第9話




 日頃お世話になっているお礼がしたい。森田君が以前そう申し出ると、絵のモデルになって欲しいと生瀬さんに頼まれた。今日の放課後は、その約束の日だった。


 美術室で二人きり。

 話を切り出すには絶好の機会でもあった。


 だが、まずは生瀬さんの望み通り、絵のモデルとしてしゃんとせねば。と、森田君は椅子に座って気をぐっと気を引き締めた。


「……森田君?」


 呼びかけられて森田君ははっと顔をあげた。

 どうやら、うとうとしてしまったようだ。


 森田君は慌ててよだれを拭いた。


「休憩、しよっか」

「いやその、まだ三十分くらいだし。大丈夫」

「私が疲れちゃったから。ね?」


 生瀬さんが鉛筆を置いた。

 気をつかっているのだろう。


 ヨロズ先輩の事で色々と心配事や考え事がある上に、昼食時には生瀬孝也の毒牙にかかっている。森田君が考える以上に、疲れが溜まっていたようだった。


「ごめん、生瀬さん」

「モデルさんが元気じゃないと困るのですよ、森田君」


 生瀬さんがおどけた口調でそう叱った。どうやら、偉い人の真似をしているらしい。誰の真似なのかは分からなかったけれど、とっても愛らしい声真似だった。


 ふふふっと笑い合って、森田君は肩の力が抜けた気がした。


「そのまま、楽にしててね、森田君」


 生瀬さんがイーゼルに向かい、鉛筆を走らせている。

 とても真剣な眼差しだった。


 森田君には良く分からないが、今の状態を描きたいらしい。生瀬さんの鉛筆の動きが落ち着くまで、森田君はなるべく姿勢を保った。


「実はね、生瀬さん」

「なに?」

「恋人同士じゃなくなったんだ、先輩とは」

「……え?」


 生瀬さんは目をしばたかせ、きょとんとしていた。ヒーターの音が殊更に良く聞こえるのは、すらすらと走らせていた鉛筆の音がぴたと止まったからなのか。


 森田君は頭を下げた。


「黙ってて、ごめんなさい。その、ボクが少し急ぎ過ぎていたみたいで。それでその、ボクが先輩に無理を言って、関係を一歩戻したんだ」

「……そう、だったんだ……」

「生瀬さんにはいつも、すごくお世話になってて、散々無理を聞いてもらって、手伝ってもらったのに……報告が遅れて、ごめんなさい」

「も、森田君が決めた事なんだから、謝る必要なんてないよ」

「生瀬さんにはもっと早く報告すべきだったと、ボクは思うから」


 森田君はそう言って、しばし生瀬さんの反応を待った。

 生瀬さんは少し混乱しているようだった。


「その、森田君は……今も、好き、なんだよね? 銀野会長のこと」

「うん」


 生瀬さんの目を見て、森田君はしっかりと頷いた。


「でも、そういうのは、先輩の気持ちあってのものだから。ボクがどれだけ好きであっても、先輩にもそうなってもらわないと、恋人である意味がないと思うから」

「ちゃんと話し合ったんだよね?」

「うん。ボクってほら、そそっかしいトコあるからさ」

「そっか……」

「それでね、生瀬さん」


 居住まいを正して、森田君はお辞儀した。


「これからも、これまでみたいに変なお願いをしてしまう事になると思うので……厚かましいとは思うんだけど、その、よろしくおねがいします」

「……う、うん。任せて、森田君」

「さっそくなんだけど。次はその、高い所から飛び降りたいなぁって……」

「ふへ? ……そ、そうなんだ……」

「う、うん。そうなんだ」


 生瀬さんが受け入れられるよう、一分ほど森田君は待ってから続けた。


「でね、また変なお願いなんだけど、生瀬さんにはボクをトランクケースの中に詰めて、少し移動してほしいんだけど、いいかな?」

「……えっと、高い所から、飛び降りるんじゃ?」

「そ、そうなんだけど。その前に必要なことで」

「そう、なんだ……」

「順序っていうか、手順みたいなものなんだ」

「わかった。じゃぁ、今週の土曜日でいい?」

「ありがとう、生瀬さん。それじゃ、またボクの家で」

「うん」

「孝也さんの手料理を食べ終えた後、お願いします」


 こんな奇妙なお願いも、三度目ともなれば多少は慣れてしまうものらしい。森田君は要点を生瀬さんに伝え、協力してもらう事になった。


 森田君はトランク人を詰めて運んだ経験はあるが、運ばれた経験はない。ヨロズ先輩の要望をより好ましい形で叶えるには、経験を積んでおくべきだろう。


 森田君はそう考えていた。


 土曜日はすぐにやってきた。


「お願いします」

「それじゃ、いくね、森田君」


 トランクの中に横たわりながら、森田君は不思議だなと思った。一度このケースの中に詰めてしまった人に、今、詰められようとしているのだ。


 以前開けた空気穴から細い光りが差し込むものの、狭くて暗い。ヨロズ先輩がどれだけ器用に身体を折り畳んで入っていたのか、やっと分かる。


 人生、一寸先は闇。そんな言葉を森田君はふと思い出した。


 未来は霧深き道。三つの『かな』が大切だ。

 のぼりかな? くだりかな? そんなバカな。


 問題はすぐに起きた。


 生瀬さんは、家の玄関を乗り切れなかったのだ。人間一人入っているトランクケースは、さすがに女の子一人の細腕では、いかんともしがたいらしい。致命的なつまずきだ。この先にある諸々の障害を乗り越えるには、生瀬さん一人ではまず無理だろう。


「ご、ごめんね、森田君……」

「生瀬さんのせいじゃないよ! 違うから!」


 申し訳なさそうにしゅんっと落ち込む生瀬さんを、森田君はそう言って励ました。はからずも言葉に力がこもってしまう。


「生瀬さんはすっごく良くしてくれてるから!」


 生瀬さんは普通の女の子だ。

 小柄で、どちらかと言えば非力な方だ。


 度を越して優しく、時おり後光が見えるほど包容力がありすぎて、人間の領域を超えて天使に差し掛かり、ゆくゆくは熾天使を目指せる素質まで持ってこそいるが、それでも、常識的な感性を失わない高校一年生の女の子なのだ。


 純情な高一男子に「山中に埋めて」やら「湖に沈めて」やら「高層ビルから突き飛ばして」やらと、真顔で言ってくる高二女子とは訳が違う。


「力仕事になるから、もう一人くらい居てくれるといいんだけど……」

「……どうしよっか?」

「こういう時に、山下が居てくれれば……」


 生瀬孝也に助力を頼めないかと森田君が言うと、生瀬さんは「絶対にダメ」と言った。引き換えに、何を要求されるか分かったものではない、と。

 仮に無償で引き受けてくれたとしても、タダより怖いものはない、と。


 生瀬さんの力説と、自身の経験から、森田君は考え直した。


 悪魔に魂を売るのは、ここぞの時まで取っておくべきだろう。森田君が腕を組んでむむむっと唸っていると、生瀬さんがぽんっと手を叩いた。


「あ、森田君! 私、心あたりがあるかも」

「え?」

「協力してくれるかもしれない人」

「ほんと!?」

「うんっ!」


 生瀬さんがとびきりの笑顔で言ったものだから、森田君は油断した。


 女王様研究部。

 生瀬さんが案内してくれた部屋には、そう書かれてあった。



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