(15)桜査警公社の実情
「お待たせしました」
「おう、戻ったか」
座敷に戻ると、先程までと変わらず上機嫌な加積と、明らかに不機嫌な秀明に出迎えられた。すると加積が美子に向かって声をかけながら、座ったまま軽く頭を下げてくる。
「それでは美子さん。大したもてなしができなくて悪かったが、迎えが来た以上、無闇に引き止めるのも申し訳ない。今日はわざわざ我が家に出向いて貰って、感謝している」
「いえ、こちらこそ、色々お気遣いありがとうございました」
「そうか。それでは改めてプレゼントした物については、依存は無いかな?」
「おい、美子」
「はい。頂いていきます。ありがとうございました」
「っ!! この馬鹿!」
「え? 何よ?」
何やら秀明が言いかけたが、美子はそれに気が付かないままユニフォームについての礼を述べて頭を下げた。しかしその途端、何故か秀明が苦虫を噛み潰したかの様な顔になる。しかし加積はそれに構わずに、話を続けた。
「そうか。喜んで貰って良かった。譲った甲斐があったと言うものだ。ところで、この男の車は廃車にした方が良い有り様だから、うちの車で送らせよう。桜、土産を忘れずに持たせろよ?」
「まあ、何を言ってるのよ。当然よ」
(良かった。これで帰れるわね。だけどこの人、どうして変な、悔しそうな顔をしてるわけ?)
ころころと笑う桜が早速部屋を出て、土産の準備をしている間、美子が秀明の表情を窺うと、何故か彼の眉間には深い皺がくっきりと刻まれており、美子は密かに困惑していた。
そして土産を入れた紙袋を桜から受け取った美子は、晴れ晴れとした気持ちで用意して貰った車の後部座席に乗り込み、玄関まで出て見送ってくれた夫妻に手を振って、加積邸から出て行った。
「それでは、藤宮様のお宅に向かいます」
「お願いします」
運転手がかけてきたお伺いの声に機嫌良く答え、開放感に浸りながら背凭れに身体を預けると、横に座っている未だに不機嫌極まりない男が、地を這う様な声で問いを発した。
「……おい、美子」
「何よ?」
怒りを内包した声音に、思わず刺々しく返してしまうと、秀明は更に不機嫌さを増した声で、尋ねてきた。
「お前……、あのじじいから何を貰ったのか、分かってないだろう?」
「失礼ね。勿論知ってるわ。さっき着ていたネーム入りの、日本代表チームユニフォームのレプリカよ」
「そんなわけ」
「ぶふぁっ!!」
「え?」
そこで勢い良く噴き出す音が聞こえて、美子は面食らった。どう考えても運転席で生じた異音に美子が戸惑っていると、運転手が前を向いたまま、バックミラー越しに真顔で謝罪してくる。
「誠に申し訳ございません。風邪気味なもので、大変失礼致しました」
「はぁ……」
(何事? 私、別に笑われる様な事を言ったりしたり無いわよね?)
どう考えても笑うのを堪えて失敗した様な素振りを見せた運転手に首を捻り、秀明の意見を求めようとして、美子は迂闊すぎる事に、ここで漸く彼の状態に気が付いた。
(なんだかこの人、顔色が悪くないかしら?)
拳を避け損なったのか、口の横が横が僅かに腫れて、口の中でも切れたのか口元に少し血が付いている上に、ジャケットのボタンが無理に引きちぎられた様に一つ外れていて、肩の縫い目も僅かに解れていた。更によく見てみると、僅かに乱れた前髪の下の額には、うっすらと脂汗の様な物が滲み出ており、恐る恐る声をかけてみる。
「江原さん? 今、気が付いたんだけど、怪我をしているのよね? 警官とお屋敷の人相手に、乱闘していたし」
その台詞に、秀明は如何にも皮肉っぽく言葉を返した。
「へえ? 今頃気が付いたか。大した観察眼だな。大した事は無いから気にするな」
流石にその物言いには腹を立てたものの、確かに自分が迂闊過ぎた事は理解していた為、ぐっと怒りを堪えて質問を続ける。
「大した事は無いって……。どれ位の怪我か、自分で分かっているわけ?」
「経験上分かる。骨折も脱臼もしていない。打撲による鬱血と腫れが五ヶ所、左足首の捻挫と……。折れてはいないまでも、この痛みだと、肋骨にひび位は入ったかもしれんが」
「ひび、って……」
冷静に分析された内容に美子は瞬時に真っ青になり、大慌てで運転席に身を乗り出す様にして頼み込んだ。
「あの、すみませんっ!! 行き先を変更して、家じゃなくて病院へお願いします! あ、外科がある所で!」
「畏まりました」
「おい、真っ直ぐ藤宮家に」
「怪我人は黙っていなさい!」
「藤宮様のご希望に沿う様に、申し付けられておりますので」
「……勝手にしろ」
美子に叱り付けられ、運転手には丁寧に拒絶された秀明は、半ばふて腐れて腕を組んだまま窓の外に視線を向けた。そして引っ張って行った病院で、取り敢えずの処置を済ませた秀明を連れて、美子は無事夕刻になってから帰宅した。
「ただいま戻りま」
「とにかく上がれ。話を聞かせて貰う。美実達は絶対に一階に下りて来ない様に厳命してあるからな」
「はい……」
(機嫌が悪い……。確かにちょっと行ってくるって言った割には、遅くなったけど、病院で簡単な事情と帰宅予想時間を知らせるメールを打っておいたのに)
鍵を開けて玄関に入るなり、上がり口に仁王立ちで待ち構えていた昌典に、美子は少々うんざりしながら上がり込んだ。それに秀明も無言で続いたが、昌典に続いて入った座敷内にいた人物を見て、美子は少し驚いて目を瞬かせる。
「小早川さん?」
するとどうやら美子達の帰宅を待ち構えていたらしい淳は、二人の姿を認めると勢い良く立ち上がり、怒りの形相で秀明に詰め寄った。
「秀明!! てめえ、駐車スペースを聞くなりキーを引ったくって、スーツケースとビジネスバッグを放り出していくとは、どういう了見だ?」
「ちゃんとお前が回収しただろう?」
「あのなぁっ!!」
飄々と言い返した秀明に掴みかかろうとした淳を、美子が慌てて彼らの間に割り込みながら制止する。
「ちょっと待って小早川さん! この人、怪我をしてるから!」
「怪我? 確かに何だかヨレヨレだな。何をやった?」
「屋敷の門に車を突っ込ませて敷地内に乱入して、スピード違反で追ってきた警察官と排除しようとした屋敷の人間と、三つ巴の乱闘になっただけだ」
そんな物騒極まりない事を口にした秀明をしげしげと見てから、如何にもお手上げと言った感じで、淳が肩を竦めた。
「相当ぶっ飛ばしたな、お前。電車でここに直行した俺より遅かったのは、すったもんだした後に病院に寄って来たのか?」
「俺は良いと言ったのに」
「黙りなさい!」
「とにかく三人とも座れ。話が始まらん。美子。まずお前から、簡潔に流れを説明しろ」
「ええと、それが……」
昌典の鶴の一声で全員が座卓を囲んで座り、言われた通り美子が説明を始めた。
そして着物の話からコスプレの話、更にサッカーの話に移った所で、男達の疲労感満載の溜め息が漏れる。
「どうしてそこで、ユニフォームに釣られる……」
「その場面で、一球も外さないところが凄いな」
「…………」
それから秀明が庭に乱入し、加積があっさりと警官達を追い払ってから、思わず美子がしてしまった暴挙についても包み隠さず話すと、昌典と淳から、秀明に憐憫の眼差しが向けられた。
「……それで、ノーメイクで戻ってきたと?」
「そういう扱いは初めてだよな? 秀明」
「…………」
更に再度着物に着替えながらの、桜との友人関係樹立に話が及ぶと、昌典と淳は、はっきりと見て分かるほどに脱力した。
「本当に、お前と言う奴は……」
「美子さんって、ガードが堅いのか緩いのか、全然分かりませんね」
「……単なる考え無しだ」
ボソッと告げられたその言葉に、流石に美子は声を荒げて言い返した。
「何ですって!? だって愛人と友人の二択なのよ? 友人を選ぶのは当然でしょうが!?」
「それもあるが! 俺が言っているのは、レプリカユニフォームのつもりで、桜査警公社を貰った礼をサラッと言ってしまった件だ!! あっさり言質を取られやがって!!」
「桜査警公社だと!?」
「ちょっと待て秀明!! どういう事だ?」
ドンッと力任せに座卓を拳で叩きながら秀明が喚いた内容に、昌典と淳が劇的な反応を示した。しかし一人意味が分かっていない美子が、怪訝な顔で三人に向かって尋ねる。
「桜査警公社? この前小早川さんに見せて貰ったリストの中に、そんな社名があった気がするけどどんな会社? それに貰ったってどういう事?」
その疑問に、昌典は舌打ちせんばかりの苦々しい表情で口を開いた。
「桜査警公社の名前は、世間一般にはあまり知られていない。宣伝などは一切していない、非上場企業だしな」
「でも規模も売上高も、半端ないんですよ。口コミや紹介が引きを切らないので」
「あら、優良企業なのね。どんな会社なの?」
昌典に引き続いて淳も硬い表情で説明を加えたが、美子は率直な感想を述べつつ、更なる説明を促した。それに男達が顔を見合わせて溜め息を吐いてから、再び話し始める。
「信用調査部門と防犯警護部門に大きく分かれる」
「信用調査部門は、個人や組織の内偵調査や第三者評価機関。防犯警護部門はセキュリティーに関するシステムやグッズの開発及び、私的ボディーガードの養成と派遣業ですね」
「随分真面目な業務の会社なのね」
「一見そうだがな」
「先の戦後すぐに、軍の調査機関の中枢にいた人物が、軍の資金と機密文書を抱えながら当局からの追究をうまく逃れて設立した会社が元々の組織で、その後、政財界のお偉方と付かず離れずの距離を保ちつつ規模を拡大させてきたという、いわくが有りすぎる会社だ」
「その時々の依頼以上の成果を上げて、密かに掴んだ情報を元に、何かにつけて政財界を揺るがしてきたという噂が無ければ、超が付く位、堅い優良企業なんですけどね」
「噂じゃなくて事実だ。あそこのデータベースには、政財界のお歴々のこれまでの暗躍、謀略、内密の証拠の数々が眠ってる筈だしな。ちょっとつつけば、日本中が蜂の巣をつついた騒ぎになる事請け合いだ」
男達が語る、一気にきな臭くなってきた内容に、流石に美子も顔を強張らせた。
「……ちょっと面倒な会社みたいね」
「かなり面倒な会社だ」
「障らぬ神に祟りなしです」
「それなのに、あっさり言質を取られるとは……。あれほど言っておいたのに」
「だから! どうして私が貰う事になるのよ!」
両手で頭を抱えて座卓に突っ伏した父親から視線を逸らし、美子は秀明に噛み付いたが、秀明の説明は容赦無かった。
「あのクソじじい、自分が年を取ったからいつポックリ逝っても周りが困らない様に、自分が十分影響力を保持しているうちに、手中に収めている二十数社を業種毎に八分割して、自分が選んだ八人に引き継ぎさせる事にしたらしい。概ねすんなり決まったらしいが、これだけ単業種単独で残っていたそうだ」
「あら、人気が無いの?」
「逆だ。利用価値が有り過ぎて、他の七分野を引き継いだ七人を筆頭に、その他の耳聡い奴らが『そこを自分に任せてくれ』と売り込みが凄くてうんざりしていたらしい。それで『桜が気に入ったし、美子さんに任せる。お前がフォローすれば良いだろう。嫌なら彼女は返さないで、今後は俺が会社と同様彼女も面倒を見る事になるが』と、薄笑いしながら言いやがった」
「…………」
「ええと? 要するに?」
途端に静まり返った室内の気まずい沈黙を打ち消す様に、美子が確認を入れてみた。すると秀明が冷静に補足説明する。
「愛人じゃなくて友人やりたいなら、この会社の非公開株を黙って譲渡されとけって事だ。発行済み全株式九十%の桜夫人名義の株がお前に、同じく七%の加積名義の株が俺に譲渡されて、お前が夫人の代わりにオーナー兼会長。俺が加積の代わりに社長に就任する」
「…………」
「お前、旭日食品を辞めるのか?」
再び静まり返った室内の沈黙を、次に破ったのは淳だった。その問いかけに、秀明が淡々と答える。
「社内規定では、同業他社の業務に関する事以外では、副業をしても差し支えない事になっている」
「確かにそうだが……、それは兼業農家で休日に農作業をするとか、繁忙期に実家の小売業の運送や経理を手伝うとかを前提にしていて、社長職を兼任とかは……」
ぼそぼそと常識的な事を呟く昌典に、秀明は全く面白く無さそうに説明を続けた。
「何でも実質的な経営判断は、今までも全株式の三%を保持している副社長が担っていたらしいので、俺が他社で勤務していても、一向に構わないそうです」
「……それは良かったな」
「文字通りの、サラリーマン社長様かよ」
「それでこれが、桜査警公社の経営資料です」
「…………」
そこで秀明が加積から渡されて、ここまで持参してきた封筒の中身を取り出し、昌典と淳に見える様に向かい側に押しやった。それを捲りながら覗き込んだ二人は、何とも言えない表情で黙り込む。
「どうかしたの?」
怪訝に思いながら美子が問いかけたが、昌典は首を振って匙を投げた。
「もう、何も言わん。正式な譲渡手続きの時にでも、説明はあると思うから、きちんと聞いて来い」
「秀明……、親友止めて良いか? 以後は単なる同窓生って事で」
「好きにしろ」
呆れ果てたと言わんばかりの淳に、秀明が素っ気なく言い放つ。そんな男達の態度を見ただけで、事が相当面倒になっているらしいのは、美子にも察せられた。
(何か、もの凄く困った事でもあるのかしら。凄いしかめっ面なんだもの)
刻一刻と顔付きが険しくなっている様に見える秀明に、少々怖気づきながら様子を窺っていた美子だったが、ここで昌典が話を終わらせた。
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