3.交わりの瞬間
「おやまあ、こうも見事に壊されると、逆に清々しくなるね」
元はひし形に穴が開いていた窓の木戸だが、今は文字通り粉々に砕かれ、丸裸になった窓から風がびゅうびゅうと吹きこんでいる。その有様を見て、女主人は苦笑した。反対に、客の少女は縮こまる。
「す、済まない。弁償はする」
「いいよそんなの。あんたがやったわけじゃないんだし、この程度ならそんなに金はかからない」
ひたすら恐縮する少女に、女主人はひらひらと手を振っている。
粉々に砕けた窓を元通りにするには、それなりに人手も材料もいるはずだ。「そんなに金がかからない」というのは優しい嘘の一種であろう。が、同時に、できる範囲のことは自分でなんとかする、という女主人のたくましさの表れでもあった。
「あたしはこれからいろいろ後始末するからさ。あんたはディランの隣の部屋でも使いなよ。今夜はもうお休み」
少女は何か手伝いたそうにしていたが、女主人の有無を言わせぬ態度に
廊下の
「あんたもだよ、ディラン」
「……手伝いしてて殴られたのは、さすがに初めてだ」
頭の痛みに顔をしかめ、少年は女性をにらみつける。しかし彼女はまったく動じない。三十も半ばに差し掛かる女主人は、力強い目を彼に向けると、細腕に似合わぬ力でもって、彼の手から壊れた扉を引きとった。
「客がいらんことを気にするんじゃない。当事者じゃないならなおさらだ。とっとと戻って寝ちまいな」
「はいはい」
きっぱりと手伝いを拒まれたディランは、両手を挙げて降参の意を示すと、素直に自分の部屋へ引き揚げた。
「……とはいえ」
寝台に
「あんなことがあった後じゃ、寝れもしないな」
今回のような、突発的な襲撃は初めてではない。自分自身が後ろ暗いことをして狙われたことはあまりないが、宿屋や馬車が強盗にあうことはままあるのだ。むしろ、今回の件は手早く片付いた方である。問題は、その後だ。
槍使いの目を見た瞬間の、強すぎる感覚は、今も頭に残ったままだ。あのとき閃きそうだった「何か」を
ディランはしばらく、目もとを手で覆って考え込んでいた。しかし、扉を叩く音に意識を引き戻されて、顔を上げる。薄い扉の反対側から、くぐもった声が聞こえた。
「少し、よいか?」
あの少女だ。何かをためらっているようにも思える弱々しい声音に、ディランはちょっと眉を寄せる。
「……ああ」
それでも少女を招き入れたのは、彼の心にひとつの決意があったからだ。
ゆっくりと外から扉が開かれて、少女がそろそろと入ってくる。栗色の髪は二つに束ねられてはいたが、三つ編みにはなっていない。彼女はディランの顔を見ると、左手を胸に当てた。いつかも同じ仕草をみた気がする。
「今夜はその、すまなかった。私の事情に、巻き込んでしまった」
昼間の堂々とした態度とはかけ離れた、どこか儚い謝罪の言葉。ディランはあえて、軽い態度でそれに応じる。
「気にしなくていい。同じ宿に泊まっていれば、そういうこともある」
それでも少女は困ったように眉を下げている。――ディランは思い切って言葉を続けようとし、けれど途中で思いとどまった。ひらりと手を振り、話題をそらす。
「そういえば、君とはなんか縁ができちゃったけど、自己紹介のひとつもしてなかった気がするな」
「へ?」
少女は目を丸くしたが、とりあえずは「そ、そうだな」と請け合う。彼女の戸惑いをわざと無視して、ディランは続けた。
「俺はディランだ。傭兵じゃないけど、それらしい依頼を受けて銭稼ぎしながら、あちこち旅をしてる。――君は?」
話を振ると、彼女は背筋を伸ばした。上官に声をかけられた軍人のように気をつけをして、名乗る。
「私はゼフィアー。ゼフィアー・ウェンデルだ。何をしているかというと……まあ、あてどなくふらふらしているだけなのだが……」
「へえ」
ディランは苦笑する。彼女の態度から、勝手に「自由気ままな放浪者」という人物像を描いていたが、あながち間違いでもなかったらしい。
ともあれ、ディランは、組んでいた足を解いて居住まいを正した。
「じゃあ、ゼフィアー」
「なんだ?」
「――カルトノーアまでの護衛、引き受けたいんだけど」
「ふぇ?」
ゼフィアーは間抜けな声を上げてディランを凝視する。それから、明らかにうろたえた様子で口を開いた。
「む、無理はしなくとも」
「無理じゃないさ」
彼女の言葉をさえぎると、ディランは真面目くさって言葉を続ける。
「俺も今回の件で、『連中』に顔を知られたんだ。その上ことごとく打ちのめしたからな。君と離れようが離れまいが、今後付きまとわれる可能性が高い。なら、一人より二人でいた方がいいだろ?」
ゼフィアーはうなずく。それでも何か言いたそうだった。それを察して、ディランは畳みかける。
「それに、ゼフィアーといた方が、俺も目的に近づけるかもしれない、と思ったんだよ」
少女の困り顔がようやく揺らいだ。興味深そうに身を乗り出してくる。
「目的?」
「ああ」
「それは、槍の人を見てびっくりしていたのと関係があるのか?」
「――鋭いな」
いきなり核心を突かれたディランはうめいた。飄々としている人ほど、意外と人を見ているものだ。わかっていたことだが、改めて実感させられた。
咳払いしたディランは、ひとり得心した様子のゼフィアーに、改めて問うた。
「というわけで。君の依頼、受けてもいいか?」
今度はゼフィアーも心を決めたようだ。昼間と同じ余裕のある表情になると、強く首を縦に振った。
「うむ。よろしく頼む、ディラン。それと」
少女は、自分の右手をディランに差し出す。
「私のことは、気軽にゼフィーとでも呼んでくれ」
思わぬ申し出に虚を突かれたディランは、ぽかんとしたが、すぐに相好を崩した。そして、己の左手を差し出して、小さな右手を握ったのである。
「わかった。よろしく、ゼフィー」
「うむ!」
――二人の放浪者の旅は、こうしてひとつになった。
長くて短い運命の交わりは、人を、世界を揺るがすことになる。
※
黒い衣服に身を包んだ彼は、仲間と別れ、ひとり郊外をうろついていた。手元の短槍を持ち直すと、見たばかりのものが脳裏にひらめく。
「あれは……いや、まさか……」
深く、力強い光を湛えた、海のような青。
見知らぬ少年の目に彼が重ねたのは、もう二度とまみえるはずのない存在の、眼差し。
憎しみとも悲しみとも――慈しみともつかない感情があふれる双眸を思い出し、彼はよろめきそうになった。
思いを振り払うようにかぶりを振って、得物を握り直す。
「もう後戻りはできぬのだ。私も――人間も」
言い聞かせるように呟いた彼は、足をもつれさせながら、消えない疑念を弄んでいた。そのとき、ふとある案が思い浮かぶ。
「私のくだらぬ憶測を、情報として奴らに売ってやるか」
もしかしたら、あの男の冷えた
戯れのような思いつきで、揺らぐ心をごまかした男は、ふらふらと頼りない足取りで闇の中へ消えていった。
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