのようだ。秘密基地のようなその区画は、幼き日のトランスにとっては絶好の隠れ場であり秘密の遊び場でもあった。

 彼は、静まり返ったその区画を勝手知った様子で歩いていく。石段をのぼり、少し進んでおりる。またのぼって、おりる。しばらくそんなことを繰り返したあと、高台と高台をつなぐ橋のような石の道が見えた。彼は、そばの階段をためらいなくおりる。そうして橋の下に出ると、そこは昼間でも薄暗く、古びて使われなくなった家いえが、並んで沈黙している、さびしい場所だった。その、ちょうど橋の根元あたりに、頭を抱えてうずくまる少年の影を見つけ、トランスは肩をすくめた。弓を、音を立てないようにかつぎなおしてから、少年へ歩み寄る。

「よう、レビ坊」

 ふざけているときのような声で呼びかけると、少年はのろのろと顔を上げた。今までずっと泣きじゃくっていたのか、目はまっ赤に充血して、頬には涙の痕がついている。表情も暗く沈んでいてひどいものだ。今のディランといい勝負かもしれない、とそんなことを思う。

「なんで、わかったんですか?」

 彼はかすれた声でそう訊いた。トランスは大げさに首を振る。

「ここは俺の育った街だぜ? いじけたガキの行きそうなところなんて、だいたい想像がつく」

――彼自身、年上の少年に怒られたときは、よくここへ来てうずくまっていたものだ。古びた思い出がよみがえる。ともなった感傷を打ち消した彼は、レビのすぐ隣へ腰かける。

「いや、昔を思い出すねえ、これ。ここでむくれてたらさ、友達ダチが血相変えて探しにきやがんの。

 おまえ、馬鹿かってね。こんなところにいたら、大人に何されるかわからないだろうって、むちゃくちゃ怒られた」

「……そんなに、危険だったんですか」

 レビが目を瞬く。顔に、少しだけ生気が戻った。

 トランスは内心安堵しながら、昔話を続ける。

「夜がな。

 昔はここ、小さいときの俺と同じように、貧民街で犯罪に手を染めながら生きてる大人たちのたまり場だったのよ。大人たちは夜になるとここへ戻ってくるんだ。そんなところに、ひ弱そうなガキが座っててみろよ。どうぞ殴ってください、慰み者にしてください、って言ってるようなもんだ」

 わざと声を低くして言うと、レビは息をのんだ。少し怖がらせすぎたかと思ったが、語っている内容は現実のものだ。

 トランスはそこで言葉を切り、空をあおぐ。四角く切り取られた空は、息がつまりそうなほどに狭かった。

 寒い風が吹き抜けて、道に落ちていた木の葉を弄ぶ。葉を目で追っていたトランスは、それが視界の端の先へ消えてゆくと、口を開いた。

「ディランと何があったよ」

 すると、少年の肩が上下した。

 トランスは、今度はおどけなかった。じっと、少年を見る。

 レビはしばらくして、震える唇を動かした。

「何も、なかったです」

 まるで言い訳のような言葉に、トランスは眉をひそめる。だが、レビはトランスの気持ちに気づいたのだろう。かぶせるように言い募った。

「何もなかったんです。ぼくがディランに何かされたわけじゃないんです。ただ、どうしても怖くて、心配してくれたディランの腕を、払ってしまって」

 口早に言った彼は、立てた両ひざに顔をうずめた。

「怖い?」

 トランスは、慎重に繰り返した。すると、レビの小さな声が、膝の間から聞こえてくる。

「最近、ときどき、変なんです。ディランをすごく怖いって思ってしまうときがあるんです。

 態度が悪いとか、そういうことじゃなくて……。なんて言ったらいいかわからないけど、とても強い、威圧感みたいなものを感じるんです」

「威圧? あいつが、か?」

 トランスは首をひねる。記憶を探ってみるが、彼の知る限り、ディランという少年は、荒っぽい一面はありつつもだいたい穏やかだった気がする。レビも、まるでトランスの心を読んだかのようにうなずいた。

「ディラン自身も、気づいていないみたいでした。でも、ときどき、あるんです。ディランが怖くなるときが。目に見えない、強い力を放つときが。

あのときも、それを感じて。だから近づいてきたディランに『来るな』って言っちゃって」

 丸まったレビの背中が震えだす。くぐもった嗚咽が聞こえてきた。

「どうしよう。あんなこと、言いたかったわけじゃないのに。叩きたかったわけじゃないのに。ディランは、ぼくを連れだしてくれた人で、自分が誰かもわからないのにがんばって、人の心配までする優しい人なのに。ぜんぜん、怖くないってわかってるのに。ぼくは、ぼくは――」

 泣き声まじりの、懺悔に似た言葉の羅列。それは、どんどん大きくなり、しまいには絶叫になっていた。


「嫌だ……。こんなの、いやだよ……!」


 顔を上げたレビの目から大粒の涙がこぼれる。

 彼はとうとう、声をあげて泣きだした。堰が切れたかのように流れ落ちる涙をむちゃくちゃにぬぐいながら、わんわんと泣き声をあげつづける。ここまで激しく泣く姿ははじめて見る、と思いながら、トランスは黙ってそこにいた。ときどき子どもの背中をさすったり、頭をなでてやったりしながら。

 しばらくすると、泣き声も涙も落ちついてきた。かわりに、レビはしゃくりあげながら、また顔を伏せてしまう。そんなレビ少年の金髪をなでながら、トランスは頃合いを見て口火を切った。

「なあ、レビ。それ、ディランには伝えたのか」

 レビは、激しく首を横に振った。はなをすする音がする。

「言ってない。言えるわけ、ないです。変な威圧感を感じるなんて、怖いなんて、そんなこと。だって、それじゃあ、まるで」

 レビの言葉がとぎれる。喉が震えて、また嗚咽が漏れる。

 トランスは目を細めた。残酷にも、レビがのみこんだ、続きの言葉を口にする。

「まるで、人間じゃないって言うみたい――か?」

 するとレビは、切ないほどに細い声を上げ、小さな子が駄々をこねるときのように首を振ってみせる。

「やめて、ください」

「……あのなあ」

 トランスはレビの頭から手をどける。かわりに、強引にその顔を上げさせた。レビの目が、驚きに見開かれる。

「おまえはあのとき、まわりが全然見えてなかっただろうから知らないだろうが。おまえが逃げてったあとの、ディランの落ちこみようはひどかったぜ」

 両側の頬をはさみこんで、無理に目を合わせてそう言えば、少年の顔はこわばった。

理由わけもわからずひっぱたかれて、拒絶されるのは、すげえこたえるんだよ。俺も大昔に経験があるから断言するけどな。

 おまえは、ディランの記憶喪失のことやその他もろもろ、おもんばかったつもりだろうが、それがかえって、今あいつを傷つけてるんだ。わかるか」

 レビの目尻が、頼りなく下がって、唇がまた震えだした。その震えを噛み殺した彼は、顔をはさんで押さえられたまま、目を伏せる。

「――じゃあ、どうしろっていうんですか。どうしたら、いいんですか」

 声には、先程までの激情はかけらもなく。ただ、力を失って響く。トランスはため息をついて、レビの頬から手を話した。弓を抱え、立ち上がる。

「それはおまえ。まずはきちんと謝れ。そのあとのことは、てめえで考えろ。相手も自分も傷つけるのを覚悟のうえで、本当のことを言うか。それとも、全部ひた隠しにして、今までどおり相手を傷つけ続けるか。どっちを選んでも、それはてめえの選択だ」

「……なんですか、それ。ひどいですね」

 返る声は、冷たくとげとげしかった。レビでもそんな声を出すことがあるのかと、トランスは少し意外に思った。それでも、彼はひどいとののしられたまま、冷酷な男のままで、レビに背を向ける。それから、相手の顔を確かめずに言った。

「とりあえず宿屋に戻ろうぜ。どうするにしろ、こんな石の下でうずくまってたって、始まらねえよ」

 レビからの返事はなかった。ただ、空気が動いたのと布がこすれる音がしたのとで、彼が立ち上がったのだとトランスは判断した。そこで彼は、ようやく体をレビの方に向け、顔を伏せたまま立っている彼の手をとった。

 頼りない足取りの少年を引き連れ、元来た道を戻ってゆく。その上に、会話はない。

 気づけば空には、また厚い雲がかかりはじめていた。

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