第75話『素顔モーニング』

 6月2日、木曜日。

 リビングのソファーで眠っていた私はゆっくりと目を覚ました。机の上に置いてあるスマートフォンを手にとり時刻を確認すると、今は午前6時過ぎだと分かった。

 昨晩、浅野さんが私の部屋で眠り、岡村が家に帰った後は、1人で日本酒を呑みながら氷室の事件について考えていた……が、酒が入った状態で考えるのが良くなかったのか、あまりいい考えは思いつかなかった。今日は氷室の自宅及びその周辺と、月が丘高校に行って聞き込み調査を中心にしよう。

 洗面所で顔を洗って歯を磨いた後、リビングでコーヒーを飲んで優雅な朝の時間を過ごす。家を出発するまでには2時間近くあるので、まだ浅野さんを起こさなくてもいいか。


「お、おはようございます……」


 そんなことを考えていたら、浅野さんがリビングに入ってくる。顔を赤らめてもじもじしているのが気になるが。昨晩、ベッドに寝かせたときと同じスーツ姿だ。あと、机の上にメガネを置いておいたのが分かったのだな。


「おはようございます、浅野さん」

「……羽賀さんはずっとリビングで?」

「ええ。酔って眠っていた浅野さんを寝室に連れて行ったところで、岡村が今日も仕事があると言って帰ってしまったので。ここで日本酒を呑みながら、氷室が逮捕された事件についてじっくり考えていました」


 まだ、捜査を始めたばかりなので、岡村のように華麗なる推理を考えつくことはできなかったが。


「では、私が寝ている間に変なことはしていないんですね?」

「していませんよ」


 むしろ、私が眠っている間に、酔っ払っている浅野さんに変なことをされるか心配になったほどだ。変なことはしていないが、今着ている寝間着を取りに行くために、一度だけ寝室に入ったか。

 浅野さんはもじもじするのを止めたが、顔の赤みは引かない。


「もしかして、浅野さんは酒に酔ってしまったとはいえ、私の家で一夜を明かしてしまったことに、恥ずかしさを抱いているのですか?」

「そ、それもありますけど……メガネがベッドの近くにあったテーブルに置かれていたってことは、メガネを外した私の顔を見たんですよね?」

「ええ、そうですが。美来さんや月村さんに引けを取らない可愛さでしたよ」

「み、見られちゃったんだ……」


 浅野さんは両手で真っ赤になった顔を覆い隠している。

 どうやら、恥ずかしそうにしていた主な原因は、私にメガネを外した顔を見られたからだったのか。彼女にもこういう汐らしい姿があるのだな。普段からそうであれば助かるが……今後、そうなることはほぼないだろう。


「浅野さんもコーヒーでもいかがですか? 気分が落ち着きますよ」

「……ありがとうございます。ですが、その前に……シャワーをお借りしてもいいですか? さすがにこのまま警視庁に行くのはちょっと……」

「いいですよ。お風呂は湧かしてありますから。昨晩、私が入ってしまいましたけど、それで良ければすぐに」

「いえいえ、それでかまいませんよ。泊まらせてもらっている身ですし、羽賀さんなら綺麗そうなので」


 綺麗そうとはどういうことなのか。

 浅野さんを洗面所まで連れて行く。


「バスタオルとフェイスタオルをここに置いておきますので。ドライヤーはここにありますから」

「ありがとうございます」

「浴室の中にあるシャンプーやボディーソープ、リンスで良ければ使ってもらってかまわないので。私は朝食を作ります。洋食でもいいですか?」

「何から何まですみません」

「いえいえ。何かあったら呼んでください。では、ごゆっくり」


 私は洗面所を後にして、リビングに戻る。

 朝のこの時間だと、どのチャンネルも報道番組をやっているから、あまりテレビを点けたくないのだが、氷室のことをどう報道しているか確かめなければ。

 テレビを点けると、予想通り、どのチャンネルも昨日逮捕された氷室のことについて報じていた。どの局も共通して氷室は容疑を否認、被害者の少女も報道内容を否定していると報じている。

 ただ、鷺沼の働いているテレビ局だけは、氷室が被害者の少女を高校で受けたいじめから救っているため、果たして氷室が本当に犯行を行なったのかどうか疑念が残ると報じている。どうやら、鷺沼は私との約束通り、氷室の印象をさらに悪くするような報道は止めてくれたようだ。


「……朝食を作るか」


 私はトーストにスクランブルエッグ、生野菜のサラダを作る。2人分の朝食を作るというのは久しぶりだな。学生時代に岡村が遊びに来たとき以来か。


「羽賀さん、お風呂ありがとうございました。スッキリできました」


 朝食を作り終えたところで、浅野さんがリビングに姿を現した。さっきとは違ってワイシャツ姿である。


「そうですか。それは良かったです。さあ、朝食ができていますので一緒に食べましょうか。テーブルでもいいですし、ソファーに隣同士でもいいですが」

「……ソファーの方で」

「分かりました。浅野さんはソファーに座っていてください。あと、浅野さんはコーヒーと紅茶のどちらにしますか?」

「コーヒーでお願いします」

「分かりました」


 2人分の朝食とコーヒーをソファーの前にあるテーブルに置き、浅野さんの隣に座る。


「それでは、いただきましょう」

「はい、いただきます」


 朝食を食べながら朝のニュースを見るのが、私の日課になっている。友人の鷺沼が働いている局のニュースを見ることが多い。


「このスクランブルエッグ美味しいですね! 羽賀さんって料理をするのがご趣味で?」

「学生時代から1人暮らしをしていますからね。趣味と言うほどではありませんが、できる限りは自炊しています」

「そうなんですか。偉いですね」

「浅野さんは料理をされるのですか?」

「簡単なものなら。でも、面倒でコンビニで買っちゃうことも多いんですけどね」


 1人暮らしだと、自炊するよりもコンビニなどで買う方が安く済む場合があるからな。私も面倒なときには、近くのコンビニで適当に買う。


「あの、羽賀さん。昨日は泊めてくださってありがとうございました。あと、さっきは取り乱してしまって、ごめんなさい」

「……気にしないでください。昔からこういうことはあったんで」


 私が大学生のときに岡村が私の家に遊びに来たときは、夜中に酔っ払った彼にひどく絡まれたことがあるからな。なので、昨晩の浅野さんなんて本当に可愛いものだ。


「……メガネを外した姿をあまり見られたくないんです。小学生のときに、メガネを外した顔を笑われたことがあって」

「なるほど。それは……見られたくなくなりますね」


 幼い頃に受けた嘲笑というのは、いつまでも記憶に刻まれているものだからな。トラウマとなってしまうこともある。


「でも、私はメガネ外した浅野さんの顔を見ても、笑われるような感じではありませんでしたよ。とても可愛らしいと思います」

「ま、またまた! 私を元気づけようとしてそんなご冗談を……」

「そんなことに嘘を付いて何の意味があるのですか? 私はとても可愛らしいと思ったので、それをお伝えしているだけですよ」

「そ、そうですか。羽賀さんがそう言ってくれるのは、とても嬉しいです……」


 私に見せてくれる笑顔は、彼女と出会ってから一番に可愛らしい笑顔に思えた。BLを熱く語るときの浅野さんとは全然雰囲気が違うのだな。


「あの、羽賀さん。今日も捜査を頑張りましょうね!」

「ええ、頑張りましょう。今日は氷室の自宅と、月が丘高校に行って聞き込み調査を中心にしていく予定です」

「分かりました!」


 昨日とは違って、今日はやる気に満ちているな。何がきっかけなのかは分からないが、やる気になっていることはいいことだ。

 今日の捜査で真犯人に向かって大きく進展すればいいのだが。そう思いながら、浅野さんの隣で朝食を食べるのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る