Lunch.1 ハンバーガー Don’t stop me now


『ハンバーガーとは宇宙の縮図である。我々はそれを食すとき、口の中で宇宙の始まりであり終り――ビックバンを感じることができる』



 これは有名なSF作家の言葉である。

 

 もちろん嘘だ。こんなつまらない文章を書く作家がいたら、それは三流の作家に間違いないだろう。しかし、言葉や文章というものは不思議なもので、ある程度言い切ってしまうとそれらしく――そして、最もらしく聞こえてしまうものだなのだ。やれやれ。



『一杯の紅茶をのむためなら、世界が滅びてもかまわない』



 どうだろう? 

 それらしく聞こえただろうか? 

 それとも三流物書きの下らない文章だと思っただろうか?

 

 下らない文章だと断じたならば、それは慧眼とも言えるし――節穴とも言える。

 

 これは、ロシアが生んだ大文豪ドストエフスキーが書いた『地下室の手記』の一節の引用である。彼は歴史に残る偉大なる小説家だが、人間的にはかなり問題のあるロクデナシだったので、まぁ、下らない文章と断じても間違いではないだろう。僕はもちろん素晴らしい文章だと思っているけれど。あしからず、

 

 事実、今の僕はたった一つのハンバーガーを食べられるなら世界が滅びても良いと思っている。

 

 昼食というものは不思議な食事で、朝食や夕食と違って外出先や勤め先で済まさなければいけないことが多い。いくら僕がフリーの仕事をして、ある程度時間に縛られない生活をしているとは言っても、昼食をとるためだけに自分の部屋に帰宅するわけにはいかない。

 

 必然的に、昼食は外食ということになってしまう。つまり食べる場所や、誰と一緒に食事をするかなどを考えなければいけないわけだ。この選択は僕をうんざりさせる。

 

 何故ならば昼食というものは――その隣に、混雑という名の悪しき友人を伴っているからだ。


 お昼時の飲食店はどこもかしこも満席で、人々は急いで食事を取っている。店内も慌ただしく、ウェイターには余裕がなく、キッチンは戦場さながら。そんな店内で食事を取るなんて考えただけで気が滅入ってくるのだが、そうはいっても食事をしなければお腹が空いてしまうのが人間なので、僕はどこかで昼食を取らなければならない。やれやれ。


 だから僕は、ハンバーガーを食べに来ていた。

 そのハンバーガー屋を知ったのはつい最近のことだった。


「外苑前に新しいハンバーガー屋さんができて、そこに行ってみたいなあって同僚と話しているの」

「ハンバーガー屋?」

「ええ。ニューヨークで人気のお店が日本にも出店してきたの。テレビや雑誌で話題なのよ。知らない?」

「僕は流行りにうといからね。テレビも雑誌もほとんど見ないし」

「いつも古臭い小説ばかり読んでいるものね? ああいうのって小難しくて気が滅入ってきちゃいそうなんだけど。良く読めるわね」

「そうかな? 僕はテレビ番組を見ていると気が滅入ってくるけれど。面白くないことで笑ったり、たくさんの人がいっぺんに話をしたり、まるで幼稚園だよ」

「あなた、子供が嫌いだものね」


 そんなどこまでも平行線なやり取りをしている最中に、僕はそのハンバーガー屋のことを知ったのだった。

 

 別に僕は子供が嫌いという訳ではない。ただ子供を見ていると自分の不完全さを見せつけられているようで、少しばかりうんざりしてしまうだけだ。やれやれって具合にね。あえて訂正しなかったのは、子供の話題になって盛り上がるのを避けるためだった。


 女性の前での子供の話題は、なるべくなら避けたほうがいいと思っている。なぜなら世の女性たちは、子供の話題を容易に結婚の話題にすり替えるからだ。


 サヤは二十代後半の女性で保険会社に勤めている。

 僕とサヤの関係は、非常に曖昧で不安定なものだった。僕たちは、互いの存在をあやふやにしておくことで――名前や形を与えないことで関係を保っていたが、彼女が家族向けの生命保険や死亡保険の話をする度に、僕たちの関係は少しずつ崩れそうになった。


「あなたって保険とか入ってるの? 何かあった時のためにも保険くらい入っておいた方がいいわよ。手術費用とか入院費って馬鹿にならないんだから。家族保険とかだとずいぶん割引が利くんだけどね」

 

 そんな所帯じみた話題が出るたび、僕は足元がぐらついてひび割れた地面の底に沈んでいくような気持ちになった。暗い穴の底でひとりぼっちになっているような気分に。

 

 そして今、ハンバーガー屋を訪れているこの瞬間も、僕はそんな気分になっていた。暗い場所でひとりぼっちになっているような気分に。


 僕は一人で、ただハンバーガーを食べるためだけにバカみたいな行列に並んでいる。店内の外にまで伸びたその列は、外苑いちょう並木に沿って並び――彼らは笑みを浮かべたり、楽しそうに会話をしたり、スマートフォンをいじったりしている。列に並ぶほとんど人は、その隣に寄り添う誰か――または複数――がいて、順番待ちの時間もまるで一つのアトラクションのように満喫していた。


「このハンバーガーずっと食べたかったんだよね」

「この間、お昼のワイドショーでやってたー」

「俺、バーガー十個食べよう」

「ハハッ、絶対無理だから」

「写真撮ってインスタにアップしよう」

「フォロワーに自慢しよう」

「この後どうしようか?」

「少し早いけど休憩できる場所に行く?」

「うん」

 

 僕はたった一人で列に並びながら、たった一つのハンバーガーのためなら世界が滅びてもいいと思っていた。それこそ、ビックバンが起きても構わないと。

 

 昼食を一人で食べるための飲食店に入ると、僕はいつも自分が役立たずの衛星になってしまったような気分になる。そう、まるで『スプートニク』になってしまったような気持ちに。


『スプートニク』はロシアが人類史上初めて宇宙に打ち上げた人工衛星で、宇宙に出て五十八日後に大気圏に再突入して消滅した。だけど、僕は消滅しなかったスプートニクの残骸――つまりデブリだ。僕は誰とも出会わず、誰の重力に引かれることもなく、ただこうして現実という宇宙を漂っている。

 

 僕の周りには、特別な誰か――または、人々――を見つけることができた、引かれ合う小さな星たちで溢れ返っている。彼らは互いの手取りあい、心を交わすことで、この孤独が渦巻く宇宙で小さな輝きを放っていた。僕――または、僕のような誰か――だけが、この暗く冷たい宇宙をひとりぼっちでさまよい続けているのだ。

 

 そんなことを考えながらゆっくりと進む列に並び続け、銀杏いちょう並木をいくつか通り過ぎると、僕は底抜けに気が滅入ってこのまま帰路を辿ろうかとさえ考えた。だけど、テラス席を通過してもう少しで店内に入れそうというところで――不意に良い雰囲気のアッパーな音楽が流れてきた。

 

 それはイギリスの生んだ偉大なるロック・バンド『Queen』の名曲『Don't Stop Me Now』だった。


 バンドのボーカルであり、スーパースターのフレディ・マーキュリーがその類まれな歌声で――世界中を熱狂させた歌唱力で、こう歌っている。



 俺は夜空を駆け抜ける流れ星

 重力の法則に挑む虎の様に

 おれは、レディ・ゴディバの様に通り過ぎるレーシング・カー

 俺は突き進む、俺をとめることは出来ない


 空を赤く染め上げるように燃えている

 200℃の熱さ

 それがミスター・ファーレンハイトと呼ばれる理由さ

 俺は光速で旅をしている

 君をスーパーソニック・マンにしてあげたいよ



 僕はフレディの歌に背中を押され、彼の強烈過ぎる魅力と引力に引かれたように店内に足を踏み出した。


 僕は夜空を駆け抜ける流れ星。空を赤く染め上げるように燃えている。僕はミスター・ファーレンハイト(華氏)なんだ。そして、フレディは何度も何度も「Don’t stop me now」と――僕を止めないでくれ、立ち止まるなと叫んでいる。


 僕だって立ち止まるわけにはいかなかった。たとえ光速で旅をした結果、大気圏に突入して燃え尽きてしまったとしても。だって、僕はスプートニクなのだ。最後は燃え尽きて消滅するに決まっているじゃないか。


「ねぇ、スプートニク?」


 僕がもっと若く幼い頃、僕も誰かのスプートニクだったような気がする。

 僕にもたどり着くべき星があったような気が。それを思い出すには僕はもうとしを重ねすぎてしまったし、多くの人が僕の中の宇宙を通り過ぎて別の宇宙へと過ぎ去ってしまっていた。誰も僕の中には留まらず、流れ星のように駆け抜けて行った。


 結果として、それで良かったかもしれない。

 僕には、自分の中の小さな宇宙に誰かを留めておく、引きつけておく自信が無かった。フレディのような素晴らしい魅力や引力が、僕の中にほんのわずかでもあるとは思えなかったんだ。


「いらっしゃいませ、ご注文はいかがなさいますか」

 

 笑顔で注文を尋ねる女性店員の溌剌はつらつとした顔を見た時、僕はどうしてだか無性に泣きたい気分になっていた。ほんのわずかでも、身を寄せる小さな星を見つけたような気分に。

 

 次にこのハンバーガー屋に来るときは、サヤと一緒に来よう。僕は心の中でそう思った。次は二人で。


「ご注文ができあがりましたらお呼びしますので、しばらくお待ちください」

 

 僕は手早く注文を済ませて番号札を受け取った。席に座って待っていると番号札が軽快なチャイムを鳴らして、注文が出来上がったことを知らせてくれた。

 

 僕はハンバーガーを両手にもって、その小さな宇宙を口の中に放り込んだ。まるで巨大なブラックホールが、星や銀河を丸ごと飲み込んでしまうみたいに。


 ホルモン剤を使っていないアンガス牛百パーセントの分厚いパテだとか、新鮮なレタスとトマトに濃厚なチーズだとか、バンズの甘みだとか、溢れ出る肉汁なんかどうでも良かった。とにかく、僕はそのハンバーガーを勢いよくほうばった。チーズの乗ったフライドポテトにたっぷりのケチャップとマスタードをつけて、両手を油でベタベタ汚しながら食べ続ける。そして、口の中に広がったニューヨークの味をビールで胃袋に流し込む。喉ごしは最高で、切れ味の良い炭酸が口の中、食道の油を洗い流す。そして、僕の体中にアルコールが沁み渡って行くのを感じた。心の底から、美味しいと思った。


「ふー、悪くないな。いや、うまい」


 昼間からビールを飲んでしまう日が一日くらいあったって構わないだろう。ハンバーガーのためならビックバンが起きたって構わないんだ。午後の仕事が少しくらい遅れるくらい、なんてことはないさ。ドストエフスキーなら、仕事をすることすら放棄してしまうだろう。そして、そのままギャンブルに走るだろう。彼は間違いなくロクデナシなのだ。


 ハンバーガーの最後の一口を食べ終わってビールを飲み干すと、僕は不思議と満ち足りた気分だった。新しい宇宙に飛び出して行けるような、そんな気がしていた。


「ねぇ、ちょっと?」

 

 だけど、そんな僕の前に予期せぬ出来事が――とびきり巨大な隕石が降り注いだ。もちろん、僕の頭上に。


「サヤ?」

「あなた、どうして一人でこのお店にいるの? このハンバーガー屋を紹介してあげたのは私よね? だったら、ふつうは私を誘ってくれるものじゃない? 私はそれを期待してあなたにこのお店のことを話したんだけど」

 

 オフィスカジュアルな服装で、胸ポケットに社員証を入れているサヤが、声を低くして僕に詰め寄る。彼女の後ろには同僚の女性二人が立っていて、僕のことを軽蔑するように見つめていた。


「いや、たまたま飛び込みの仕事でこの近くにきたから、サヤを誘う前に一度下見をしておこうかなって」

「私の働いてる会社がこの近くなの知ってるわよね? だったら、ふつうは私に連絡してお昼一緒にどうって誘わない? ねぇ、私たちが最後に会ったの何日前だか覚えてる?」

「えーっと、一週間前だったかな?」

「もう二週間も会ってないんだけど。その間、あなたから来たのはつまらないメール数件だけ。電話だってしてくれないじゃない」

 

 この間違いが止めだった。

 

 僕は、僕たちのこの関係がもう長く続かないことをなんとなく察してしまった。サヤという小さな星は、僕の宇宙を通り抜けて別の宇宙へと旅立っていくだろう。

 だけど、それも構わないような気がした。

 

 僕はミスター・ファーレンハイト。高速で旅をした結果、真っ赤に燃え尽きてしまうのだ。大気圏に突入して消滅したスプートニクのように。

 

 僕の頭の中で――このひとりぼっちの宇宙でフレディの歌声だけ響いている。もうサヤの声は聞こえていなかった。


 Don’t stop me now


 僕を止めないでくれ。

 

 僕はただそう呟きながら、ひとりぼっちの宇宙に繰り出した。

 真っ赤に燃えて消滅してしまうその時を目指して。



 Don’t stop me now

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