40.ぶつかる力

 竜の咆哮が一帯を震わせた。その瞬間、降りしきる雨のしずくが不自然に浮かび上がり、渦を巻く光景をディランは確かに見た。渦巻く水は、見る間に流れが早くなり――やがて、彼らに向かって押し寄せてくる。竜へ向かって走りかけていたゼフィアーを見つけたディランは、とっさにその腕をつかんで、引っ張った。

「わっ!?」

「ちょっと待て。あいつら、話す気ないみたいだ」

「……そんな!」

 ゼフィアーが青ざめた。遅れて、凶暴な水の渦に気づいたらしい。

 水が迫る。ただの水ではない。炎竜たちの炎、ルルリエの風と同じ、立派な竜の能力。太刀打ちできないとわかっていても、ディランは剣を構えていた。が――

 突然、目の前に白い何かが飛び出した。それは、わずかな間だけまばゆく輝くと、みるみるうちに巨大化する。

『させるものですか!』

 いつも聞いている声の、何十倍も大きい怒声。その終わりに、あたりに風が吹いた。鋭い風が水の塊を見る間に切り裂き、打ち消す。そして、そよ風のようなやわらかい空気の流れが、人々のまわりを包み込んだ。

 呆然と、一部始終を見ていたディランは、不自然な風がまわっていることに気づく。目には見えないが、空気がまわりに渦をつくっているように感じた。肩にいた鳥がいつの間にか姿を消していて、前方に白い竜がいた。

「ルルリエ」

『竜の力に対抗するなら、竜の力よ! まわりが見えなくなってる馬鹿の場合は、特にね』

 彼女はゆったりと翼を動かして、迫りくる水竜の群を待ち受けた。

 やがて、竜たちはディランにもはっきりそうとわかるくらいに近づいた。同時に、予想していたにもかかわらず、その目つきの恐ろしさに足がすくんでしまう。彼らは、本気で怒っていた。

『同胞よ!』

 前方から、叫び声が上がる。腹にずしりと響く低音は、地鳴りに似ていて、地鳴りよりずっと大きく恐ろしかった。

『なにゆえ、邪魔立てをするか!』

『するに決まってるでしょうが! あなたたちこそ、こんなところで何油売ってるわけ? わざわざ北からここまで来たんでしょ。さっさとやること済ませて戻りなさいよ』

 恐怖で身動きできなくなりそうな怒声に、竜であるルルリエはまったく動じない。それどころか、きつい言葉を倍にして投げ返している。だが、竜たちは意に介さない。その場で素早くばらけると、翼を激しく羽ばたかせた。

 青い光の波が空間を揺らした。ディランの目にはそう見えた。瞬間、地面にたまっていた水が、音を立てて起き上がる。とぐろを巻く蛇のように回転しながら、水が柱のように立ち昇った。

「な、なにこれぇっ!」

 絶叫したのはレビである。棒を構えてはいるが、あんな意味のわからない水柱を棒一本でどうにかすることは、不可能だ。

『くっ、あいつら……ここまで聞かん坊になってるなんて』

 そのひとつひとつに風をぶつけながら、ルルリエが歯噛みする。そして、人間たちを振り返った。

『厄介ね。散らばっちゃった奴らを一か所にまとめられない?』

「俺たちがか」

 ディランは、勘弁してくれという気持ちで問う。ただの人間にすぎない自分たちが、竜相手に立ち回れるとは思えない。かといって、小竜こどもとはいえ竜のルルリエが、あからさまに誘導するような動きを見せれば、水竜たちは意図に気づいて逆上する可能性がある。

「とはいえ、作戦を練ってる余裕もねえなあ」

 トランスが苦々しげに呟いた。

 あたりでは水の渦が次々につくりあげられている。中には、雨の粒をつぶてのように操る竜もいた。ルルリエはそれらを鬱陶しそうに翼で払う。

 ディランはふっと『伝の一族』の少女を見た。彼女はさっきから、大声で竜語ドラーゼを叫んでいる。

「ゼフィー、なんとかできないか?」

 ゼフィアーはゆるゆると首を振る。

「だめだ。先ほどから語りかけてみてはいるのだが、届かない」

「そうか。うーん……」

 うなったディランの視界の端で、やや傾けられた槍の穂先が光る。マリエットが、厳しい目で上空をにらんでいた。

「せめて、彼らの気を一斉に引くような何かがあればね」

 竜の研究者を名乗る女性の眼差しは、己の知識と記憶を探っているようにも見える。

「それが一番難しいんでしょう? 私たちの武器を使うのはだめって言われそうだし」

「あたりまえだ」

 うんざりしたようなイスズの言葉を、トランスが切り捨て――だが、そのとき、ディランの耳は反応した。眉がぴくりと跳ね上がる。

「武器……《魂喰らい》?」

 彼が自然と思い出したのは、ロンズベルク下山途中で、ルルリエと出会ったときのことだった。最初はディランを警戒していた彼女だが、「魂を砕く武器を持っていない」と判断したことで、少し心を許してくれたのだ。マリエットについても、同様だった。

「なあ、ルルリエ」

『何!?』

 忙しそうに水を払っているルルリエから、苛立たしげな返答がある。ディランは構わず続けた。

「竜って、《魂喰らい》の武具の気配か何かがわかるのか?」

『そうよ! なんというかね、心がざわざわってするの! 身の毛がよだつって感じ! でも、それがどうしたの!?』

 ルルリエの返事は悲鳴に近かった。が、ディランはろくに聞いていなかった。頭の中に光が閃いたのを感じた。あてずっぽうの、博打もいいところの一案。けれど、試す価値はあるだろう。

「チトセ、イスズ」

 ディランは振り返り、少女たちの名を呼ぶ。二人はすぐに顔をディランへ向けた。

「頼みがあるんだけど……前に出て、二人の武器を抜いてみてくれないか?」

 彼の言葉に、少女たちはぽかんと口を開けた。レビやトランスも呆けていたが、彼女たちよりは早く我に帰り、揃ってまくし立てる。

「ちょ、何言っちゃってるんですかディラン!」

「アレはさすがにだめだろ!」

 ディランはため息をつき、顔の前に両手を広げて「落ち着け」と冷たく言う。二人が顔を引っ込めたところで、言葉を続けた。

「それはわかってるし、俺だって竜を殺させたくない。要は、使わなければいいんだろ?」

 再び、沈黙する。

 沈みこんだ場の雰囲気を打ち破ったのは、小さな笑い声。

「そういうことね」

 マリエットが微笑していた。状況を楽しむような、窮地にそぐわぬ笑みだった。それを見て、一瞬、心から不快感をあらわにしたチトセが、ふ、と目をみはる。そして、ディランに悪戯っぽい笑みを向けた。

「なるほど。あたしたち、囮ってわけね」

「そうとも言う」

 ディランは肩をすくめてみせた。イスズも意図に気づいたらしい。「嘘でしょ!?」と反抗的に叫んだ。

 ただ、赤毛の少女とは対照的に、チトセは意外と乗り気なようだ。刀に手をかけ、進み出る。

「いいわ。やってやろうじゃない」

「チトセ! 本気なの!」

「本気よ。武器を抜くだけでいいんだもの、簡単じゃない」

 口早に、少女はそう言った。もはや意見をひるがえす気がないと悟ったのか、イスズもかぶりを振りながら前に出る。そのとき、チトセがディランを振り返った。

「ちょっと安心したわ。あんたが善人ぶるような奴じゃないってわかって」

「どうも。前から、善人ぶってるつもりはないんだけどな」

 ディランは答え、苦笑した。


 チトセとイスズが前に出る。どうも、ルルリエも水を払いのけながら話を聞いていたらしい。二人を素直に水竜の群の前に立たせて、自分はわずかに下がる。羽を広げ、張られた帆のようにぴんと伸ばした。

 竜の目が猛々しく光る。同時、チトセとイスズはおのおのに、武器を構えた。刀は鞘から払うように抜かれ、槍は構えられて穂をきらめかせる。

「さあ来な、竜ども! 昨日の仕返ししてやるわ!」

 チトセなどは、わざわざ声を張り上げて挑発までしてみせた。ちょうどうっぷんが溜まっていたのだ。今ここで、思いっきり晴らしてやろうと思ったのである。

 散開していた竜たちの目に、殺気が走った。

『貴様ら!』

 青い翼の竜たちが、一斉に、チトセとイスズめがけて突進してくる。彼女たちも、まるで今から突撃とばかりに構えるが、

『下がって』

 ルルリエのささやきとともに、素早く飛びすさった。同時にルルリエは顔を上向け、風を呼びよせる。再び、風がやわらかく渦を巻いて、人々を取り囲んだ。人間たちを風の守りで閉じ込めた小竜は、張っていた翼を、ぶわり、と勢いよく振った。

『ちょっとは――』

 白い翼が空中をなでる。水をはじき、そして。

『頭を使って考えなさい!』

 翼の軌跡をなぞるように風が舞い、水竜の群れへ吹きつけた。風に巻き上げられた細かな塵が、輪をつくって水平に滑る。不自然に動いた風は、人々の頭上から雨水さえもかっさらう。小竜の力を受けた水竜たちは、細く高く、悲鳴を上げた。

 ディランは、暴風が頭上をかすめていくのを感じながら、自分がとんでもないことに関わっていると、今さらながらにぞっとして、身震いする。

「ちょっと叩く、でこれかよ。とんでもないな、竜って……」

「うむ。だから本来、人間に簡単に狩られるような種族ではないのだ」

 隣でうなずくゼフィアーは、妙に冷静だ。彼女に冷めた視線を注ぎながら、ディランは、そういえばこいつって、俺と出会う前にも竜に会ったことあるのかな、などと、今と関係ないことを考えた。だが、竜の悲鳴が波のように耳に届いて、顔を上げる。

 風に巻き上げられて振り回された竜たちがどうなったか、それがわかったのは、風がおさまった後だった。

『な……ルルリエ!?』

 どこからか、風竜の名を呼ぶ竜語が響く。確かに理性を感じられる声だ。ディランたちはほっと胸をなでおろした。

 が、次の瞬間。

 理性的な声を吹き飛ばすほどの、絶叫が響いた。

 油断しきっていたディランたちは、とっさに耳をふさいでうずくまる。そろそろと目を上げたディランは、唖然とした。

 竜の群が割れている。一部の竜たちだけが、もといた場所から少しだけ、まとまって遠ざかっているのだ。遠ざかった方が、正気を取り戻した竜たちなのだ――と、ディランが気づいたのは、届く竜語を聞いたときだった。

『待て、おまえたち、止まれ!』

『同胞に向かって撃つ気か!』

 その後も、轟々と制止の竜語が飛ぶ。が、絶叫を上げた竜たちは止まらなかった。雨水があり得ない速度で空へ浮上し、水たまりすらも練り上げられる粘土のごとく伸びて、空中へ吸い寄せられていく。

 異様な光景に、ルルリエが青ざめた。

『うそ……ひょっとして、力が足りなかったの?』

「どっ、どういうことよ!」

 絶叫を聞いたときに刀を取り落としたチトセが、それを拾いながら、狂乱気味に叫ぶ。ルルリエも、逆上するように返した。

『力が、あとちょっと足りなかったの! 中途半端にぶつけちゃったから、我に返る竜と余計に怒る竜に分かれてしまったみたい!』

「なっ――そんなのありか!?」

 ゼフィアーが叫んだ。彼らが唖然としている間にも、水は吸い寄せられ続けて、巨大な塊へと変化してゆく。ディランがはっと空を見上げた頃には、街ひとつのみこみそうなほどの水柱が、ごうごうとうなっていた。響くのは、滝の落水にも似た重低音。

「な……にこれ……」

 イスズが呆然と呟く。その横で、チトセも魂を抜かれたように固まっていた。

 そんな彼らへ、怒り狂った竜たちは容赦なく狙いを定める。砂塵を巻き上げる竜巻のように、水柱はのろのろと動き始めた。岩を砕き、土をえぐり、離れた低木さえもなぎ倒しながら。

「チトセ! 退避!」

 言うなり、イスズが踵を返して走った。ルルリエが渦をつくっていた風を散らし、ほかの人々も反転して走り出そうとする。だが直後、ディランは背を向けたままのチトセを視界の端に捉えて、足を止めた。

「チトセ!」

「っ、あんた、何やってんの!?」

 気づいた友が振り返って叫ぶも、チトセは反応しない。その間にも、水柱は確実に近づいてきていた。刹那の間に、ディランは焦り、思い出す。

 豪雨の中、動かなかった、動けなかった少女の姿。彼女が感じていたのは、恐怖か、後悔か。

 逡巡はやはり短い。

「くそっ!」

 吐き捨てたディランは、また反転して駆けだした。後ろから飛ぶ制止の声をすべて振り切り、チトセに飛びかかる。固まっている少女を後ろから強引に抱きかかえ、横に跳んだ。かたい岩場を転がり、かろうじて水を避ける。

 小さな声が聞こえる。チトセは我に返ったらしい。安堵したディランは、凍りついて動けない彼女を助け起こそうと考えて、まずは自分が体勢を立て直すべく手をついた。

「ディラン! だめだ、来るぞ!」

 ゼフィアーの声がとぶ。

「え」

 自分でも間抜けと思える声を上げ、ディランは背後を見た。そして言葉を失った。

 水柱がこちらに向かって膨張している。足をのばすたこのように。あるいは、じわりと広がる波紋のように。迫りくる茶色く濁った水流を、つかの間、他人事のように見る。

 間に合わない。

 そんな言葉が、脳裏で弾けた。奥歯を強く噛みしめたディランは、転げるようにチトセへ走り寄り、自失したままの彼女を投げた。

「ちょっ……!」

 少女の声が瞬時に遠ざかる。遠くで何かが倒れる乾いた音と、仲間の声がした。そのすべてを聞く前に――ディランの何もかもを、濁流がのみこんだ。

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