君と僕の間には ③何も知らない彼のこと


 所長代理が分析室から出てきたルカを見つけて呼びつけた。


「鳴神!ちょうど良かった!TPH明日までに証明書出せるなら3倍払うって今、ゼネコンから依頼があった!出来る?」


「何検体?」


「昨日届いた40検体のうち、10検体。」


「余裕。」


「ついでに岩槻までサンプル届けて欲しい。行けるか?」


「了解。」


「頼んだ。サンプルは午前中に届くから、受け取ったら出て。それまでに終わる?」


 ルカは検体リストを受け取りながら、笑顔で応えた。





 ミキがルカの職場に車で乗り付けると、外でサンプリング作業を終えた従業員が気付いて声をかけてくれた。


「鳴神、さっき出たよ。」


「残念!昼くらい一緒に食えるかなーと思ったんですけど……あ、神無月代理居ます?」


「3階あがって。」


 従業員に促され、ミキとアリスは3階へと向かった。


「こんにちはー。」


 ミキが所長代理の姿を見て声を掛けた。


「おお!働く気になった?」


 代理の言葉にミキが苦笑しながら答える。


「いや、それはまた今度考えさせて下さい。今日、見学出来ます?勝手に見てっていいですか?」


 代理は珍しい連れを見て、満面の笑みで答えた。


「案内しよう。」


 代理は二人を1階に通した。ガラス器具や理化学実験装置がところ狭しと並んでいた。


「1階が有機グループ。主に有機溶剤を用いた抽出操作を行う作業の部屋だ。鳴神は有機グループだから、主にここで作業にあたる。ノルヘキ抽出、PCB、残留農薬、有害大気、室内環境、環境ホルモン、VOC、TPHなんかが主な守備範囲だ。


まぁ、SEMだろうがTGだろうが、あいつは言ったら何でもやるね。断った事はないし、80から120パーセントが許容範囲の試験でさえ、プラマイ0.5パーセント程度でキッチリ合わせてくる。ちょっと見ていく?」


 代理が休日出勤している作業中の従業員に声を掛け、残留農薬試験操作を見せてもらった。局所排気装置内に設置された吸引マニホールドに注射筒シリンジのようなカラムが差し込まれ、検体が吸い上げられていく。


「白い粉の部分に農薬が吸着されるから乾かしてから溶媒で抽出する。で、できた検液を液クロにかける。彼は難しい標準の回収も、内標回収も安定的にこなす貴重な戦力だ。何を扱わせても迷いがないし、何より早い。数こなす必要がある項目では特に重宝してる。」


 抽出液を試験管に注いで並べ、窒素パージしながら濃縮させる工程まできた所で所長代理が操作手を労って離席させた。


「彼の操作はこんなもんじゃない。粗っぽく見えるけど、感覚が繊細なんだろうね。バイアル一つ持たせてみても、指先の動きがセクシーだ。あいつ絶対エロいよね。」


「代理、ガチのセクハラやめてくださいね。女性が居るんですから。」


 ミキが所長代理に苦笑した。


「本人がいないんだから、いいじゃない。ダメか。」


 所長代理は豪快に笑った。


「喫煙室通るけど良いかな?」


 所長代理が喫煙室の向こう側にある、中二階の作業場へと二人を案内した。


「これがTPH。汚染された土壌なんかに含まれる鉱油類をFIDで検出してアマウントを出す。さっき、彼がかけていったサンプルが並んでる。1検体1時間かかるから、10検体で10時間。実際には測定したサンプルの汚染が次のサンプルに影響していないか確認する為に、間にブランクを挟んだり安定性を入れるから、もっとかかる。ざっと、22時間てトコだろう。


これはこのまま無人運転で翌朝止まる算段だ。彼は有能だよ。時々、データ整理と称して、ここで寝てるけどね。」


 代理が苦笑した。実験台の上には野帳、点検記録簿、ガイドライン等の書類の他に、技術士の参考書が並んでいた。代理の目線の先にルカが見える気がした。こんな風に見守っているんだと、代理の余裕を考えると、アリスには代理が羨ましく思えた。


「今日は岩槻に行かせた。朝早くから芦ノ湖まで運転させる事もある。かなりきつい仕事だから、家族が応援してくれると嬉しいんだけどね。」


 所長代理がアリスの顔を見たが、アリスは何も言うことが出来なかった。


「明日早くなる分、今日は戻り次第、帰るように言うから。」


 そう言うと、所長代理は手を振りながら、3階へと戻っていった。



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