(5)魔のゴール

「今日は、貴重な一家団欒の場にお邪魔しまして、申し訳ありませんでした。そういえば美子さんは先週『気分転換する時には、お茶を立てたり書道をする』と仰っていましたから、今日の様に姉妹が揃っているお休みの日には、全員でお茶を立てたりするんですか? なかなか華やかで、藤宮さんには目の保養になりそうですね」

 秀明としては最後に和やかになる話題を出してから辞去しようと、何気なく口に出した内容だった。しかし何故かそう口にした途端、室内が困惑した空気に包まれる。


「気分転換に、お茶?」

「確かに、美子姉さんは心得があるけど」

「それって……」

「そういう事もしますが」

「美子姉さんの一番のストレス解消法は、サッカーですよ?」

「ちょっと美幸!」

 キョトンとした顔付で美幸が口にした内容に、姉達は密かに慌てた。対する秀明は虚を衝かれ、咄嗟に問い返す。


「美幸ちゃん、今、なんて言ったのかな?」

「だから、サッカー。美子姉さんは凄く上手なの。庭にゴールポストもあるし」

 正直に答えてしまった美幸の横で、美野は思わず頭を抱えた。秀明が姉妹の並びに視線を走らせ、無表情な美子の所で視線を止めてから、興味深そうに頼んでくる。


「ふぅん? それは凄い。是非お庭を拝見したいな」

「…………」

「それなら美子、白鳥さんを庭にご案内して差し上げなさい」

 美子はその要請を無視したが、父から笑いを堪える表情で促され、溜め息を吐いてから立ち上がった。


「分かりました。ついて来て下さい」

「恐縮です」

 苦虫を噛み潰したような表情の美子に続き、秀明が楽しそうに腰を上げる。


「私も行く!」

「あ、ちょっと美幸! 少しは遠慮しなさいよ!」

 それを見逃すつもりはない彼女の妹達も後に続き、総勢六人で庭へ向かった。

 廊下を進んで玄関でフラットシューズを履き、木造の母屋を回り込んで庭へと向かった美子だったが、先導しているにも係わらずひたすら無言を貫く。その代わりに彼女のすぐ後ろを歩く秀明と、彼と並んで歩いている物怖じしない美幸が、賑やかに言葉を交わしていた。


「あのね、美子姉さんは凄くサッカーが好きで、女子高だったからそれまで学校にサッカー部が無かったのに、人を集めて先生にお願いして作っちゃったんだって!」

「それは凄いね」

「でしょう? それでね? その時のチームメイトの人達とは、今でも凄く仲良しなの」

「それはよほど充実した、楽しい時間を過ごせたって事だよね」

「そうだよね。私にも、そんなお友達ができるかなぁ」

「美幸ちゃんなら、大丈夫だと思うよ?」

「ありがとう。白鳥さんにも素敵なお友達、一杯いそうだよね?」

 にこにこと言ってきた美幸に、秀明は何を思ったか苦笑いした。


「友達……、も居るけど、弟分の方がたくさんいるかな?」

 それを聞いた美幸は、ちょっと考え込む。


「弟分? 弟みたいな人?」

「うん、だけど妹みたいな存在は居なくてね。美幸ちゃんのような可愛い子が、妹になってくれたら嬉しいな」

「はい! 妹に立候補します!」

(だから美幸……、あんたはさっきから、何をヘラヘラと懐いているわけ!?)

 自分の背後で美幸が勢い良く右手を上げた気配を察し、美子の不快度が一気に増加した。美子は妹を叱り付けたいのを我慢しつつ建物の角を曲がり、背後を振り返った。そして秀明に、目の前に現れた庭を手で示しながら説明する。


「白鳥さん、こちらになります」

 そこで秀明は、自分の位置から見ると縁側に沿って奥行きが約20m、幅が約10m程の日本庭園に目を向けた。しかし手前にあるひょうたん型の池の向こうに配置された石や小さな築山、植えられている低木や植え込みなどしか確認できず、当惑した顔で美子に問い返す。


「美子さん? 普通の和風の庭にしか見えませんが。どこにサッカーゴールがあるんでしょうか?」

 それに対し、美子は落ち着き払って向こう側の塀を指差しつつ、事も無げに告げた。


「塀に接して設置してありますので、注意して見ていただけますか? バーの色は本来なら白ですが、周囲や背後に溶け込むように茶色に塗ってあります。この家は数寄屋門に合わせて、石積みの上に板塀を巡らせてありますので」

 秀明が注意深く目を凝らしてみると、確かに向こう側の塀に接するように、木々の間に茶色の棒状の物が確認できた。それで秀明は若干顔を引き攣らせつつ、その全体像を推察して一応確認を入れる。


「分かりました。ですが公式の物と、サイズがかなり違うようですが」

「地面からクロスバーまでの高さは、公式の場合と同様2.44mにしてありますが、場所が場所ですので2本のポストの間隔は本来の半分の3.66mにしてあります」

「因みにどこからどう狙って打つのか、教えて貰えませんか?」

「打つのは、この池の手前の芝生の所からです。ここからだとゴールまでの距離が大体16から17mですから、ペナルティーエリアの端から蹴り込むのと同じ感覚になります。ですがそこからだと直線では狙えないので、蹴る時は上か左右に曲げます。あくまで真っ直ぐで狙いたければ、池の端の置き石の所に異動して、仰角約10度で、あそこの岩と岩の隙間を通すように狙って下さい」

「……本当に、可能なのですか?」

 奥を指差しながら淡々と説明する美子に、秀明はもの凄く懐疑的な目を向けた。それに美子が不愉快そうに顔を顰めながら何か言おうとした時、母屋の縁側に現れた昌典が、彼女に呼びかけてくる。


「美子、すまんがちょっと良いか? 相楽さんからお義父さんの法事について確認の電話がきたんだが、良く分からない事があってな」

「分かりました。今行きます」

 父親に返事をした美子は、妹達を振り返って指示を出した。


「美野、美幸。悪いけど私が戻るまでに、物置からボールをあるだけ持って来てくれない?」

「分かったわ」

「取って来るね」

「ちょっと失礼します」

 一応秀明に頭を下げて美子が今来た道を戻って行き、後を追うように美野と美幸もその場を離れる。手持ち無沙汰になった秀明が何となく庭を眺めていると、背後から楽しげに声がかけられた。


「ねえ、白鳥さん」

「はい、なんですか? 美恵さん」

「あんなに地味で、見栄えのしない姉さんなんかのどこが良いの? 悪い事言わないなら、私にしておきなさいよ」

 いつの間に近寄って来たのか、どことなく媚を売る目つきで至近距離から見上げてきた美恵を、秀明は冷静に見下ろした。しかし、すぐに笑いを堪える表情になる。


「『姉さんなんか』ときたか。自虐趣味があるみたいだな。『なんか』呼ばわりされる人間より、下の人間だと思われたいとは」

 秀明の言わんとする事をすぐに理解した美恵は、瞬時に眦を吊り上げた。


「私が、姉さんより下だとでも言いたいの?」

「そう言ったつもりだったが。自虐趣味があるわけではなくて、単に頭が悪いだけなのか?」

「なんですって!?」

「生憎と、君程度の女に不自由はしていないんだ。悪いね」

「…………っ!」

 無遠慮に相手を上から下まで眺め回し、全く体裁を取り繕わずに言い切った秀明に、美恵は怒りのあまり顔を紅潮させた。しかし何か言い返す前に、少し離れた場所から哄笑が沸き起こる。


「くふっ……、ぶぁっはははっ!!」

「美実! 何盗み聞きしてるのよ!?」

 腹を抱えて爆笑している妹に、美恵は噛みついた。しかし美実は、目尻の涙を拭いながら正論を述べる。


「盗み聞きもなにも、人の目の前で勝手に茶番劇をやったのはそっちじゃない。頭が悪いって言われても、反論できないわね」

「あんたね!」

「おっまたせ~!」

「あら、美子姉さんはまだ戻ってないのね」

 ここでサッカーボールがたくさん入ったネットを持ち上げながら、美野と美幸が戻って来た。それに従い、二人の言い合いも終了となる。その間、秀明は面白そうに姉妹のやり取りを眺めていたが、美野達と前後して美子も戻って来た。


「ありがとう、美野、美幸」

 妹達に礼を言い、地面に置いてあるネットからボールを一つ取り出した彼女は、それを持って芝生の場所に移動した。


「それでは白鳥さんに信じて貰えるように、ここから入れてみますね」

「それはどうも」

 振り返った美子に、秀明は恐縮気味の笑顔を向ける。しかし美子はすぐに視線を逸らし、足元のボールを無言で見下ろした。そしてマーメイドラインのフレアースカート姿にも係わらず、気合いを入れて右足を後方に振り上げ、勢い良くボールを蹴り出す。


「はぁぁっ!」

 美子の掛け声に押されるようにボールは右上方に弧を描いて飛んでいき、手前の松の上を越えてから若干角度を付けて左下方に曲がり、見事なループシュートになった。そのボールがゴール内に飛び込んだのが、木々の間から何とか見て取れた秀明は呆気に取られたが、美恵達はそれを見て平然と語り合う。


「相変わらずね」

「ホント、規格外」

「美子姉さん、凄いわ」

「もう一回やってみせて?」

 ウキウキとおねだりしてきた美幸に、美子は笑いながら答えた。


「今度は白鳥さんがやってくれるわよ」

 そこで美子は秀明に向き直り、一見無邪気に見える笑顔を向けた。


「やって見せて頂けますわよね? 白鳥さん?」

 彼女の皮肉を含んだ台詞に、秀明は常とは異なり口先だけでこの場を回避する気にはなれず、その挑発を受けて立った。


「ボールをお借りします」

 彼が残っているボールに手を伸ばすと、少し離れた所で姉妹が言っている内容が聞こえてくる。


「姉さんの挑発に乗るなんて、意外と馬鹿だったのね」

「それなりに自信があるんじゃない?」

「あの、でも……、さすがに普通の人には」

「頑張れ~! 白鳥さ~ん!」

「言っておきますが、あの手前の松は両親の結婚記念に植えた物ですので、くれぐれも当てないようにお願いします」

「……気をつけます」

 さり気なく美子に釘を刺された秀明は、僅かに顔を歪めつつ、庭を挟んで反対側の塀を凝視した。


(軽くプレッシャーをかけてくるか。正直、サッカーは久し振りだが……)

 秀明が自身の革靴と芝生に置いたボールに目を落としていると、彼の内心の困惑を読み取ったように、美子が静かに声をかけてくる。


「初めての白鳥さんには難しいでしょうか? やはりお止めになりますか?」

 嘲笑ではない、淡々としたその口調に、秀明は却ってプライドを刺激させられた。


「いえ、せっかくなので、試させて貰います」

「そうですか。それではここに七個ボールが残っていますので、気の済むまでお使い下さい」

 そう言ってから数歩下がり、美子は傍観する態勢になった。それを見た秀明は、完全に腹を括る。


(ここで引くわけにはいかないな)

 上着を脱ぎ、一番近くに居た美恵にそれを預けた秀明は、自分なりにコースを考え、勢い良くボールを蹴った。


「いけっ!」

 しかし比較的抜けやすいと思った空間を左カーブで抜けるかと思ったボールは、上手く曲がりきれずに奥まった所にある低木の茂みの中に突っ込み、派手に枝が折れる音が聞こえてくる。


「しまった……」

「あぁぁぁっ! 私のアベリアがぁぁっ!」

「え?」

 いきなり背後から美幸の悲鳴が聞こえ、秀明は悪態を吐くのも忘れて反射的に振り返った。すると美実が、苦笑しながら解説してくる。


「今、ボールが当たって枝が折れたやつ、美幸の生誕記念に植えた物なんですよね~」

 それを聞いた秀明は、慌てて美幸に向き直りつつ謝罪した。


「そうだったんだ。ごめん、美幸ちゃん」

「うもぅ! わざとやったわけじゃないのは分かるけど、もう少し気をつけて下さいねっ!」

「うん、本当に悪かった。気をつけるから」

 両手を腰に当ててプンプン怒っている美幸に、秀明は平身低頭で謝った。するとそこで美子が、再び淡々した口調で翻意を促してくる。


「もう宜しいのではありませんか?」

「……いえ、もう少しやらせてください」

(冗談じゃない! ここで、尻尾を巻いて帰れるか!)

 いつもの彼らしくなく、秀明は半ば意地になってシュートを続行した。しかし回を重ねる毎に、状況は悪化の一途を辿った。


「今、枝が折れた南天、私の生誕記念の物ですが。なんか急に、肩が痛くなった気がするわ」

「美実さん、申し訳ない」

「蝋梅が……。私に何か恨みでも?」

「あれは美子さんの時の物でしたか。誠に申し訳ありません」

「見事に、ツツジに突っ込んだわね。後からちゃんとボールは取ってよ?」

「美恵さんの記念樹でしたか。勿論です。すみませんでした」

「わ、私の……、沈丁花……」

「その……、美野ちゃん。本当に悪かった」

 ボールを蹴る度に枝を折り、葉を散らして冷たい視線を向けられていた秀明は、美野がべそべそと泣き出すに至って完全に進退窮まってしまった。美野以外の四人から非難の眼差しを一身に浴びた秀明は、密かに八つ当たりじみた事を考える。


(くそっ! こんな筈じゃ……。大体、何でコース上に、そんな記念樹ばかり植えてあるんだ!?)

 しかしここで逃げ出すといった選択肢は、秀明の中には存在しなかった。もう殆ど維持で、あくまでゴールを狙う。


(感覚は掴めたし、四回蹴ってみて、どんなコースを取ればよいかも大体分かった。後は狙った通りに蹴るだけだが……)

 秀明がまだ幾分躊躇しながら何気なく美子の方に顔を向けると、目が合った彼女は軽く嘲笑するような笑みを浮かべた。それを目にした秀明の闘争心に、完全に火が点く。


(意地でも、入れてやろうじゃないか!!)

「いけっ!」

 秀明の渾身のキックで蹴り出したボールは、ツツジの植え込みのすぐ上を抜け、楓の横スレスレを通りながら僅かに右に曲がり、見事にゴール内に飛び込んだ。それを認めた美恵達が、揃って驚愕する。


「……あら」

「まぐれね」

「嘘……、入っちゃった」

「白鳥さん、凄ーい!」

「ありがとう、美幸ちゃん」

「それではお気が済まれたようですので、ボールを回収したらお引き取り願いたいのですが」

 妹達が感心する中、美子だけは冷静に帰るように促した。秀明はそれに対して文句を口にせず、苦笑して頭を下げる。


「分かりました。本日はこちらの都合でご無理を申し上げたものの、快く出迎えて下さって感謝しております。このまま失礼いたしますので、藤宮さんに宜しくお伝え下さい」

「伝えておきます。それでは失礼します」

 美子も礼儀正しく一礼したが秀明を見送ったりせず、あっさり踵を返して玄関へと向かった。


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