第168話 姫君は大変な爆弾を投下していきました

 あの少年が塀の上を駆け抜け、ただひたすらに走り抜けた先。そこには、商店街を突っ切る通学ルートがあった。


「おぉ龍太――って、どうしたんだ? あんなに急いで」

「あら? 今走ってった子……賀織ちゃんじゃなかったわねぇ。誰かしら、あの子」


 数多の店の前を涙目で疾走する、長髪の褐色少年。その小さな背中を追い、息を切らして走る俺。そんな約二名の男共に、顔なじみの皆が目を丸くしている。

 ――だが、今は彼らに事情を説明している暇はない。僅かでも立ち止まれば、その瞬間に見失ってしまう。思わずそう考えてしまう程、少年の素早さは常軌を逸していたのだ。

 ただ危険を強く意識しているだけで、ここまでのスピードが出ているとは考えにくい。妙なことばかり言うところも含めて、あの少年――ただ者じゃなさそうだ。


 となれば、ますます放って置けなくなる。俺は体重を前方に傾け、前のめりになる勢いで加速した。

 俺が次第に追い付いてきたと悟ったのか、少年も必死に足を早める……が、元々の歩幅が違いすぎるせいもあり、徐々に距離も縮まりつつある。


 ――偶然だろうが、矢村の家を横切るルートに入られなくてラッキーだったぜ。もし武章さんに絡まれたりしたら、確実に彼をロストしていたところだ。


 それにしても、俺と殆ど変わらない速さでここまでの距離を走れるなんて……この子、一体何者なんだ? 日本人離れした身体能力や、口に出す人名から察するに、外国人には違いないみたいだが……?


「……ぐ!」


 そして、とうとう学校の近くにまで来た時。少年の走りに、ほんの僅かな乱れが生じた。

 長い髪がふわりと片方に揺れ、それに釣られるように上体が傾く。次いで、猛烈に地面を蹴り続けていた彼の両足が、突然力を抜かれたように失速してしまったのだ。

 それでも子供にしては異様な速さなのだが――俺の目はごまかされない。バテた上に、膝が痛んだのだろう。いくら並外れた体力を持っているとは言え、怪我をした状態でここまで走り続けていて、平気なはずがないからな。


 少しずつ差が埋まってきたところへ現れた、その隙を見逃す手はない。俺は畳み掛けるように一気に加速し――ついに、少年の確保に成功するのだった。


「とうとう捕まえたっ! そんなに痛むんなら、無理しちゃダメだぞっ!」

「や、やめろぉっ! 離せぇー! オ、オレを、オレを妊娠させる気かぁああー!」

「出来るわけねーだろそんなこと!」


 少年の無茶苦茶な言葉にも慣れた――つもりでいたが、やっぱり慣れない。男が男を妊娠させることが不可能ということくらい、小学生でもわかるはずだろう。

 だいたい、子供が妊娠だの犯されるだの、はしたないどころの騒ぎじゃない。親にどんなけしからん教育をされたら、こんな増せるベクトルがおかしい子に育つというのか。


「だ、騙されない! オレは騙されないからなっ! いくらテンニーンの顔で優しくしようったって、オレはごまかせないぞっ! ジャップなんかに、騙されるもんかっ!」

「あーもう、頼むから大人しくしてくれ! ご近所さんに迷惑だから!」

「ムグ、ムググ〜っ!」


 いろいろ彼について確かめたいところではあるのだが、こうも冷静さを欠いていては話にならない。俺は後ろから抱きしめた状態で、彼の口を掌で塞ぐ。

 少々危険な絵面だが、今は手段を選べない。この子の暴走が収まるまでの辛抱だ。

 俺はジタバタと暴れる少年の動きが小さくなっていくことを確認し、ゆっくりと口から手を離した。どうやら、とうとう疲れ果ててしまったらしい。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

「……ごめんな、手荒なマネしちゃって。悪いことをしたと思ってる。だけどね、怪我してる時に、あんな無茶はしちゃいけないよ。さ、早く行こう? お父さんやお母さんも、きっと凄く心配してる」


 その姿にチクリと罪悪感を植え付けられた俺は、彼と目線を合わせるために片膝をついていた。俺の手を両肩に置かれている少年は、観念したように目を伏せている。

 ようやく落ち着いてくれたか。


 ――と、俺は安心した……のだが。


「……せよ」


「えっ?」

「……返せよ。だったら、返せ。返せったら、返せよッ!」

「な、何をさ……?」


「返せよォッ! だったら返してよッ! 父上も、母上も、テンニーンも……国のみんなも、返してよ……みんな返してよぉぉおおぉッ!」


 突如、彼は目尻に大量の雫を一瞬で貯え――けたたましい叫びと共に、それら全てを一気に頬へ伝わせる。

 そして俺の襟を両手で掴みながら、縋るような悲痛な声を上げ――泣き叫ぶのだった。


「――ッ!」


 ……父や母、そして「テンニーン」を返せ。彼は、確かにそう言っている。

 どのような経緯から、このように泣き叫び、訴えているのかはわからない。わからないが、この言葉だけでも彼が置かれている環境というものが、ほんの少しだけ見えてきた。


 この少年には――両親がいない。そして恐らくは、テンニーンという友人も……。


 それを踏まえて考えてみれば、俺の発言がいかに地雷だったかは容易に想像がつく。単なる迷子か、早咲きの中二病辺りかと思っていたが――とんでもない思い違いだったようだ。


「……そっか。ごめんな、なんか」

「うるせぇうるせぇうるせぇっ! お前なんか、お前なんか大嫌いだっ! こいつ、こいつっ、こいつぅうっ!」


 掛けるべき言葉を探し、思案に暮れる俺を責め立てるように、少年は両手の拳を何度も俺の頭に叩き付ける。だが、痛みは微塵もなく、ポカポカと軽く当たる感覚しかない。

 先程までの身体能力から察するに、いくら疲れているとは言え、この軽いパンチが全力だとは考えにくい。とにかく感情をぶつけたいという気持ちと、こんなことをしても意味がないという理性がないまぜになり、この程度の攻撃になっているのだろう。


 ……むやみに掘り起こされたい話ではなかったはず。彼の怒りや悲しみは、尤もだ。この件に関しては、そうとは知らずに無神経なことを口走った俺が悪い。


「う、ぐすっ……ぅ、えぇっ……」

「――辛いよな、ごめんな。思い出させちゃって。じゃあ、今一緒に居てくれてる人を探そっか」

「……ワーリ、ワーリ……どこぉ……」

「そうか。ワーリって人なんだな。……大丈夫。俺が言えたことじゃないけど、その人のところまでちゃんと連れてってあげるから、ね?」


 とうとうポカポカと殴る力も無くしたのか、彼は両手で目元を擦りながら啜り泣くようになってしまった。ここに来てようやく、彼の「普通の子供と変わらない」姿を見ることができたようだ。

 俺はそんな彼の頭を静かに撫で、刺激しないようにゆっくりと立ち上がる。そして日に焼けた小さく柔らかい手を、そっと握った。


「あ……」

「ホント、ごめんな。俺には何もしてあげられないけど……せめて君を、ワーリって人のところまで送らせて欲しい」

「……ぐす、うっ……テンニーン……テンニーン……」


 そして彼の手をそっと引き、診療所を目指して歩み出す。出来る限り彼の歩調に合わせ、優しい言葉を掛けながら。

 ――彼の両親がどうして居なくなったかはわからないが、俺個人にはどうすることもできない問題だろう。仮に故人だとすれば、なおさらだ。レスキューヒーローには、死んだ人間など救えっこないのだから。

 ならば、俺に出来ることは「今生きている」彼を、無事に親代わりの元へ返すことくらいしかない。どう罵られようと、俺は俺に出来ることをするしかないのだ。


 一方、少年はすっかり大人しくなっており、俺に手を引かれても文句一つ言わずに無言でついて来ている。さっきまでの彼なら、即効で俺の手を叩いてもおかしくないというのに。

 昔を思い出しているのか、彼は片手で目元を何度も擦り、うわごとのように「テンニーン」という名前を呼び続けていた。……その子とは、こうやって一緒に手を繋ぐ仲だったのかも知れない。


 この子については後でじっくり聞き出すつもりでいたが――今はそんな詮索が野暮だということくらい、「鈍感」と常日頃から罵倒されている俺でもわかる。

 そっと、ワーリって人のところまで送ってあげよう。俺がしてあげられるのは、もうそれだけなのだから。


「……!」


 その時。


 ふと、少年は何かに気づいたように目を見張り、その場に立ち止まってしまった。

 急に泣き止んで歩みを止めた彼の様子に、俺はただならぬ異変を感じ取る。


「どうした? 具合でも悪くなったのか?」

「近くに、ワーリの気配がある……ワーリがいるっ!」

「ちょっ……君っ!?」


 唐突に動きを止め、しばらく辺りを見渡していた彼は――やがて学校の方へ視線を固めていた。

 今度は何を言い出すんだ、この子は? 松霧高校に、そのワーリさんがいると云うのだろうか?


 そんな俺の疑問に答えることもなく、少年は俺の手を振り払うと、学校の敷地を隔てる塀をよじ登り始めた。しかも、止めようとした俺の予想を遥かに凌ぐ速さで。


「ちょっ、ちょっと危ないよ君っ!」

「ワーリ、ワーリぃっ!」


 ものの数秒で、三メートルはある学校の塀を登りきってしまった彼は、俺の制止に耳を傾けることなく向こう側へと渡ってしまう。

 それを見届ける形となっていた俺は、我に返るや否や、彼を追うように塀の隙間に足を引っ掛けた。


「……不思議な子だよな、全く」


 謎ばかり撒き散らし、予想だにしないアクションを立て続けに起こす彼の背中を思い浮かべ、俺は思わず苦笑いしてしまう。

 そんな彼の無事を静かに祈りつつ、俺は塀の隙間に手足を引っ掛けていった。


 そして、俺が学校の敷地内にたどり着く頃。既に少年は、部室棟のとある窓から建物の中に入ろうとしていた。

 ……って、よく見たらアレはウチの部室の窓じゃないか!? てことは、今のあの子は久水や四郷姉妹、それに救芽井達とも鉢合わせしてるってことに――


「助けてワーリっ! オレ、このままじゃジャップのお嫁さんにされちまうーっ!」


 ――うぇぇえぇえぇえぇッ!?

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