第八手 未だ

 「ねぇ………」


 「ねぇってば……………」


 ――どうしたんや? なんでそげな悲しそうな声出すねん――


 「だって……………」


 ――ん? ――


 「敬治兄ちゃんが、皆を見捨てたからやないの‼ 」



 「うあああぁっ……………」

 達川の爺さんは目覚めるよりも早く、普段は決して機敏に動けない腰を起こしていた。


 夢だ。

 そう思いながら頭は、安堵の感情を即座に身体の器官に伝えるが、爺さんの胸は暫く痛みを伴う程の拍動を続ける。


 この悪夢は初めてではない。

 頭のどこかで、それが薄れ始めた頃。

 「忘れるな」と、まるで警告の様に繰り返される。


 その逞しい身体が衰え、腰が曲がり始める。その幾年の月日。

 何度も何度も彼は、この夢を体験した。


 布団の枕元に置いておいた水に、手を伸ばすと、爺さんはむせる程の勢いで、椀一杯の水を飲み干した。


 ――ひま………皆………………わしは、どうしてやったらええんじゃ?

 金本さん……………――


 両手で顔を覆うと、思わず震えを起こしそうになったので、爺さんは長い廊下に出て、洗面場に向かう。

 季節は冬へと向かっているのだろう。廊下の空気がまるで流水の様にひんやりと首を撫でる。






 「いってきまーす」


 「ほい………いってらっしゃい………」

 軽い朝食の後は、町内会で決められている近所の小学生の登校の見守りに出る。

 これも、もう長く日課になる。

 最近までは、知っている子どもの顔もあったものだが………


 「ほほほ………仲良さそうに………」

 兄弟か、それとも友達だろうか。

 三人並んで学校へ向かう、子どもが見え、爺さんは懐かしい思い出に更ける。



 ――さて…………愛子は、順調にやっとるかの………――


 登校の見守りが終る頃には、九時近くを短針が示そうとしていた。


 爺さんは、共に見守っていた町内会の知り合いにひとしきり挨拶を済ませると、神社へと戻る。






 「ふぅ………ふう………」

 この頃、滅法この階段を登るのがしんどくなってきた。

 そう言えば、近所の医者から定期の健康診断を勧められていたのを、ずっとそのままにしていた。


 ――今度、いっぺん診てもろうとくかのぉ………――


 そんな、自分の老いを思うと、思わず笑ってしまう。呼吸のリズムが崩れ、より一層しんどさが増した。

 「はぁ~~~~~~くたびれたのぉ………」

 大きな独り言を吐くと、爺さんは台所で、水をコップに入れる。

 それを机に持って行くと、テレビを点け、何気なく眺めていた。

 忘れていた事というものは、そんな時にハッと思い出すものだ。


 ――あ……………しもうた………――


 爺さんは、そう思い立ち上がると、自分の部屋に行き、机の引き出しを開ける。


 そこから茶封筒を出すと、幾らかばかりの小銭を持ち、家を出た。



 少し離れた先の郵便局に着くと、その茶封筒を差し出す。


 「東京まで、速達ですね? 」

 「ええ…………」


 用件が済んで、郵便局を出た時だった。


 先程から、若干騒がしく感じていたが、なんとこの僅かの間に小さな騒ぎになる程の人だかりが少し離れた場所で出来ているではないか。


 「一体、何事ですかいの? 」

 「ああ。神社の…………」


 爺さんが声を掛けたのは、町内会でも班長を務めていた元気のいい中年の男性だ。

 

 「いやね? ほら、そこの坂の所の山道があるだろ?

 あそこで首吊ってる奴が居たそうなんだよ。」


 ――自殺か………――


 胸に、嫌な感覚が渦巻いた。

 「若者ですか? 」

 「うんや、わしと同じくらいの男らしいわ。

 なんかな? 娘あてに遺書があったらしゅうてな。

 その子の写真を持っとったらしい。

 今、警察がその子の写真から身元を捜しょうるらしいよ。」



 「娘さんが………いるのに………ですか…………」

 そんな、話をしていた時、警察が人混みの中で聞き込みを始めている。

 どうやら、先程教えてくれた写真の情報を集めているらしい。


 「気の毒に………」


 だが、その少し後。

 爺さんは思わず絶句した。


 「すいません。この女の子をご存知の方はいませんか? 」

 その警官がそう言って、差し出した写真。



 そこに写っていた少女は…………

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