(2)鬼の居ぬ間に触手
姉妹の間でそんな会話がされた翌日の、倉田家を訪問しての帰り道。最寄駅への道を歩きながら、美子は溜め息を吐くのを止められなかった。
(俊典君の事がお祖父さんにばれていなかったのは良かったけど、照江叔母さんの気落ちぶりは、見ていられなかったわね。まだまだ長引きそうだけど、大丈夫かしら?)
久しぶりの孫娘の来訪を、病床にある祖父の公典は手放しで喜んだが、暗い顔で申し訳なさそうに出迎えてくれた照江には、美子は却って申し訳なさを感じてしまった。
(それにしても失敗したわ……。この季節に合うからと思って、うっかり形見分けしたばかりのお母さんの着物と帯で出向いてしまって。叔母さんが覚えていて『美子ちゃんに失礼な事をして、亡くなった深美さんにも申し訳が立たない』って号泣しちゃうし。本当に最近、やる事なす事何をやってるのかしら、私? 昨日美恵にも、発破をかけられたばかりだって言うのに)
そんな事を考えながら、両手で軽く両頬をペシペシと叩いて密かに気合を入れていると、視線の先に見知らぬ老婦人が現れた。しかし彼女を見るともなしに眺めた美子は、思わず内心で首を捻る。
(この寒いのに、歩きながらソフトクリーム? そんなに好きなのかしら? 確かに今日は風も無くて冬にしては寒く無いけど、季節感がちょっと……。せめて温かい店内で食べれば良いのに)
歩道の向こう側から手にソフトクリームのコーンを持った和装の女性が、上機嫌にそれを舐めながらこちらに向かって歩いて来るのを認め、美子は彼女に道を譲ってすれ違おうとしたが、その瞬間自分の横で小さな悲鳴が上がった。
「あら、きゃあ!」
「え? はぁ!?」
トスッと軽く何かを身体を当てられる感じがして、足を止めた美子が何気なくそちらの方に顔を向けると、先程の老婦人がよろけでもしたのか、美子の着物の左肩辺りに手に持っていたコーンを押し付けながら、狼狽していた。
「まあまあまあ、どうしましょう!? 他人様のお召し物を汚してしまうなんて!?」
(申し訳ないと思っているなら、一刻も早くそのコーンを着物から離して欲しいんですが!?)
おろおろしながらも動揺している為か、自分の着物にべったりとソフトクリームを押し付けているコーンから一向に手を離さないその女性に、美子は珍しく本気で切れそうになった。
「あのですね」
思わず声を荒げかけたその時、すぐ横の車道に急ブレーキの音が響き渡り、美子の抗議の声を打ち消した。思わず何事かと彼女が目を向けると、五十代ほどに見えるダークグレーのスーツ姿の男性が慌てた様子で運転席から降り立ち、車を回り込んで歩道に駆け寄る。
「奥様! どうなさいました!?」
「ああ、掛橋、大変なの! こちらのお嬢さんの着物に、ソフトクリームが付いてしまって!!」
狼狽したまま訴える老婦人に、掛橋と呼ばれた男は深々と溜め息を吐いてから、冷静に指摘した。
「ですから座ってお食べ下さいと申し上げましたでしょう、と苦言を呈したい所ですが、まずはそのコーンから手をお放し下さい。こちらの方のお着物への、処置ができません」
「あら、そう言えばそうだったわ」
軽く目を見開いて女性が手を離すと、掛橋は無言のままコーンを取り上げた。そのやり取りを聞いた美子は、怒りも忘れて半ば呆れ返る。
(そうだったわ、じゃあ無いでしょうが。何? このテンポのずれたおばあさん。物凄い深窓のおばあちゃんなの?)
掛橋はそのコーンを女性に渡すと、次にポケットから皺一つなくアイロンがけされて折り畳まれた白いハンカチを取り出し、それを広げながら美子にお伺いを立ててきた。
「お嬢様、失礼致します。取り敢えずクリームを取って、汚れた所を拭いてみますので」
「あ、はい……。宜しくお願いします」
取り敢えずこのままでは歩けない事は分かっていた為、美子は素直に頷いた。すると掛橋は、まず盛り上がっているクリームを全部、器用にハンカチに包み込む様にして取り去り、自分の主人らしき女性に渡した。それで終わりでは無く、更に同様のハンカチを取り出し、少しづつ軽く叩いたり拭き取って、染みを取り去って行く。
(ええと……、この人、ハンカチを何枚持ってるのかしら?)
次々と白いハンカチを取り出して四枚目を使い終えたところで、掛橋は美子に向かって深々と頭を下げて謝罪してきた。
「奥様が大変ご迷惑をおかけした上、失礼致しました。取り敢えず汚れを拭き取ってはみましたが、染みになってしまうと思います。こちらで弁償をさせて頂きたいのですが」
真摯にそんな事を申し出られて、美子は却って恐縮した。
「いえ、そんな大層な物ではありませんし、結構です。母の形見の古い着物ですし」
しかしその場を宥めようとして美子が口にした台詞は、更なる事態の悪化を招いた。
「まあぁ!? 掛橋、どうしましょう!? 私ったら大切なお母様の形見の着物に、何て事をしてしまったのかしら!!」
「あの、ですが」
目に見えて狼狽える女性を美子は慌てて宥めようとしたが、それより先に掛橋の情け容赦ない指摘が入る。
「本当に、粗忽で無神経で傍若無人な奥方だと、世間様から後ろ指を指されかねません」
「そんな……。酷いわ、掛橋が冷たい」
「旦那様に報告したら十倍は言われますから、少しでも耐性を付けておいて下さい」
(何なの? この男の人、『奥様』って言ってる割には、結構物言いがきつくない?)
女主人である女性が涙ぐみ始めても、冷ややかな視線を送っている掛橋に美子は混乱しつつ、何とか事態の打開を図ろうと声をかけた。
「あ、あのですね? 本当にこんな着物は幾らでもありますので。普段着みたいな物ですし。そんなにお気になさらなくても宜しいですよ?」
しかしその申し出に、女性が些か哀れっぽく反論する。
「そう言われましても……、このままお嬢さんをお帰ししたら、見ず知らずのお嬢さんに何て失礼な事をしたと、私が主人に怒られてしまいます。是非とも弁償させて下さい」
それを聞いた美子は、若干顔を引き攣らせつつ、掛橋の顔色を窺った。
「その……、今のは無かった事にして、ご主人に黙っていると言う選択肢は」
「ございません」
「……みたいですね」
「お願いします。弁償させて頂けませんか?」
(何か、変な人と係わり合っちゃったわね)
謹厳実直に即答した掛橋の言葉に項垂れ、再度女性に懇願されてしまった美子は、完全に抵抗を諦めた。
「分かりました。それではそちらのお気が済む様にして下さい」
その途端に喜色を浮かべて、女性が美子の手を握って礼を述べる。
「ありがとう! それではわざわざ出向いて頂くのは申し訳ないので、行き付けのお店に声をかけて、そちらのご都合が良い時に担当の者がご自宅に採寸に伺う様に手配しますね?」
「そういう事ですので、誠に申し訳ございませんが、こちらにお名前とご住所と電話番号をお願いできますでしょうか? 私共の連絡先もお知らせしますので」
「はぁ……、分かりました」
(ちょっと変な人達だけど、こんな高そうな車に乗っているし、着ている物も立ち居振る舞いも洗練されているし、教えても支障は無いわよね?)
掛橋が手渡してきた手帳に、美子がボールペンでサラサラと必要な事を書き記すと、相手も連絡先を書いたページを切り取って美子に手渡した。そして幾つかの短いやり取りの後、掛橋に促された女性がマイバッハの後部座席に乗り込んでから、笑顔で美子に向かって軽く頭を下げる。
「それでは藤宮さん、後ほど担当者から連絡させますから」
「はい。お気遣い頂きまして、ありがとうございます」
そして車が走り去るのを見送った美子は、溜め息を吐いてから手元の用紙を見下ろした。
「何か、嵐みたいな人達だったわね……。加積桜さん、か」
そして相手の名前を確認した時、先程から何となく感じていた違和感に漸く気が付く。
(あら? そう言えばあの人達、私の名前を書き記した物を見た時、「ふじみや」とか「ふじのみや」とか読まずに、最初から「とうのみや」って読んだわね。こちらから名乗る前に一度も間違えずに読まれたのって、これまでの人生で初めてじゃないかしら?)
普段であればその理由を深く考えたかもしれない美子だったが、その時何となく失調気味だった彼女は「変わっている人だから、感性も変わっているのかもね」とあっさり流してしまい、そのまま家路についたのだった。
同じ頃、走り去った車内では、桜が満足そうに運転席に向かって話しかけていた。
「ふふっ……、どうだった? 掛橋」
「取り敢えず、怪しまれなかったのでは無いでしょうか? 奥様の事を危険性の無い、世間ずれした深窓の奥方とでも認識して頂けたのではないかと」
取り敢えず無難な返答をした掛橋に、桜がくすくすと笑いながら満足そうに呟く。
「計画通りね。一緒に話を聞いたうちの人もあの子には興味を持ってるし、余計な男が居ないうちに、無理なく自然な形で事を進めていきましょう」
「藤宮様にとっては、とても不自然な形だと思われるのですが……」
そんな呟きを桜が気にする筈は無く、彼女は後部座席で年齢にはそぐわない、若々しくて楽しげな笑い声を上げた。
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