9 あーあ


 その日の授業中――


 隣に小笠原さんの存在を感じていた私は、月の氷のようにガチガチに固まっていた。月の裏側にはたくさんの月の氷があって、それは私たちの生活用水として使われている。月の裏側は地球から見えることなく、地球から見れば永遠の暗闇に閉ざされている。


 だけど、そんな月の裏側の氷とは違い――そして、強張っている私の表情や体中の筋肉とは裏腹に、私の胸の奥はこれでもかというくらい高揚して、火照っていた。太陽の日差しを浴びたら、こんな感じなのかなと思ってしまうくらい。


 授業の間、小笠原さんはほとんど口を開かず、私たちの間に会話という会話は生まれなかった。ときおり、授業で分らないところを尋ねられたけれど、私が質問に答えると、彼女は微笑を浮かべて「ありがとう」と静かに言う、それだけ。


 私は小笠原さんの「ありがとう」を聞くたび、天にも昇る気持ちに――大空をはばたく鳥にでもなった気分。鳥なんて、月の小さな生物園でしか見たことないけれど。


 私は小笠原さんから目が離せなくて、横目でずっと彼女を見つめ続けた。まるで彼女には不思議な引力があって、自然と吸い込まれていくみたいだった。


 小笠原さんは長い黒髪を結っていて、髪の毛がふわふわと宙に舞わないように気をつけているみたいだった。


 月では、髪の毛を長く伸ばしている人は珍しい。


 月の重力では髪の毛があちこち宙を舞ってしまうため、ワックスやヘアスプレーなどで髪の毛をガチガチに固めたり、常に髪留めを使用してないといけない――そんな理由が表向きだけど、本当は“水”の使用量を減らす為という暗黙のルールがある。


 月では、水は空気と同様に貴重すぎる資源。


 地球と違って、月では水も空気もタダじゃない。それを生み出すためには莫大なコストがかかり、そのコストは地球へ送るヘリウム3というエネルギーでまかなわれている。月では水はもちろん、空気にまで税金がかけられていて、なるべくならそれらの使用量を減らそうという月の市民全体の暗黙の了解がある。


 長い髪の毛は、洗ったり、整えたり、お手入れをしたりと、それを維持するだけで大量のコスト――つまり、水を使用する。そのため月の植民者やルナリアンたちは極力髪の毛を短くして、日々、水の使用量の削減に貢献しているのだ。


 私は、ひよこみたいな金色のくせっけ毛を男の子と同じくらい短くしている。クラスのマドンナであるセシリーだって、自慢の赤毛をセミロングにするのがやっとだった。


 だから、小笠原さんみたいに長い黒髪はとても珍しく――

 そして、とてもうらやましいことだった。


 まるで、月のお姫さまみたいに。


 私は、あの美しすぎる金色の髪の毛を思い出した。

 腰の先まで伸ばした黄金の稲穂みたいな髪の毛。そして、大きな宇宙と銀河を秘めた灰色の瞳。彼女のトレードマークである赤色のドレス。何もかもが、私たちと同じ世界に存在しているとは思えない特別なお姫さま。

 

 小笠原さんは地球から上がってきた人だけど、どこかお姫さまと似た雰囲気を感じさせる。


 特別な、なにかを。


「髪の毛、気になる?」

 

 私が小笠原さんの髪の毛を眺めていると、彼女が首を傾げてたずねた。

 授業はいつの間にか終わっていた。


「えっ、あの、その、ごめんなさい。私、小笠原さんの長い髪が素敵で」

 

 私は言い訳をするように言った。


「珍しいっていうか、うっとうしいのよね」

「えっ、そんなこと――」

「それに、月だと目立ちすぎるっていうか、水をたくさん使っちゃうでしょ? だから、お母さんに切ってもいいって聞いているんだけど、お母さん、私の長い髪の毛がお気に入りみたいで切らせてくれないのよ。ほんと、困っちゃうでしょ?」

 

 小笠原さんはやれやれって感じで肩をすくめた。

 今日の彼女の髪の毛は、長い三つ編みを二つ結って、それを後ろで一つのお団子にするというとても可愛らしい髪型をしている。


 私は、心からその綺麗な髪の毛を切ってほしくないと思った。


「あの、小笠原さん、私っ、」

 

 私が勇気をもってそれを口にしようとすると――


「アスカ、こっち来なさいよ」

 

 遠くからセシリーが声をかけた。


「ええ、ちょっと待って」

 

 小笠原さんはセシリーにそう言ってから、私に向き直った。


「なに?」

 

 彼女にそう尋ねられた私は、咄嗟に喉元まで出かかった言葉を呑みこんだ。セシリーや他のみんなに見つめらて、私の言葉はひどく臆病に、そして迷子になっていた。


「ううん、何でもない。それより、セシリーが呼んでるよ」

 

 私が顔の前で手を振って言うと、小笠原さんは少し残念そうに「そう?」と言って、セシリーたちのほうに行ってしまった。

 

 私は心の中で「行かないで」って叫んだけれど――

 もちろん、私のそんな身勝手な願いが彼女に届くはずもない。


 小笠原さんは、セシリーたちの輪に入って談笑をはじめてしまった。

 

 あーあ。

 ほんと、私って――


 あーあ。

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