41.青の底

「ちょっと!」

 悲鳴のような声を上げたチトセを、トランスがさっと受けとめる。人ひとりをうめきながら支えた男は、布袋くらいは持ってきておいた方がよかったかな、と後悔した。なんとか衝撃をまぬがれたチトセは、不服そうな顔をしながらも小さく頭を下げた。が、直後、目をみはって水柱の方を振り返る。

「あいつは」

 叫びかけて、止まった。顔からどんどん血の気が失せる。彼女の視線を追ったトランスも、沈黙した。いや、彼だけではないだろう。全員の視線が水柱に釘づけになり、凍ったようになっていたから。

 先程まで少年がいた場所には、すでに水の猛威がおよんでいて、濁った茶色が渦を巻いている。またしても岩場をえぐり、くだけた岩は粉々になって飲みこまれた。水は刻々と勢いを増してゆく。

 耳を澄ましてみても、聞こえるのは水がうなる重低音ばかりで――誰もが、その意味に気づきすくみあがった。

「ディラン!!」

 先のチトセ以上にひきつった声をあげ、少女が駆けだす。トランスが反射で手を伸ばして彼女のスカーフをつかみ、強引にひきとめた。ゼフィアーはつんのめってよろめいたあと、人を殺せそうなほど怖い目で男を振りかえる。

「何をするのだ!」

「阿呆、そいつはこっちの台詞だ。行くんじゃねえ。ゼフィーまで巻き込まれてどうする」

「だからディランを見殺しにしろと言うのか!!」

 ゼフィアーはわめきたてた。かつて水竜の死を目にしたときと同等か、それ以上に取り乱している。琥珀色とも金色ともとれる瞳には、うっすらと涙がにじんでいた。こいつは殴って気絶でもさせないと止まらないか。激情に燃える瞳を見ながら、トランスがそんな考えを抱いたとき。

「落ちつきなさい、ゼフィー」

 氷のごとき声が、少女の興奮を一気に静めた。マリエットが、表情が抜け落ちたような顔でゼフィアーを見ている。

「あれはただの水ではないわ。竜の力によって操られた水。巻き込まれてしまった人が、普通の水の中にいるようにおぼれてしまうとは限らない。『伝の一族』の末裔ともあろう子が、感情に流されて可能性を見失っていたとは言わせない」

 いつも以上に厳しく、反論を許さぬ物言いに、ゼフィアーが押し黙る。その間にマリエットは、「走って」と全員に向けて鋭くささやいた。水は今も膨張と移動を続けている。そう時間の経たないうちに、彼らのいるところまで到達するだろう。できる限り逃げ回って、その間に水竜たちを静める方法を編み出さなくてはならない。

 みんな、走り出した。ルルリエはすばやく、人間たちを風で囲う。マリエットがその中で、トランスになかば抱えられた状態のゼフィアーを振りかえった。見つめる視線からは冷たさが消えていた。

「竜とディランを信じましょう。あなたが信じなくて、ほかに誰が信じるというのかしら」

 竜ともっとも関わりが深いのは彼女で。

 この中で、あの少年との付き合いがもっとも長いのもまた、彼女だ。

 だからあきらめるな、信じてやれと、女は言う。

 ぽかんとしたゼフィアーは、それからふっと、緊張が抜け落ちたかのように微笑んだ。あきらめるな、以前、彼にも同じことを言われて怒鳴られた。苦くもあり、なのに温かい記憶がよみがえると、胸にくすぶっていた不安がすうっと溶けていく。

 お礼を言うつもりで少女は口を開いた。

『まずいわ』

 鋭い竜語がそれをさえぎる。全員がはっとしてルルリエを見上げたが――直後に、彼ら自身が「まずい」事態を悟った。地響きのような水音が、明らかに近づいている。鼓膜を揺さぶる轟音の中に、恐れのこもった呟きが落ちる。

「うそ、だろ」

 目だけで振り返る。

 濁流でつくられた水柱はふくれ続け、いつの間にか、彼らのすぐ後ろにまで迫っていた。

「追いつかれる!」

 トランスが言いながら速度を上げる。が、その横で、少年がふらついた。ゼフィアーははっとして彼を見た。

「レビ!」

「……だ、だいじょうぶ」

 虚勢を張った少年の声を水音がかき消して。

 怒りの水は、ただ目の前のものに向かって、見えない手をのばした。



     ※

     

     

 叩きつける水の渦は、暴風とさして変わらない。容赦なく叩きつける水流の勢いと冷たさで、体はばらばらにされそうだった。むしろ、己の肉体が原型を保って、意識すらもまだあることが、奇跡だった。ディランはなんとか水をかこうと手をのばしてみるが、流れにもまれる腕はろくに上がらない。水をかいてもほとんど意味はなく、小川でおぼれるありにでもなってしまったかのような頼りなさを覚えた。

 すべてをかき乱す流れの中に、濁った泡が吐き出される。奇妙なものには違いないが、水は水。無情に、ヒトの肺を圧迫してきていた。渦に巻きこまれた直後は感じなかった息苦しさが、急に襲いかかってくる。反射的に呼吸をしようとして、逆に水を飲みこみかけた。咳きこめば、またわずかな空気は吐き出される。

 これは、本格的に危ないかもしれない。

 妙に冷静にそう思ったとき、彼は視界の片隅に「異物」をとらえた。彼よりめちゃくちゃにもがく小さな手。濁りの中にちらちらとのぞく金色に覚えがあった。

――レビ!

 すでに朦朧としている意識の中で名を呼んで、彼は夢中で手をのばす。奇跡的に、彼の細い腕をつかんだとき。

 さらに強い流れが押し寄せてきて、殴られるような衝撃を感じた。

 

 

 意識が断絶していたのは、どれほどだったのか。体がそうするままに目を開けたディランは、違和感を覚えた。

 呼吸ができる。

 それに、体は激流にもみくちゃにされているわけではなく、どこか知らない場所に浮いて、漂っている。頭はぼんやりしているようにも、妙にさえているようにも思える。

 何がどうなっているのかわからず、とにかくあたりを確認しようと首を回したディランは、はたして絶句した。


 目の前が、青い。

 否、自分が浮いている空間すべてが、透き通った深い青色だった。

 感じる冷たさは間違いなく水のもので。けれど濁流でもなければ、海や川とも違う。

 そのものが青い水の中。

 

 どういうことだと叫びかけて、声が出ないことに気づく。不快感や苦しさはないが、いくら口を動かしても音は紡がれず、水泡だけが上へ吸い込まれるように消えていく。

 浮上しているのか沈んでいるのかもわからぬまま漂い続けた彼は、けれど、ふいに全身を震わせた。

 どこからかわからない。しいていえば「全方位から」か。

 強い感情が、押し寄せてきた。

 怒りであったり、憎しみであったり、悲しみであったりした。すべてが混ざりあっていた。言葉であらわすことのできない、心身を切り裂くような叫びだった。

 

 どこへ行ってしまったの?

 どうして戻ってこないの?

 なぜ、裏切られなければならなかったのか。

 味方など、しなければ。最初からもっとも重い裁きを与えていれば。

 慈しまねば。愛さなければ。

 

 君が

 おまえが

 あなたが裏切られることなど、なかったのに――

 

 水竜たちの叫びだと、彼が気づくのに時間はかからなかった。そう思えば、あちらこちらから竜の鳴き声にも似た高い音が聞こえてくる。奇妙に反響している声は、泣いているようにも聞こえた。

 次第に、声が複雑にからみあい、何を言っているのかがわからなくなる。音と感情だけが、残酷なほど強く流れこんでくる。

 身をよじっても、声にならない悲鳴を上げても、苦痛に顔を歪めても。流れは止まらない。暗い感情たちは、心を押しつぶそうとしているかのようだった。彼はとうとう、わずかに動く腕を上げ、頭を抱えた。何がなんだかわからない。発狂しそうだ。

 

(ああ)

 ふいに、声が響く。

(なんということだ。おまえたちは、そんなにも……そんなにも深い悲しみを抱えてしまったのか)

 今までと違い、どこから聞こえているのかわからない。ただ少年は、うつろな表情でそれを聞いていた。まるで他人事のように。

 声は途切れない。

(苦労ばかりかけて、辛い思いをさせて、あげくにそんな悲しい咆哮を上げさせてしまった。私は、私の選択は、間違いだったのかもしれない)

(だが、それでも、私は)

 声がじわりと広がって、少年の中で何かが脈打った。

(おまえたちの感情を、暴力に変えてほしくはないのだ。そう思ったからこそ、私は私の意志で選んだ)

 心音のようで、少し違う音が、青の中をゆっくり流れて巡ってゆく。

(憎むな、とは言わぬ。悲しんでもいい。立ち止まってもいい)

(だがいつかは、それを受け入れてほしい。私自身も、受け入れなければならない)

(お願いだ。もう一度だけ、人間の声を聞いてくれ)

 響く声は。彼が聞く声は。いつのまにか、「今」と「過去」の間で重なりあい、彼の思いと溶けあっていく。

 

(それができぬというのなら、せめて)

 せめて。

(私の願いを聞いてほしい)

 俺の声に耳を傾けてくれないか。


 ひときわ大きな声が反響し、消えたそのとき――空気が変わった、ように思えた。

 深い青がより澄んだものになり、まわりから聞こえる音も質が変わった。すすり泣きのようにも、無邪気に笑っているようにも聞こえる音。それを聞いているうちに、ディランの方へ押し寄せてくる強い感情も、潮が引くように消えてゆく。体がすっと軽くなり、心が安らいだ。彼は目を閉じた。

 

 誰かが名前を呼んでいる。

 それは今の名か、古き名か。判然としないまま、彼はゆっくり手をのばす。指を広げる。

 何かをつかみかけた、と思ったとき、激しく清い水流が、彼の体と意識を押し流していった。

 

 

――ほころびが生まれる。

 その先にあるのは、ひび割れた、けれど何よりも清らかな魂だ。

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