後編 ⑤手をとって
「実はあまりよく知らないんです。残念ながら。多分、誰も彼女の事、知らないんじゃないですか?役員としても挙がらない彼女を最高経営責任者のあなたが連れている方が疑問な位で。」
「……よく調べたね。役員の顔を覚えたの?」
「クリエイティブな仕事をさせるには自由な環境が必要だと思います。ある程度の自由はあったと思うんです。でも、出会っちゃったんですよね、僕たち。全然大丈夫じゃなかったし、全力で助けてくれって言ってたのに、あの時はわかってあげられなくて……。あれからずっと、考えてたんです。」
「……確か、少年が二人いたという報告があったが、君たちの事か。」
「もし僕があなただったら、後継者の事を考えます。人材の育成も勿論考えておられたと思います。でも、何で彼女に会わせる必要があるかって考えると……。」
「苦学生だね。今の年収だと生活が辛くはないか?君はテストを通過した。回答までの時間を見ると、取捨選択がうまいようだ。システム情報工学研究科、構造エネルギー工学志望……専攻はあれだが、まぁ、悪くはない。彼女が良ければ別に君でもいいんだよ。工学で博士課程に進みたいならスポンサーになろう。何か不満かな?」
ルカの言葉を遮った男性は提供していない個人情報を挙げて牽制した。名前と連絡先を渡してからの僅かな時間で洗いざらい調べられた事は察した。ルカは一瞬考えたが、首を横に振って答えた。
「それじゃあ、何も変わらないんですよ。今度は家族を人質に取るんですかね?子供が生まれたらどうします?」
「喜ばしい事じゃないか。」
「同じ事繰り返すつもりじゃないですか?」
ルカの言葉にヘンリーが眉をひそめた。
「では、君はどうやって彼女を守るつもりだ。渡った先に依っては大変な脅威になりうる。」
「確かに、僕には何の力もありません。でも、やり方が気に入らないんですよ。彼女が自立と教養から遠ざかっていたのも、身動き取れないようにするための、そちらの教育方針のせいじゃないですか?」
そうは言いながらも、それについてはルカ自身、どこかこのままの方が安全で、仕方のない事なのかも知れないとは思えていた。
「調べればわかる事だから言いますけど、僕、自分の母親に何で自分を連れて逃げなかったのか聞いたことがあるんです。そしたら、生活出来ないからって言われまして。元々は父親の暴力が原因だったんですけど、徐々にエスカレートしていくと慣れちゃって、感覚が麻痺してくるんですよね。
そういう時、判断できる大人が決断出来なかったらダメだと思うんですよ。学歴はともかく、相手がダメだと思ったら、離婚するなり別居するなり、お互い自立して生活していけるだけの教養は必要だと僕は思ってます。子供が犠牲になる世の中はもう嫌なんですよ。」
「あらら、結婚する前に離婚しちゃった。」
ルカが横目で振り返ると、ミキはガムを膨らませながら笑っていた。
「それも君の希望の押し付けにならないかな。」
「そうです。どこの誰になろうと、彼女が彼女になれるなら、取り敢えずどうだっていいと思える位、今の僕は彼女に関して冷静な判断が出来ません。だから……冷静な第三者の判断に任せようと思ったんです。」
「?その第三者とは誰だね。」
その時、秘書の女性が電話を持ちながら
「日本の入国管理局が調査に乗り出します。軟禁状態の少女が居るとの申請があったようで……。」
ルカは振り返って少女の顔を見た。少女はルカの目を見つめ返す事で答えた。
「亡命か。考えたな。仮滞在許可が出てしまえば、審査中は就労禁止、入管からの呼び出し以外は自由の身だ。」
そう言うとミキはガムを包み紙に取り出しながら笑った。
「……そんな奴は居ないと突っぱねろ。」
「それが、既に社会的には殺されていて、機密のためには生命の危険もあるという証言も取れているようで……。」
「良かったね!軟禁状態の女の子はこの会社には居ないんだって!クビだ。」
ミキが少女に向かって言った。
「それでは、ヘンリーCEO。お忙しくなりそうなので、僕たちはこれで。お話し出来て光栄でした。」
ルカは深々と頭を下げた。
ミキが外階段の扉を開いて出ると、ルカは照れくさそうに少女に手を差し伸べた。
「行くトコ無いんでしょ?何もないけど、それでも良ければ……。」
少女がルカの手を取ると、ルカは思い出したように少女に聞いた。
「ところで、お嬢さんお名前は?」
少女はルカを見上げて答えた。
「アリス・プレザンス・リデルです。」
「!! 何処へ行く気だ。」
ヘンリーの声にルカが振り向いたが、ルカはすぐ、アリスの顔を見て、
「今日は忙しいよ。」
と言った。ミキが、
「着替え買わなきゃ。パルコ寄ってかない?可愛いランジェリーショップあるから。」
とアリスに勧めると、ルカが扉の向こうのミキを前蹴りする素振りをしながら、
「失礼しました。」
と扉を閉めた。
「ルイスだ!ルイスを呼べ!」
荒らげたヘンリーの声の向こう側で、階段を駆け下りるアリスを制止しようとするルカの大声が、展望台から次第に遠ざかっていった。
アリスプログラムとは、元々自分の育成プログラムの事で、自分自身、便宜上、そう呼ばれているだけだと思っていたため、自分の正式な名前を知らなかったが、自分の名前から取ったものだったとアリスは説明した。消される前に取得されたパスポートを持っていた人がいたという。
アリスは3歳以前の記憶は認識の仕方が違うらしく、殆ど読めない事を明かした。埋めることが出来なかった名前欄の記入を手伝った人物については口を割らなかったが、ルカには想像でき、ミキにも何となく当てがついた。
「ところで、水をさすようで悪いんだけど、今度はお前が誘拐だって言われんじゃないの?」
「……わかってる。」
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