17 宇宙病

 

『宇宙病』

 

 それは、人間が宇宙空間や無重力空間にさらされたことによって起きる『宇宙空間環境適応症候群かんきょうてきおうしょうこうぐん』のことを総称してそう呼ぶ。

 

 もっとも軽度な宇宙病は、『宇宙酔い』。

 宇宙空間に上がった後にあらわれ――吐き気、嘔吐おうと、顔面蒼白、冷汗、生つば、唾液分泌だえきぶんぴつ物憂ものうさ、頭痛、浮動感や回転感を伴うめまい、倦怠けんたいなどが起きる。


『宇宙酔い』は、訓練を受けた宇宙飛行士を含めて、基本的に地球から上がってきた人類が必ず一度はかかる病で、『宇宙風邪』や『宇宙の洗礼』なんて呼ばれ方をしている。


 母いわく、永遠に続く車酔いのようなものだと、自分が宇宙風邪にかかった時のことを思い出しながら顔を真っ白にして言っていたけれど、私たちルナリアンは基本的に宇宙酔いを経験しないので、車酔いがどういうものかよくわからなかった。


 重度の宇宙病になると――『宇宙放射線障害』という、『宇宙線』と呼ばれる宇宙空間を飛び交う放射線による被爆ひばくがある。これは宇宙空間で長時間活動している宇宙飛行士や、ヘリウム3の採掘現場などで働く労働者に起こりやすい病で、被爆による被害はガンや白血病などの病として現れる。


 近年では月面都市を含む生活環境の改善や、宇宙服の進歩によってかなり軽減された病ではあるけれど、それでも今でもこの障害に苦しむ人は多くいる。人類にとって、宇宙空間はやはり過酷な環境であり、多くの危険をともなうのだ。


 他にも低重力が原因となって発生する健康障害や発達障害、発育不全などがあるけれど、これらの多くは現在ではほぼ克服された障害のため、それほど問題にもならない。精神疾患や心的外傷を含む“精神的な宇宙病”も存在している。


 これらの宇宙病の克服に大きく貢献したのが――


 私たちのお姫さまだった。


 お姫さまが幼いころから、いや、生まれた時から取り込んでいる多くの検査や実験――筋力トレーニング、骨格の改造、投薬実験、新薬の開発、食事療法なども含めた過酷な日々の産物が、今日の宇宙病の克服につながったのだと、以前、シマコ先生が授業で教えてくれた。


 多くの問題が解決されてから生まれてきた私たちの世代とは違い――何もかもが未知で、何もかもが手探りだった宇宙での生活、そして月面での暮らしは、想像を絶するほどに過酷なものだったと思う。

 

 そして、お姫さまがひとりぼっちだった頃の月では、今では考えられないような過酷なトレーニングや、危険と隣り合わせのアプローチが繰り返し行われていたという。


 それを知った時、私は気分が悪くなって吐きそうだった。


 なにも知らない、何も分からない小さな女の子が――ただ地球に降りるためだけに、ただ宇宙での生活環境を改善するためだけに、その人生の全てを捧げて日々を過ごしているさまは、私の目には、あまりにもグロテスクに映った。


 そんな、いつ地球に降りられるかも分らない日々を、ただ失敗だけが山のように積もっていく毎日を――いったいどんな気分で過ごしていたのだろうと考えると、私は自分がどうにかなってしまいそうだった。


 言葉にできないほどの不安や、怖れを――私なんかが背負いきれるわけのない、途方もない深い悲しみや絶望に包まれて、私は凍えそうなほどの寒さを感じた。


 宇宙空間とは――

 本来、とても冷たい空間。


 私はその時、生まれて初めて宇宙の本当の冷たさに触れたんだと思う。

 

 私は、私がお姫様だったらと思うと――

 怖くてこわくて仕方なかった。


 お姫さまも、きっと私と同じような気持だったんじゃないかなって思ったけれど――


 だけど、現実はまるで違っていた。


 シマコ先生からお姫さまの話を聞いた私は――これまで、ただ私たちの見上げた先に存在していた、ただ遠くにたたずんでいるだけのお姫さまに興味と関心をもった。


 十歳になったばかりの私は、彼女のことを調べ始めた。


 お母さんやお父さん、友達や先生、周りの大人たちに聞いて回ったり、図書館に通いつめたり、過去のアーカイブ動画を片っ端から閲覧したりして――お姫さまについて少しずつ知っていった。



「私たちのお姫さまはね、いつだって私たち月で働く人たちのことを考えてくれているのよ。ポーラのことも、他のたくさんの子供たちのことを、とても大切に思っているの」

「僕も、何度かお姫さまを直接見たことがあるけど、本当に綺麗で素敵な女の子だったよ。今はもう大人の女性だけどね。一度、僕が働いている鉄道会社に視察に来られたことがあって、その時なんて、声をかけられる度に一人一人丁寧に対応して、全ての職員に笑顔で接していたんだ。泣いてる同僚もたくさんいてね」

「あなただって泣いていたじゃない」

「おいおい、それは――」



 両親の話。



「お姫さま? そうねえ、彼女と何度か一緒に宇宙空間に出たことがあるけれど、生まれながらの適応者というものが存在するんだと驚いたわ。鳥が生まれながらに飛び方を知っていたり、魚が生まれながらに泳ぎかたを知っているみたいに、彼女も生まれながらに宇宙に適応していた。それは、あなたたちルナリアンも同じだけれど、彼女の場合は――生まれながらに女王であるという資質も備わっていた。それでいて、全ての人に平等に接する優しさを持っていた。彼女がいなかったら、この月はここまで発展しなかったでしょうし、発展したにしても――その形を大きく変えていたでしょうね」



 シマコ先生の話。



「私が生まれた時、お姫さまは私の生まれた病院をたまたま訪れていて、私が生まれたことを知ると、わざわざ足を運んで会いに来てくれたのよ。それで私を抱き寄せて私の額にキスをしてくれたんだから」



 セシリーの話。

 これは、セシリーと仲良くなると誰でも百回くらい聞かされる自慢話だから二度と聞きたくない。


 こんなふうに、私は色々な人にお姫さまのことを聞いて回った。

 

 たぶん、私はお姫さまと自分を重ねていたんだと思う。

 きっと彼女を調べることで、私が日々感じていた漠然とした不安、宇宙で暮らすということの不安や怖れを吹き飛ばして――私がルナリアンであるという事実を受け止めるための、切っ掛けのようなものを与えてもらえるんだと思い込んでいたんだ。


 最初の一歩を踏み出すために、優しく背中を押してもらえるんだと思っていた。


 私は、お姫さまに勝手に共感して、好感をもって――そして、自分がお姫さまも私と同じなんだと理解し、受け入れることで、きっと私も、自分がルナリアンであるということを自然と受け入れられるようになると、勝手に信じこんでいたんだ。


 でも、現実はまるで違っていた。


 お姫さまは、いつだって希望に満ち溢れていた。一度だってつらそうな顔や、悲しそうな顔を見せたりはしなかった。


 お姫さまの言葉はいつだって強く、前向きで、こんな何もない、暗闇に閉ざされた砂と岩と穴ぼこだけの星にいるはずなのに――眩いくらいの光を放っていた。


 夜を照らす月明かりそのものだった。


 わずか十二歳で『アームストロング市』の名誉市長に就任した時のスピーチなんて、見事過ぎて私は最後まで聞いていられないほどだった。



『地球で暮らす皆さん、ごきげんよう。かつて鷹が舞い降りたこの月は、今日という日を迎え――皆さんのおかげでここまで発展することができました』



 たった二歳しか違わないはずの女の子が、希望に満ち溢れた微笑を浮かべてスピーチを行うさまは――私には衝撃的過ぎた。



『一人の人間にとって小さな一歩でしかなかった足跡は、後に続く大勢の人たちの情熱と尽力によって――人類の偉大な飛躍へと、人類の大きな足跡となりました。地球で暮らす大勢のみなさん、ようこそ――アームストロング市へ。私は月を訪れる全ての人を歓迎します』



 それから先も、その小さな女の子は、自分が成長するにつれてぶつかる大きな困難を前にしても常に立ち向かっていき、一度たりとも挫けなかった。


 いつだって、彼女は目の前にそびえ立つ巨大な壁を越えて行った。

 その大きな灰色の瞳から希望の光が消えたことは、一度たりともなかった。


 もちろん、困難を前に厳しい表情を浮かべ、悲しみの表情をおびながら月の市民や、地球に語りかけるときだってあった。でも、たとえそんな時でも、お姫さまの言葉にはいつだって希望と未来があった。


 前に進んでいくという、未来にともしびを繋いでいくという――揺るぎない意志と決意があった。


 月の代表に就任した時も、地球に降りた時も、たくさんの人たちと会談をしている時も、月で大きな問題が起きている時も、いつだってお姫さまは――


 月の女王として振る舞っていた。


 彼女は、生まれながらのお姫さまで――

 生まれながらに、いずれ自分が月の女王になることを理解していたんだと、私はその時に気がついた。


 彼女は特別すぎる女の子で――その特別さを、生まれながらに何の疑問もなく受け入れることができる女の子だった。


 私なんかが、自分と重ねていいような女の子じゃなかったんだ。


 私なんかとは何もかもが違う――

 特別すぎる女の子。


 お姫さまの眩しさに目が眩んでしまった私は、それ以上お姫さまのことを調べるのをやめてしまった。目を背け、暗い穴の奥にもぐり込み、月明かりの届かない場所に身を潜めていることを選んだ。


 それどころか、私は自分がお姫さまに何を期待していたのかを知って――

 自分自身に絶望さえした。


 その時に気づいてしまった、望んでしまった、願ってしまった、期待していた、私の身勝手で、情けなくて、ひどくて、どうしようもなくて、ずるくて、醜すぎる感情を思いを知った時、私は私に絶望して――


 私は、自分がルナリアン失格の女の子であると理解してしまった。


 私は、なんて愚かなんだろう?

 ほんと、最低だよ。


 たしかに私はルナリアンで、地球の人から見れば生まれながらに特別な女の子かもしれない。でも、それでも私は――その特別さを何の疑問もなく受け入れられるほどに強い女の子じゃなかった。


 月のためにも、そして地球のために、私は生きていけない。

 私は、お姫さまのようにはなれない。


 私は、ルナリアン失格の女の子。


 宇宙に出ることもできないかごの中の――

 翼すらない小鳥。


 ううん。

 私なんて、そんな可愛らしいものじゃない。


 ただただ、愚かでどうしようもないだけ。

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