第19話『キロ』

 居酒屋を出たのは午後9時過ぎ。さすがにこの時間になると、ちょっと肌寒い。


「よーし、家に帰るぞー!」

「帰りましょうね」


 あまり強いお酒を呑まなかった僕はそこまで酔っていないけれど、ウイスキーやワインなど強いお酒を呑んだ有紗さんは大分酔っている。フラフラしてしまうからか、僕に腕を絡ませている。こればかりはしょうがない。


「そうだ、美来にメッセージを送っておくか」


 きっと、今か今かと僕の帰りを待っているだろうから。


『これから帰るね』


 というメッセージを送っておいた。

 すると、僕の送信したメッセージはすぐに既読となり、


『分かりました。待っていますね』


 よし、これで大丈夫かな。


「何よ、あたしを無視して誰かと連絡しちゃって。かまってくれないと怒っちゃうぞ」


 有紗さんはそう言うと、更に強く腕を絡ませてくる。頬を膨らませちゃって……酔うと寂しがり屋になるのかな、この人は。


「はいはい、一緒に帰りましょうね」

「子供扱いしないでよ。あたしは智也君の先輩で……お姉さんなんだよ」

「分かりましたよ、有紗先輩」


 居酒屋の中ではほんわかとした雰囲気だったのに、店を出た途端に甘えん坊さんという本性が出始めているようだ。まったく、可愛い先輩だな。こんな姿を美来に見られたら、激しく嫉妬されそうだな。

 酔っ払っている有紗さんに駅までの道を聞き出して、何とか最寄り駅まで到着し、電車に乗る。運良く2人分の席が空いていたので一緒に座った。


「眠い……」


 座ったことで、有紗さんは眠気に襲われているのかな。


「僕が起きているんで、有紗さんが降りる駅の近くになったら起こしますよ。なので、ゆっくりと寝ていてください」

「うん、分かった……」


 すると、有紗さんは僕の腕を枕にして眠り始める。お酒が入っているからか、すぐに寝息が聞こえてきた。彼女の顔を見てみると、気持ち良さそうに眠っている。

 正面の車窓に僕と有紗さんの姿が見える。お互いにスーツ姿だけれど、周りには僕らが付き合って見えるかもしれない。有紗さんとは単なる職場の先輩と後輩の関係なのに、なぜか罪悪感のような気持ちを抱いてしまう。


「智也くん……ずっと側にいて……」


 夢の中に僕が出ているのだろうか。僕の名前を呟いている。ずっと側にいてほしいか。


「……異動がなければね」


 有紗さんのように近しい先輩がいると、仕事をする上でも心強い。


「感謝しています、有紗さん」


 他の誰にも聞こえないように有紗さんの耳元でそう言うと、有紗さんに伝わったのか彼女は微笑んだ。

 電車に乗ってから約30分後、先輩の家の最寄り駅にそろそろ到着しようとしていた。


「有紗さん、起きてください……」

「すぅ……」


 有紗さん、完全に熟睡しているな。


「有紗さん、起きてください」


 肩を軽く叩いてもみても、ちょっと嫌そうな表情をしただけで一向に起きる気配がない。夢の中でも僕に叩かれているのかも。

 電車は有紗さんの降りる駅に到着してしまう。しょうがない、ここは一旦、僕も一緒に降りるか。


「有紗さん、一緒に降りましょうね」


 有紗さんと一緒に立とうとしても、完全に寝てしまっているからか、有紗さんの体がかなり重く感じる。

 結局、一緒に降りることができぬまま、電車は発車してしまった。

 どうしよう。次の駅で降りて有紗さんの最寄り駅に戻るか。でも、下手をしたらその繰り返しになって終電を逃す可能性が。仮に降りることができても、有紗さんの家まで送らなければいけない。ただ、僕は有紗さんの家までの道のりも知らないし。


「こうなったら……」


 僕の家には美来がいる。美来には悪いけれど、有紗さんを僕の家に連れて行って、今夜は泊まってもらう方がいいかもしれない。美来が物凄く嫌がりそうだ。でも、今の状況で僕にできる最善のことはそれだろう。


「有紗さん、今日は僕の家に行きましょう。それでもいいですか?」

「……うんっ……」


 今の「うん」は僕への返事なのか、単に声が漏れたのか。

 僕の家で有紗さんが目を覚ましたとき、どういう反応をするんだろう。僕の家にいることや美来もいることで驚かれるかもしれない。

 もしかしたら、僕は物凄く危険な選択肢を選んでしまったのかもしれない。地雷ばかりの道を歩き始めた気がした。これから慎重にならないと。

 そんなことを考えていると、自宅の最寄り駅に電車が到着しようとしていた。


「ほら、有紗さん。今度こそ降りますよ!」

「うん……」


 有紗さんの目が開けてにっこりと笑った。よし、これなら一緒に降りることができる。

 電車が最寄り駅に到着し、僕と有紗さんは一緒に電車を降りた。


「有紗さん、これから僕の家に行きますよ。そこまで頑張って歩きましょうね」


 まるでお年寄りに話しかけているようだ。


「うん、分かった……」


 幸いにも、僕に寄りかかりながらも自分の足で歩けている。

 あまり人気のない夜道を有紗さんと一緒に歩く。家に近づくにつれて、段々と恐怖心が増してきている。美来、どんな顔をするのかなぁ。

 いつもよりもちょっと時間がかかってしまったけれど、無事に僕の住むアパートまで辿りついた。自宅の玄関前まで有紗さんを連れて行く。


「緊張するな……」


 インターホンを押すことをちょっと躊躇ったけれど、ここまで来て有紗さんを帰すわけにはいかない。僕は勇気を出してインターホンを押した。


『はい、どちら様ですか?』

「ただいま、智也だよ。玄関を開けてくれるかな」

『はい! すぐに開けますね』


 程なくして玄関の扉が開かれた。お風呂に入ったからなのか、家の中からは寝間着姿の美来が現れ、


「おかえりなさい、智也さん。軽くごはんを食べますか? お風呂にしますか? それとも、わ・た……えっ!」


 うっとりとした表情で僕のことを見ていた美来だったけれど、僕に腕を絡ませている有紗さんの姿が視界に入ったからか、一瞬にしてぎょっとした表情になる。


「ただいま、美来。えっと、ちょっと訳があって、一緒に呑んでいた職場の先輩を連れてきてしまいました……」


 僕に腕を絡ませている女性が、僕と一緒に呑んでいた職場の女性であると正直に話すと、美来は目を潤ませ、頬を膨らませ、


「ちょっと訳があってって……これはいったいどういうことなんですか!」


 美来の叫びが響き渡る。それでも、有紗さんは全く驚くことなく僕に腕を絡ませたままうとうとしている。


「とりあえず、中に入っていいかな。もう夜も遅いし」


 自分の家なのに入っていいかどうかを訊くのは切ないけれど。今は午後10時を過ぎているし、ここからかなり酔っ払っている有紗さんを帰らせるのはかわいそうだ。


「その女性とは本当に……一緒に働いているだけなんですよね?」

「そうだよ」

「それなら、その方を入れていいです。ベッドに寝かせましょう」

「ありがとう」


 とりあえず、中に入れてもらうことができて良かった。

 有紗さんをベッドに横にさせ、ふとんを掛ける。すると、それがとても気持ちいいのか彼女はすぐに寝息を立て始めるのであった。

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