第三十七手 光

 由紀の対局時計から残り十秒のカウントアップが始まる。


 ――終わった。

 やはり他者との繋がりなどというものには、何も生み出さない。

 そんな事を言う奴は結局、何の証明も見せれぬ

 竜頭蛇尾のホラ吹きばかり……――


 「さあ、もういいだろう。ここはボクだけの場所だ!出て行け。」


 すると、少女は盤面を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。


 「ボク……だけの場所。そう……ここは君の意識の中。幾ら他者との繋がりがあったとしても、誰かが入る事なんて不可能。」


 桃子は、その言葉に頭髪を掻き、うんざりした口調で話す。

 「なんなんだ⁉今度は前言を撤回して、矛盾ばかりじゃないか⁉ 」


 「矛盾じゃない。何故なら、ボクは他者じゃない。」

 見上げたその少女の顔に、桃子は目尻が裂けるほど見開き驚く。そこにあった表情は、まさに自分自身の顔。



 ――ボクハキミガズットオクフカクニカクシテイタキモチサ、ズットズットマッテタンダキミガミツケダシテクレルノヲ――


 「違う……駄目だ……それを認めたら『ボク』の柱が折れてしまう。それを認めては『今までのボク』を否定しなければいけない。せめて、せめてボクは…ボク自身を否定したくないんだ。」


 ――イママデノボクモコレカラノボクモズットボクダロウ?――

 ――ダカラヒテイスルヒツヨウナンテドコニモナイ――


「違う、ボクは要らない子なんだ。ここにしか居ちゃいけないんだ! 」


 ――ココニイツヅケルカラソノコタエシカミツカラナインダ、イイヨキミノシンジル『証明』ヲミセテアゲルヨ、サァボクノテヲトッテ――


 そう聞こえると、桃子は恐る恐るその手の方向へ向かう。しかし思っている事は真逆だった。

 ――駄目だ、これを掴んじゃあ、ボクは、ボクはもう二度と……――

 手が触れた瞬間、眩い光と共に、その空間が崩れて融解ける。

 先程まで自分の幻影が居た場所、そこには見覚えのある少女が盤面を眺めていた。



 ――この娘が、今までボクの指し手に喰い付いていたのか…………?何だ?何故この死んだ盤面をそんな目で見れるんだ?――










 残り二秒。


 その少女の一手に桃子は確かに見た。


 それは、光。


 少女を映す後光のようでもあり、威光のようにも見えた。



 そして、その一手を見て一気に会場が地鳴りのような歓声を上げ、それは試合会場の彼女達の耳にまで届き、その音に『棋神門』の二人は、太鼓のように暴れる自分の胸を押える。そして、歓声の意味を理解する。

 

 桃子の初めて見せるその表情に。



 「これは……歩打ちではなく、王近くの金を動かして防ぎましたね。」女流棋士が意外そうにそう話すが、阿南がすぐに答える。

 「これが、唯一の逆転に繋がる手でした。」その言葉に会場全体がざわめく。


 ――そうか、あの小娘の指し筋……何故気にいらんか、分かったぞ……阿南の奴にそっくりなんだ……――



 「そうか‼ 」「うむ、これは‼ 」土生と達川の爺さんも同時にその筋を見る。


 ――やら…れた…竜の筋から逃れると共に、次で、角を打たれては、ボクの陣が大きく崩れる。しかも……集中力が切れた…三手先以上を読む事が出来ない…――



 ――桃子が、迷っている! ――

 その事実は、小早川に人生史上最も大きな戦慄を与える。雑賀は、その光景をとても信じられなかった。


 そこで桃子の時計が、カウントアップを始める。

 「くっ」桃子は苦しそうな表情で、守りを固める。


 「王を動かしてきました。ここは音さん、完全に攻勢から守備にまわりましたね。」阿南の口調が早い。さくさくと見本の駒を動かしていく。


 「ガリィ」と大きな歯ぎしりをして、それを見るのは古葉だ。

 ――無駄だ、桃子、その小娘は間違う事もあるまい……

 詰めろに持っていかれる――



 由紀が、桃子の後ノータイムで角打。桃子は再度盤面に顔を覆い被さる様に前傾姿勢になる。


 ――負けた? ボクが? 何故だ? あの金の筋が見えていなかった? 今までの棋譜にあんな手はなかった? では、何故この子は、この一手を見つけられたんだ? ――


 桃子は、迫る現実に肩を震わせる。

 ――嫌だ。嫌だ。一人で、ここまで来たんだ。誰にも頼らずに、将棋も計算も認められる程の実力を付けたんだ。負けたくない………負けたく……ない‼ ――

 逃げる桃子の手に、由紀は攻め手を止めない。再度ノータイムで王手を掛ける。


 そこで、桃子の動きが完全に止まった。盤面の決着が見えてしまったのだ。


 ――嫌だ‼ 嫌だ‼ 嫌だ‼ 嫌だ‼ 嫌だ‼ この娘に出来てボクに出来ないのは何故だ………そうだ……もう一度…あの『世界』に入れれば‼逆転手は見える筈…………‼ ――


 桃子は、盤面を見つめ、強く集中力を高めた。周囲の景色が変わっていくのを感じた。


 だが。


 目の前に浮かぶ光景に桃子は絶句する。

 そこはあの『漆黒の世界』ではない

 「マ……マ……ぱ……ぱ。」その桃子の言葉にとても嬉しそうにこちらに笑いかけてくる二人の男女。

 ――何だ……ここは…どこだ? ――

 いや、桃子は一目で確信していた。これは最も自分が他者からの愛を感じていた時代。


 「え? 桃ちゃん……なんて? 」「今、喋った⁉ 」二人の男女がそう言う。その時に桃子は知っていた。しかし、今の今まで忘れていたのだ。あの時本当に伝えたかったその言葉。

 「だ……い………しゅ…き。」



 その瞬間。桃子が閉じ込め続けていた何かが、弾ける。



 ――オカアサン、オトウサン――

 ――助けて‼ ――





 「ピピピピピピピピピピ」と焦る様な電子音が、対局時計から鳴りだした。

 それを見て、一気に沸く会場。土生も達川の爺さんも、思わず雄叫びをあげる‼ あげずにはいられない………高揚の咆哮‼





 由紀は、まだ『その世界』に居た。その盤面を見つめ『その世界』の由紀は安堵の笑みを浮かべていた。


 ――これで、また三人でチームを続けられる――と。


 その時、大きな衝撃で、由紀の意識は一気に現世に戻された。

 「うわぁ‼ 」両肩に重い何かが覆い被さってきた。由紀が見るとそれは、やはり思った通りの二人だった。


 「勝ちました。あたし‼勝てました。これで明日も…」


 そこで、達川が由紀の口を塞ぐ。そして、二人の目に涙が浮かんでいた事に気付く。

 「すまねぇ、すまねえなぁ由紀ぃ、お前一人、スゲー頑張ってくれたのに……」

 「ごめんねぇ、由紀ちゃん。」理解した時、目頭と鼻奥が、痛みを持つほど熱くなる。


 その三人のやりとりを、桃子は正面の席に居ながら、遥か遠くから見ていた。


 ――この子の強さはこれか……勝利に涙で喜ぶ仲間……ボクとは違い…存在する事を許された子……ボクに、その力を教えてくれた………えっ⁉ ――


 桃子は「ひゃ」と身体を跳ねる。雑賀が、掌を額に当ててきていたのだ。


 「と、智美⁉ な、なにを……」「桃子、君が全然返事しないからだ。」そこで初めて二人が自分の傍に来ていた事を知った。

 「何でぇ、熱でも出とんがど、思ったでねが。ずかし、桃子が負けるとはな。」

 その表情を見て、桃子は顔を伏せてもじもじと口を動かし、言った。


 「ごめん……理絵子、智美……負けちゃった……」


 その言葉に二人は、桃子の敗北の事実よりも強い衝撃を覚える。今度は雑賀だけではなく、小早川まで慌てて桃子の首筋とおでこに掌を当てる。「わぁ、やめてくれ。理絵子まで⁉ 」


 「馬鹿野郎、いよいよもっで、心配になるよな事言いよる桃子が悪ぃ‼ 」

 「し……しんぱい…………? ぼ、ボクの? 」すると、今度は小早川がすかさず言う。

 「当然だろう? チームで唯一年下の君を心配しないほど、私も智美も薄情ではない。」

 「ああ? それとも何が? 弱いおらだちが、おめの心配をするなんでと、思ってんでねが? 」すると、桃子は、目を伏せてその白い顔に桜のような、ほのかな赤みを浮かべた。

 「違う……んだ……心配してくれたのが…嬉し……くて。」


 ――そうか、ボクはこれを見ようとしていなかったのか……

 理絵子も智美も、いつも一緒に居てくれたのに

 だから……きっとあの手も見ようとしなかったんだ――


 そこで、桃子は目の前に見た覚えのない手が差し出されていた事に気付く。

 「あ、あの……ありがとうございました。」先程までの対局相手が、目を真っ赤にして手を差し出すその光景を桃子は、既視感を覚えながら、その手を掴んだ。最早迷いはなかった。


 「凄まじい………感服の一手だった。」その桃子の言葉に由紀は「え? 」と聞き返す。

 「いや、何でもない……こちらこそ……ありがとう……もしよかったら……君の名前を聞かせてくれますか?」

 「あ……苫米地由紀……」

 「由紀……」非凡なその記憶力に刻み付ける様に、何度も呟く。


 ――由紀……君に、色々教えてもらった気がする。ボクも、もう隠れずに、少し前に進んでみようと思う。そして、いつか。その時……君にお礼を言いたい――


 「あの……音さん? 」赤い目を不思議そうに桃子に向ける。桃子は「フッ」と静かに息を吐く。


 「桃子って呼んでほしい。由紀……」今まで浮かべた事のない……それが『笑顔』だったのだと、桃子は後に知った。

 「おい!それよりよっ、感想戦やってくれよ。うちらあんまり見えてなかったんよ。」


 達川のその言葉で、両軍のメンバーが二人を取り囲むように、集まり、盤上に視線を集めた。桃子は、その光景を見て、胸が灼けるように熱く、熱くなるのを感じた。


 俯き、肩を震わせ落涙を堪える桃子を見て、由紀が言う。


 先程の神々しい光は、消え。

 そこに在ったのは、小学生の女子らしい野花の様な笑顔。


 「桃子ちゃん、将棋って楽しいね。」

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