36.静かな異変
不確かな道の途中、ディランは立ち止まった。最後に街に寄ったときと比べてずいぶん軽くなった布袋を担ぎなおしながら、肩の鳥を見やる。
「どうだ、ルルリエ」
『うん。こっちで合ってる、と思うわ』
鳥は羽を震わせながら、不思議な言葉で答えた。うなずいたディランは、また一歩を踏み出す。水気の多い泥を踏んでしまって、顔をしかめた。彼が歩きだしたことで、まわりにいた四人もそろそろと動きだす。
「ルルリエ、あってる、って言ってました?」
レビがディランを見上げて問うた。ディランは「ああ」と短く返す。すぐ前を向いたレビの隣で、ゼフィアーが歩きながら地図を広げた。
「うーむ。前々から思っていたが、だんだん北の方に向かっていっている気がするぞ」
「予定していた進路からはかなり逸れてるが、ま、しかたねえわな。ルルリエの感覚をあてにしてるんだから」
前髪をいじくりながら呟くゼフィアーの頭を、トランスが軽く叩く。彼の声には、不安だとか、心配だとか、そういう雰囲気がまったく感じられなかった。
東の砂漠に降り立ってから、すでに二十日近くが経過している。当初、ほぼ真東に進むつもりでいた一行だが、道中でルルリエがわずかに主竜の気配を拾ったために、計画を変更した。彼女の感覚に従って進むことに決めたのだ。結果、進路は少しずつ北向きになり、ヤッカの北東にある小国イェルクに入ったのである。
「けどなあ。もうちょっと、はっきりわかんないもんなのか?主の気配ってのは」
トランスが愚痴をこぼしたところで、隣を悠然と歩いていた銀髪の女性が、穏やかに目を細める。
「シルフィエは、すごく遠いところにいるのかもしれないわね。『
言葉とは裏腹に、語る声は楽しそうだ。呆れて目を細めつつ、ディランはふと足もとに目をやる。茶色い地面はいつの間にか平らになっていて、彼らの歩く横を、黒々とした
「……町が近いのかな」
彼の呟きを拾ったルルリエが、細い声で鳴く。
『それなら、早く行きましょう。天気が崩れそうよ』
「そうだな。なんとなく、寒くなってきた気がするし」
小さく震えたゼフィアーが、上着の襟を寄せる。スカーフは、防寒具としてはこころもとない。
ルルリエの一言をきっかけに、ディランも含めまわりの人たちが天候についての不安と不満をさらけ出している中、マリエットが、ふいに足を止めた。表情が厳しいものになる。
「……マリエット?」
青銀の女性の変化にいちはやく気づいたディランが声をかけると、彼女はきつい目で道の先をにらんだまま、口を開く。
「砂漠を抜けてから、ずっと思っていたけれど、変だわ」
「変?」
「湿気が多すぎる」
彼女の声はかたい。それを受け、トランスが目を細めた。
男の変化に気づかなかったレビが、心配そうに女性を仰ぐ。
「どういうことですか?」
「このあたりはね、空気がとても乾いているはずの地域なの。本来、今の時期は雨もほとんど降らないわ。だからほら、砂漠を離れてからも、あんまり大きな植物を見かけないでしょう?」
まわりを見渡しながら言うマリエット。彼女の解説を聞いたディランとレビが、目を瞬く。本当だ、と呟いてから――ディランは、急に、漠然と嫌な感じを覚えて目を細めた。
「……と、言う割に、ずいぶんじめっとしてるな。変っていうのは、このことか」
「そう。色々と、おかしいのよね」
そんなふうに呟いたのは、誰だったか。わからないまま、全員が、不安を殺して沈黙する。出所のわからぬ一言は、彼らの心のうちを代弁していた。
しばらく歩くと、ディランの予想どおり、町が見えてきた。同時に、雨も降りはじめたので、三人は駆け足で町に入り、ちょうど近くにあった安宿へ飛びこんだ。
確かめる余裕がなかったが、街道に沿ってつくられた宿場町のようだった。不規則な石畳が敷かれた道は広く、馬車の横を人が歩けるだけの余裕がある。
――彼らが宿屋に駆けこんだ後になって、急に空が暗くなり、家いえの中から明りが漏れてくる。雨は見る間に強くなり、全員が落ち着いた頃には、外は豪雨になっていた。宿屋も雨戸を閉めきってしまったため、薄暗い。ざあざあと、かすかに聞こえる雨音の中、ディランは子どもたちと一緒に木製の長椅子に腰かけた。
「なんとか間にあったな。あまり濡れずに済んでよかった」
ゼフィアーが呟きながら、髪をいじる。
それにうなずいたディランも、息を吐いた。肩に乗っていたルルリエが羽ばたいて、膝の上に移る。甘えるように鳴いた鳥へ苦笑して、少年は白い羽をなでた。ほんのり湿っていて、冷たかった。
雨を逃れて旅の一行がくつろいでいると、いきなり、奥から声がかかった。
「大変だったね、あんたら。茶でも出そうか?」
声の主は、奥から姿を見せた老人である。宿の主人だろう。
それに答えたのは、槍を磨いていたマリエットだった。
「あら、まだお金も払っていないのに、お世話になるなんて悪いわ。雨宿りできるだけでも、ありがたいのよ」
「そう言うなって。見てのとおり、しょぼい宿でな。奥の方にある大きい方に客を取られちまってるんだ。しかもこの天気だから、客はほとんど来ない。要は、暇なんだよ」
主人はそっけなく言いつつ、そばの小さな扉のむこうに引っ込む。少しして、本当に五人分の茶を出してきた。彼らは苦笑しつつ、くすんだ白のカップに口をつける。主人が、横目で彼らを見ながら、ディランに何かを放り投げてきた。器用に受け止めて見てみれば、麦粉からできた生地に野菜のかすを練りこんで焼いたもののようだった。小さな棒状のそれを指さし、主人はもごもごと口を動かす。
「そこの鳥にでもやりな。普通のえさよか、うまいだろ」
「……あ。ありがとうございます」
ルルリエは、鳥になっているのだった。当たり前のことを改めて思い出す。棒を彼女に差し出すと、一瞬だけ不満そうな顔をされた。が、彼女はすぐに、棒をくわえる。
『……思いっきり鳥あつかいだわ』
「しょうがない。見た目は鳥なんだし。わざわざおやつをくれたんだから、ちゃんと食べろよ」
『わかってるわよ。あ、これおいしい』
「それはよかった」
こそこそ小声で会話をする。宿屋の主人には申し訳ないが、鳥がしゃべることが知られただけでも、大変なことになりかねない。ルルリエも、全身をわずかにこわばらせていた。
降り続く雨の中、宿屋の中には、暖炉の熱のように温かい、奇妙に平穏な時間が流れる。五人のカップが空になった頃、老人が、ぼそりと言った。
「わしゃ、ここに住んで五十年になるがね。こんな大雨、初めてだ」
「そうなのか?」
トランスが素っ頓狂な声を上げると、小さなうなずきが返ってきた。
「どうなっとるんだか。凶兆じゃなけりゃ、いいけどな」
ぽつりぽつりと語りながら、主人は雨戸に視線を注ぐ。水が板を叩く音が、だんだんと、大きくなっていた。雨はやむどころかさらに強くなっているらしい。
ふいに、棒を膝に乗せて静かに座っていたレビが、口を開いた。
「……なんだか、この雨、嫌なことを思い出します」
ディランとゼフィアー、そしてトランスは、顔を曇らせた。わざわざ言われずとも、なんのことかはわかる。雨の中に沈む、傷だらけの青い翼が見えるようで――ディランは思わず、強く首を振っていた。
彼らが重苦しく黙りこんでいると、マリエットが立ち上がってみんなを見た。
「今日はもう外へ出られなさそうだし、ここに泊まることにしない?」
ことさらに明るい声で提案する。気分をほぐそうとするかの彼女の振舞いに、ディランたちはぎこちなくも笑顔になった。
「そうだな。じゃ、宿賃払うから計算してくれ」
トランスが手を振りながら主人にそう言う。
ディランはそこで目を瞬いた。思わず、むっつりうなずいている主人をじっと見てしまう。
「あの……鳥は、大丈夫ですか?」
「そんだけ静かなら構わんよ」
主人は言って、しばらく考えこんだ後、値段を告げた。わかってはいたが、普通の宿よりだいぶ安い。ゼフィアーとトランスがほっとした顔になる。
部屋を教えてもらったところで、主人に礼を言って客室がある二階へ上がろうとした。だが、奥の階段を上る一歩手前で、ディランは足を止めて振り返る。
ざあざあと。やまない、かすかな音に潜む、もっとささやかな、異質。
「ディラン? どうかしたのか?」
先に数段ほどを上がっていたゼフィアーが、振り向いて声をかけてきた。ディランは、宿屋の扉の方をじっと見て、呟く。
「――誰か来た」
「え?」
三人分の声が重なって、返ってくる。
雨音にまざる、ささやかな別の音。それは、水の跳ねる音。そして人の足音だ。ディランたちが来たのとは反対の方向から響いて、だんだんこちらに近づいてきている。ディランは踵を返しながら、宿屋の主人に訊いた。
「すみません。ちょっと、開けてもいいですか」
彼が扉を親指で示しながら言うと、主人は訝しそうな顔をした。それでも、表情を変えず口を動かす。
「別にいいが、本当にちょっとだけにしてくれよ」
「はい」
ディランは小さく答えた後、ルルリエに「ゼフィーのところ、行ってろ」とぞんざいに指示した。さすがに、毛がずぶぬれになるのは困るのか、彼女は素直に奥の方へ飛んでいく。
小さな鳥を途中まで見送った彼は、砂漠で使った外套を身にまとい、さっさと歩いていって扉を開けた。途端、地鳴りのような雨音が近くなる。向かいの家すらかすむほどの大雨の中に踏み出した彼は、頭巾を目深にかぶりつつ、後ろ手で扉を閉める。乱暴に叩きつけられる水を無視して、左右をざっと見た。
足音の主はすぐに見つかる。雨の中を走ってくるふたつの人影。どちらも華奢で、片方は特に小柄だ。女性だろうか。思いながら、ディランは大きく手を振った。
「おおい!」
叫ぶと、影が一瞬だけ止まった。こちらに気づいてくれたらしい。ほっとしながら、ディランはさらに、轟音の中で声を張る。
「こんな土砂降りの中で何してる! 宿屋があるから、早く入れ!」
すると、二人は走る速度を上げたようだ。地面にたまった水を蹴る音が近づく。人を覆う影は薄らいで、代わりに、色と形が鮮明になった。雨の中を必死で走ってきたらしい、二人の少女は、外套をかぶったディランを見てお礼を言おうとする……が。彼の顔を真正面から見た瞬間、「はあっ!?」と仲良く叫んだ。
また、ディランも少女たちの姿を確かめて、凍りつく。叫び返しそうになってこらえたものの、驚きの声はこらえきれなかった。
「な、なんでこんなところに……」
「それ、あたしらが言いたいんだけど」
刺々しい声には、嫌というほど覚えがある。ディランはほんの少しだけ、自分の行いを後悔した。
豪雨の中、彼が見つけたのは――『
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