第107話 押し寄せる波との戦い

「冗談だろッ……くそっ!」


 俺の全身はおろか、その後方十数メートル先までに及んでいる、漆黒の影。

 その原因たる巨大な津波を前に、俺は反射的に身体を反転させ、両脚の筋肉に全力で信号を送る。

 「救済の超機龍」のパワーを引き出しても、逃げ切れるかどうか……!


「間に、あ、えぇえぇええぇッ!」


 地面を蹴る、その一瞬すら惜しむ思いで、俺はひたすら覆いかぶさらんと迫る濁流から逃れようと懸命に駆ける。

 そんな俺を嘲笑うかのように、津波の幕はさらに広がっていく、まっすぐ走っていては、すぐに捕まってしまうだろう。


 人を覆うように押し寄せる津波が、重力に引かれて地面を飲み込んでいく。その瞬間というものは瞬く間に訪れるはずなのだが、心なしか今回ばかりは、その一連の動きが緩やかな流れに見えて仕方がない。

 スローモーションのように視界へ映るその光景に、俺は自嘲の思いに駆られ、この状況でありながら口元を緩めてしまった。


 ――あまりにも絶望的過ぎて、走馬灯の類でも見えはじめているのか……。


 そして次に沸き上がるのは、無力な自分への怒りだ。

 一歩踏み出す度に、果てしなく遠退いていく影の終わり。そんな届くはずのない場所に手を伸ばし、俺は思わず仮面の奥で唇を噛み締める。


 ――ダメ、なのかよッ……ちくしょうがッ……!


 所詮、俺ごときが一国を滅ぼせる超人を生んだ「新人類の身体」に、敵うはずがなかった……ということなのだろうか。

 ――いや、これはそんな次元ですらない。命を懸けた戦いですらない技術競争で遅れを取るような奴が、あの娘を救うなんて……笑っちまうよなぁ。


 そんな、諦観の念が俺をつま先から頭のてっぺんまで支配しようとしていた。

 ……その時。


「龍太君ッ! 正面に走っちゃダメッ! 捕まる前に建物の隙間に逃げるのよッ!」

「……ッ!?」


 グランドホール全体どころか、下手すりゃ地上まで届いてしまいそうな程の救芽井の叫びが、俺の聴覚を通して脳内に突き刺さる。

 今までに聞いたことがないような、いつになくけたたましい声。遠くで走り続ける俺に届くようにと、全力で叫んだのだろう。届き過ぎて耳が痛いけど。


 「津波が迫っている」という状況は観客席には伝わっていないはずだが、恐らく俺の様子から何が起きているのかを見抜いてしまったのだろう。さすが、第一人者は違うな。

 俺はこの手のシミュレーションに詳しいであろう彼女のアドバイスを信じ、アスファルトを蹴る方向を変える。狙うは……数メートル先にある、ビル同士の隙間ッ!


 もちろん、ただでさえ追い付かれようとしている中で、逃げる方向を正面からずらしたりなんかしたら、移動スピードが落ちて一瞬で飲み込まれてしまう可能性もある。

 だが、このままバカ正直に真っ直ぐ走っていても、結局のところは捕まってしまうのも明白。だったら、たとえ無茶でもなんでもやるしかないんだよなッ!


 可能な限り逃げるスピードを殺さないよう、徐々に隙間に入るために進行方向を道路の端に詰めていく。

 そして、後ろで聞こえて来る、津波の轟音に内心で震えながら――僅かに力を溜めて強く大地を蹴り、一直線に隙間へ飛び込む!


 背後から迫る津波の影は、もはや思わず目をつぶりたくなるほどにまで濃さを増し、警戒音の激しさも、実践の中ですら聴いたことがないレベルに達している。

 きっと誰もが……俺自身ですら、僅かに諦めかける気持ちが湧き出てしまう、この状況。


 それを覆したのは――他でもない、この「救済の超機龍」のポテンシャルだったのだ。


「く――おぁあぁああッ!」


 このギリギリな事態を跳ね返したい。そんな思いゆえ、身体の最奥から気力を振り絞り、ただひたすらに叫ぶ。

 辛うじて俺がビルの隙間に飛び込めるまで、その奇声が止むことはなかった。

 やがてアスファルトを覆っていた津波が地面と衝突し、激しい轟音を立てると共に濁流へと変化した。


 ――失格にされてる様子はない! やった! 間に合ったんだッ!


 ……だが、安心してはいられない。

 ビルの隙間に逃げ込めたからって、津波がそのまま素通りしてくれるわけじゃない。津波の流れが僅かに分断されるだけで、こちらに向かって来ることには変わりないのだ。


 この窮地を脱するには、分断されて隙間に侵入してくる津波の勢いが、この狭い空間を飲み込む前に、高所へ避難するしかない。津波から逃げる最終目的地が「高い所」なのはどんな時代でも変わらないってばっちゃが――じゃない、救芽井が言ってた。

 そしてそれを成すには、「救済の超機龍」の運動能力に賭けて、このビルを屋上まで登りきるしかない。だが、立ち止まっていたらすぐに追い付かれてしまうだろう。


「――間に合ってくれッ!」


 俺は飛び込んだ時の勢いを利用して、ビルの壁に飛び掛かる。その後を追うように、とうとう津波がこの空間にまで侵入してきた!

 隙間の中という狭い場所に突然飛び込んできた津波の一部は、激しくうねりをあげて襲い掛かってくる。


 一方、俺は向かった先にある壁を蹴って反対側のビルに向かい、そこから同様の動作を繰り返した。

 壁を蹴って高さを稼ぐ、いわゆる「三角飛び」だ。本来なら、直接跳び上がった方が屋上を目指す上では速かったのだが、跳び上がるために力を入れてる内に飲み込まれては本末転倒だろう。


「くっ……うぉおぉおーッ!」


 けたたましい叫びと共に、俺はただ懸命に壁をひたすら蹴り続ける。数センチ下を流れる津波の勢いから逃れようと、俺はただ真上を見つめ、声を張り上げていた。


 ……それから数秒後。俺の足元のすぐ下を、濁流が渦巻いて大暴れしている。もし、隙間に逃げ込んでからの一連の動きに僅かでも迷いがあったなら、たちまち俺は飲み込まれていただろう。


「落ち着いてるわね……なんとか、津波からは逃れられたのかしら」

「ホ、ホント? やったーっ! グッジョブやで龍太っ!」


 遠くで見つめているであろう矢村が、歓声を上げているのが聞こえて来る。死に物狂いで屋上の端にしがみついていた俺は、そこでようやく命拾いしたのだと、胸を撫で下ろすことが――


 ――できない!


「……ッ! まさか、救助対象者の方にも津波が!?」


 俺はその可能性に気づいた瞬間、自分が助かったことで緩みかけていた緊張感を取り返し、瞬時に屋上へ登り周囲を一望する。

 ――マップによれば……ここからすぐそこじゃねーか!? 間に合うのかよッ……!?


「クッ……だけど、まだ失格扱いはされてない。じゃあ、行くっきゃないよなッ!」


 俺は目的地に向けて一気に駆け出し、そのまま濁流に飲まれたアスファルトを飛び越え、向かいのビルの屋上へ着地する。


 そこからさらに、何度か高所から高所への移動を繰り返し……ついに、視認できる距離までにたどり着いた!


「あ、あれかッ!?」


 ビルから見下ろした先に伺える、倒壊した建物の瓦礫に下半身が埋もれ、横たわっている男性の姿。青い光点の場所からして、あのオッサンが救助対象者と見て間違いなさそうだ!


 だが、あの瓦礫を退かせば終わり……とは行かせてくれないらしい。嫌というほど聞かされ、トラウマになりそうなあの轟音が、この辺りにも響いているのだ。

 倒れている男性がいる道路に迫りつつある、灰色の濁流。さっきのように水が舞い上がるほどの勢いがない分、動きは緩やかだが……それはあくまで「さっきと比べれば」という意味でしかない。速くて危険なのは同じことだ。


「今度は逃げるだけじゃなく、自分から飛び込みに行けってか!? 所長さんもアジなマネしやがるッ!」


 ――だが、何を言おうがここであの男性を助けられなかったら、黒星となってしまうのは事実。俺はせめてもの「八つ当たり」で軽口を叩きつつ、一直線に男性のいる場所目掛けて飛び降りていく。


 なぜか、ここの道路だけ他と違って、路面電車のレールがあるのが気になるが……まぁ、別にいいか。


 みるみる迫ってくる津波を見ていると、ただ地面に着くのを待つしかない「滞空時間」というものが、惜しくて仕方のないものになってくる。出来ることなら、真っ先に逃げ出したくもなる状況なのだから、なおさらだ。

 着鎧甲冑越しに、アスファルトに触れる感触をつま先に感じた瞬間、俺は全体重を前方に傾け、つんのめる寸前という勢いで全力疾走していく。


「オッサンと心中なんて趣味は、ねえんだよぉーッ!」


 周りの時間が停止したかのように感じられるほどの速さで、ぐったりと倒れている男性の傍までたどり着いた俺は、焦る気持ちを抑えられないまま瓦礫に手を掛けた。


「あ、あれ!? くそっ……! ふんぬッ……!?」


 ――だが、どうしたことか。着鎧甲冑のパワーを以てしても、なかなか取り払うことができない。松霧町で活動していた頃は、これよりも数倍大きい貨物トラックを、片手で持ち上げることだって出来たというのに。

 そうこうしているうちに、津波がどんどん迫って来ている。瓦礫越しに伺えるその光景が、俺の焦燥をより一層駆り立てた。


「どっ……どうなってんだよッ!? これッ……!」


 両手どころか、腰の力も全力で入れてるのに、なかなか持ち上がる気配がない。こんなに重たい物体、一体どこから――ん?


 ふと、俺の視界に留まったもの。それは瓦礫の下敷きになっていた、大きな鉄製の物体であった。


「なんだ……これ?」


 妙に古びていて、さながら巨大なフックのようにも見えるその物体は、見たところ強烈に瓦礫に食い込んでいるらしく、持ち上げようとしても動かない「原因」である可能性が浮上してきた。

 だが……なんなんだコレ? 着鎧甲冑の力でも動かせないフック? そんなもんどこの世界に――


 ――まさか!?


 俺は、反射的に後ろを振り返る。その先に映るのは、あの路面電車のレール。

 そこから考えられる、この状況を生み出している元凶。思い当たる節は、一つだけだった。


 巨大フックが何処と繋がっているのかを探るべく、俺は辺りの土や小さな瓦礫を跳ね退ける。そして答えは――残酷なほどに予想通りだったのだ。


 ……脱線事故でも起こしたのか、無惨にもアスファルトの奥に突き刺さり、瓦礫の下に埋められてしまっている、一両の路面電車。

 俺の任務遂行を阻んでいた最後の障壁が、これだった。


 ――脱線した路面電車のフック……もとい連結器が、瓦礫に突き刺さってたってのか!? そんなのアリかよッ……!


 だが、ぶーたれている隙などない。既に津波の勢いは目と鼻の先まで迫って来ており、今から逃げ出すチャンスがあるかどうかも怪しくなっていた。

 俺はフックが食い込んでいる部分だけを蹴りで破壊し、瓦礫をサッと持ち上げてしまう。瓦礫自体をさっさと砕かなかったのは、救助対象者のオッサンに破片を当てないためだ。


 ――よし! あとはオッサンを連れて逃げるだけッ!


 俺は焦る余り、オッサンの手を引いてそのまま跳び上がり、空中で優しく抱える体制に移行しながら屋上に着地する。

 そして、アスファルトを見下ろしてみれば……あっという間に、灰色の濁流が辺り一帯を埋め尽くしてしまっていた。

 もし、連結器の存在に気づくのが一秒でも遅かったら――考えたくもないな。


『試験終了! タイムは……両者同着の一分五十七秒! さすがね!』


 そして、俺が屋上にたどり着いて間もなく、所長さんのアナウンスが入る。同着ってことは――四郷も今さっき終わったところだったのか。あんなにビュンビュン動いてたのに、ちょっと意外。

 にしても、一分五十七秒って……マジか? あんなに必死に動き回ってたってのに、二分も経ってなかったのかよ。


『さて、それじゃあ判定をお願いします。伊葉和雅氏』

「……!」


 ――そうだった。この勝負の結果を判別する材料は、タイムだけじゃない。

 実践において役立つレベルまで、救助対象者に掛かる負担を抑えられているかどうか。そこに比重が置かれていなければ、例え迅速に救助活動が行われていたとしても、勝者として認められない可能性があるのだ。


 ……だ、だけど心配ないはずだ。俺だって対象者を守るために破壊行動は抑えたはずだし、間に合ってもいるはず――


『第一課目「救助対象者への迅速な移動」。勝者は――「新人類の身体」とする』


 ――だが、現実は思いの外……非情だったらしい。

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