18.混乱と錯綜と

 何がどうなっているのかわからない。

 呆然自失の状態のままで、レビはふらりと倒れてきたディランの体を受けとめた。だが、十一歳の小柄な子どもが、自分よりずっと背の高い、鍛えられた人を受けとめきれるはずがない。彼の重さにおされて、結局レビも倒れるように尻もちをついた。

「ディ、ラン?」

 おそるおそる、名前を呼びながら、顔をのぞきこんでみる。瞬間、混乱しきっていた頭の中が、完全に凍りついた。

 突然倒れてきたディランは、真っ青な顔で荒い呼吸を繰り返している。額に玉のような汗が浮かんでいて、時折、えずくようにうめき声を漏らした。意識はないらしい。軽く揺すってみても、頬を叩いてみても、目は開かない。

「え? 何これ? なんで……」

 ぐるぐると頭が回る。あれや、これやと考える。けれど、意識の上には何も残らない。ただ表面を滑るだけの思考の中で、ディランが気絶する直前に言った、消えそうな言葉を思い出した。

 誰か、人を呼んで。そう言いたかったのではないだろうか。

 言葉だけが、頭の中で、無意味に弾ける。

 ――きっと、それを聞いていてもいなくても、レビの行動は変わらなかったろう。

 彼は、がたがた震えながら、引きつった声を上げたのだ。


「だ、誰か、来てください! 早くっ!!」


「……レビ?」

 武器の具合を点検していたゼフィアーは、ふいに、顔を上げた。扉の方を振り返ってみるが、そこには、ぎらぎら光る金属の矛をきれいに立てて並べてある黒い棚しかなく、黙々と羊皮紙を見ながら槍を数えているトランスしかいない。わかりきったことだ。

 ゼフィアーが首をひねっていると、トランスが彼女を振り返った。

「どうしたよ」

「いや」

 ゼフィアーは、変だな、と思ったまま、続けた。

「今、レビが絶叫したような声が聞こえた気がして」

「はあ?」

 案の定、トランスは素っ頓狂な声を上げた。けれど、槍を数える手も止まる。

「何かあったのか。いやでも、ディランも一緒にいるはずだろう。何かあってもあいつが対処して……」

 ぼそぼそと呟くような言葉がふいに途切れて、彼の顔が驚いたものになる。ゼフィアーも、思わず手にしていた剣の鞘を落としそうになった。

 にわかに、階下かいかが騒がしくなったのだ。扉の厚い武器庫からでもわかるほど。それだけでなく、かすかに嗚咽まじりの声が響いている。それが誰のものかは、すぐにわかった。

 ゼフィアーとトランスは顔を見合わせる。間もなく、二人とも手にしていたものを放り出して、扉を壊さんばかりの勢いで武器庫を飛び出した。ざわめきを確かめるまでもなく、階段を駆け下りる。何も考えず書庫の方に向かい――

「レビっ!?」

「どうし……」

 凍りついた。

 書庫のただ中で、レビがうずくまるように座りこんでいた。その両手が――仰向けにされたディランの頭を、裏から支えている。ディランの目が閉じていることは、遠目からでもわかった。そばには、厳しい表情のセシリアが膝をついている。

 トランスとゼフィアーが呆けていると、レビの涙にうるんだ大きな瞳が、二人を捉えて歪んだ。喚き散らすような勢いで、彼は叫ぶ。

「ふ、二人とも! どうしましょう! ディランが、ディランが……!!」

「落ち着いて」

 やわらかく、けれど冷静な声がレビをとどめる。セシリアだ。彼女は、レビに支えられたまま寝かされているディランの顔をのぞきこむ。続いて、手首に指を当てると、うなずいた。

「脈に大きな異常はないわ。熱も出ていない。けど……これは一体、どういうことかしら」

 深刻な女性の声を聞き、ゼフィアーとトランスも、ようやく冷静にディランの様子を見た。うめきながら、感覚の短い呼吸を繰り返している様は、どう考えても普通ではない。トランスは、冷たい目のままレビの前でしゃがんだ。

「おいレビ。何がどうなって、こういう状況になったんだ」

「ぼ、ぼくにもわかりません! と、突然で……ほんとに、いきなり、苦しそうにしたかと思ったら、倒れて……」

 レビは、必死で言った。もともと聡明な子であるし、説明しようという努力は感じられるので、辛うじて言葉は破たんしていない。けれど、実際は、泣きじゃくっているのと大差なかった。

 トランスはそれを咎めなかった。あまりに唐突すぎて、自分たちですら戸惑っているのだ。最年少の彼が不安に駆られないわけがない。男が頭をかく横で、ゼフィアーが、動揺を必死にこらえるような渋面をセシリアに向けている。

「ジエッタ殿は、不在か?」

「ええ。ちょうど、少し前に、巡回に行ってくる、と出ていかれたわ」

「そ、そうか。どうしたものかな……」

 そこへ、ノーグが顔を出した。目が細くて表情のわかりにくい彼にも、焦りが感じられる。

「とりあえずどこかに寝かせてやった方がいい。でも、俺じゃあ運べないよ。こいつ、見た目の割に重いから」

「それくらいは俺がやるさ。どこに行けばいい」

 言い出したのは、トランスだ。セシリアが顎に指をあて、考えながら、答える。

「本来なら医務室、と言うところだけど……。あそこは多分、もうすぐ仕事で怪我をした人たちが来て、騒がしくなってしまうわ」

「じゃあ二階だな。確かこいつ、私室あっただろ?」

 ノーグの言葉に、セシリアがうなずいた。トランスも、よし、と言ってディランの前にかがんだ。肩から彼を担ぎあげようとして――そこで、ささやきを聞く。男は眉をひそめた。耳をすますと、やはり声がする。気のせいではないようだ。

「……く……る、しっ…………」

 消えそうな、少年の声。かすかに意識が戻ったのか、うなされているだけなのかはわからない。それでもトランスは、言葉を返した。

「見りゃわかるよ。もう少し辛抱してくれや」

 なるべく淡々とした態度を装っていた彼は――しかし、次の瞬間、それを失う。


「割れ……砕け、そう…………なん……て、ことに……」


 息をのむ音が、やけに大きく聞こえた。全身が、固まってしまいそうになる。

 それでもトランスは、なんとか少年を背負う。なるべく急いで、けれど揺らさないようにしながら、階段をのぼった。

 のぼりながら、考える。冷え切ってしまった頭は、勝手に回った。

 今、こいつは、なんと言った。

 割れる。砕ける。ふたつの言葉は、男に、いつかの夜を思い出させた。オルークでの夜。暗い路地で、蒼白い顔をしていた彼も、同じことを言っていなかったか。

 ただの偶然かもしれない。けれど、突きあげてくる寒気をごまかせない。唇を噛んだトランスの耳に、新たな言葉が聞こえた。

「……い。……すまない、すまない……わた、し、は……」

「――ディラン?」

 呼びかけてみても、声は返ってこなかった。


 ディランの私室は、二階の端にあった。

 滅多に使われなくなった今でも、セシリアが定期的に掃除をしているおかげで、ちりひとつ落ちていない。そして、寝台ひとつと、机と椅子と、武器を立てるところくらいしかない、殺風景な部屋だった。かえって、少年の性格がよく表れているようにも、仲間たちには思えたが。

「本来、団員の中で家のない連中は、ひとつの部屋でまとまって寝るんだけどね」

 ディランを寝台に寝かせながら、ノーグが言う。三人を振り返り、頭をつついた。

「ほら。君たちも、あいつの事情、知ってるだろう?」

「それは、まあ」

 ゼフィアーが気の抜けた声を返す。けれど、ノーグは怒らず続けた。

「そういうこともあってさ。ひとりになって、じっくり考えられる場所があった方がいいだろうって、首領ボスがここをディランの私室にしたんだ。けど、旅に出てから帰省してくるときは、あいつもみんなに混じって寝ることがほとんどでね。ここを使ったのは久しぶり。――こんな形になるとは、思わなかったけど」

「まったくだ」

 トランスは思わず、ため息とともに吐き捨てていた。相変わらず呼吸の安定しない少年を、黙って、見下ろす。隣でレビが、はなをすすりながら、呟くのが聞こえた。

「実は、無理してたんでしょうか……。いろいろありましたし」

「そうかもしれぬな。聞いたところ、記憶の手がかりになるような出来事は、私と出会ったときの事件がほぼ最初だったようだし。色々感じたり、見えたりして、精神に負担がかかっていたのかも」

 子どもたちの会話は、沈んだ空気をまとっていた。

 扉があいて、閉まる音がする。ノーグが出ていったのだ。ばたばたと駆け去る音が聞こえる。

「首領に、知らせにいってくれるって」

 残ったセシリアが、やわらかくほほ笑んだ。それから、三人を振り返る。

「看病は、とりあえず私がするわ。あなたたち……どうする?」

 三人は、お互いの目を見た。

 どうする、と訊かれた。ということは、ディランが心配なら残っていてもいいし、無理せず下におりていてもいい、ということだ。

「けども、どこにいたところで、落ち着かないことには変わりないな……」

 ゼフィアーが苦々しく呟いて、トランスもうなずいた。

 どこにいても落ち着かない。ならば、なるべく目の前の女性に迷惑をかけない方がいいだろう。三人の考えは同じだった。うなずきあうと、代表してトランスが口を開く。

「俺たちは下にいることにする。何かあったら呼んでくれや」

「わかりました」

「……こいつのこと、頼んだ」

 彼が、声を潜めて頼みこむと、セシリアは「任せてください」と、あえて明るく胸を張ってみせた。


 部屋を出て、一階と二階をつなぐ階段をおりながら、トランスが最初に、ゼフィアーたちへ質問した。

「今までも、こういうことってあったのか?」

 二人は首をかしげた後、そのままかぶりを振った。レビが、つかの間目をつぶる。

「同じことがあったなら、ぼく、あんなに取り乱してないです」

「だよな。悪い、悪い」

 悔しそうであり、恥ずかしそうでもある少年ににらまれて、トランスが肩をすくめた。隣で、ゼフィアーが少し口もとを緩めたが、すぐ難しそうな表情に戻る。

 トランスもまた――階段の途中で足を止め、子どもたちを振り返った。

「なあ。二人とも、さっき、負担がどうのって話してただろう」

 彼らは、揃って目をぱちぱち瞬いていたが、少し前の自分たちの会話を思い出してうなずいた。

「したな。そういえば」

 ゼフィアーの言葉を受け――トランスは重々しく口を開く。

「俺としては、ディランが倒れた原因がそれだけには思えないんだよ」

 沈黙が流れた。ゼフィアーとレビは唖然としていたが、しばらくしてレビが聞き返す。

「どういうことです?」

 トランスは二人に背を向けた。階段を、とん、とん、とゆっくりおりていく。二人が慌てて後を追うと、彼は、歩みを止めずに口を開いた。

「今までは、ディランが言ってほしくなさそうだったから黙ってたけどな。

『破邪の神槍』とぶつかった日の夜、俺は外で、あいつと会ったんだ」

「外で?」

 ゼフィアーが驚きをあらわにする。対照的に、レビは目をみはっていた。あの日、ディランが部屋を出たことに気づいていたからだ。

「そのときのディランは、ひどいったらなかったぜ。真っ青で、目に覇気がなくて。死人みたいだった。傷が痛むのかって訊いたら、あいつ、首振ったんだよ。そうじゃない。夢を見ただけだって」

「夢?」

「そう。どんな夢だ、って質問したら、あいつ、変なことを言った。何も見えなくて、感じるだけの夢だったんだと。痛くて、苦しくて、悲しくて――砕けそう、そういう感覚を」

 言葉の終わりに、ゼフィアーの眉がぴくりと動いた。レビは訝しそうに彼女を見たが、トランスはあえて見なかったふりをして、続ける。

「でな。さっき、ディランを背負ったとき。同じ言葉を聞いたんだ。苦しい、割れる、砕けそうって」

 ゼフィアーとレビが息をのむ。そして、ゼフィアーが大急ぎでトランスを追ってきた。身を乗り出すようにして彼に問いかける。

「そ、それは……最初に聞いたのは、オルークなのだよな?ということは、つまり、カロクの槍を受けた日の夜、だな?」

 トランスが、そうだな、と言うと、途端にゼフィアーの勢いがしぼんだ。彼女は男の隣を歩きながら、うつむいて考えこむ。少女の目は板を捉えて動かなかったが、口はしきりに動いていた。

「砕けて? まさか……。いや、けども、そうするとレビの身に何もないことの説明が……」

 まるで、思い当たる節があるかのような独り言だ。トランスもレビも、驚いた顔で彼女を見た。トランスが、目つきも声も厳しくして、問う。

「ゼフィアー。ひょっとして、何か知ってるのか?」

 少女は弾かれたように顔を上げた。しばらく、何かに迷うようなそぶりを見せる。けれど結局は、ゆるゆるとかぶりを振った。

「すまない。思い当たるところはあるのだ。けども、確信が持てない。だから今は、あまり言いたくないのだ」

「……そうか」

 トランスは、謝罪のような彼女の言葉に短く返すと、それ以上は何も言わずに足を進める。こうもはっきり、「言いたくない」と言われれば、引き下がるほかなかった。


 三人が一階に戻ってしばらくした頃、ばらばらと、仕事に出ていた傭兵たちが戻ってきた。彼らは一様に、『家』に満ちる重々しい空気に首をかしげている。さらに、間もなく、ジエッタも戻ってきた。

 彼女は帰るなり、まっさきに二階へ行った。戻ってくると、すぐ三人に会った。階段の方をちらと仰いで、口を開く。

「セシリアいわく、倒れた直後よりは呼吸が安定してきたそうだよ」

「本当ですか?」

 女傭兵の言葉に、レビが目に見えて安堵する。けれど、ゼフィアーは厳しい表情のままでいた。「ジエッタ殿」と、呼びかける。呼ばれた方もまた、「わかってる」とうなずいた。

「実は、うちにいたときも、いきなり熱を出して寝込むことは何度かあったんだ。けど、今回みたいなのは初めてだねえ。一体なんなんだい、あれ」

「それがわからないんだよなあ」

 トランスが大きくため息をつく。

 また、誰もが黙りかけたとき。ゼフィアーが声を上げた。

「あの、ジエッタ殿! ディランのことを、聴かせていただけないだろうか!」

 ジエッタは、ん? と裏返ったような声を出しながらゼフィアーを見る。ゼフィアーは拳を左胸に当てて、言葉を続けた。

「ディランを拾ったのはあなたなのだろう? ディランがここに来た直後のこととか……その後の様子とか……そういう話が、聴きたいのだ」

「なるほど! 今なら、その話から何かがわかるかもしれませんね!」

 レビが、ゼフィアーの意図に気づいて、嬉しそうな声を上げる。それを聞いたジエッタも、相好を崩した。

「ああ、そうだね、そうかもしれない。

 それに、どのみち、あんたたちが弟子の旅に付き合う気なら、知っておくべきことだ」

 彼女はそう言い、にやりと笑う。遠回しな許可だった。

 短いやり取りの後、彼らは食事に使うテーブルの、端の方に集まった。傭兵たちがばたばたと動きまわる中、こぢんまりと固まる。あたりが大きくざわめいたときを狙うように、ジエッタは話の口火を切った。

「あたしがディランを……あの子を拾ったのは七年と少し前だ。その日は、どんよりと曇っててね。空がやたら暗かった。あの、青っぽい不思議な色の髪が、空の下によくえていたのを覚えている。

 当時から、記憶喪失のことを差し引いても、不思議な子だったよ」

 女の静かな声に導かれて、その場にいる者の意識は、過去へと滑っていく。

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