カムバックホーム

エピローグ

 気が付けば、朝。

 カーテンの隙間から太陽の光が差し込んで来ていた。

 時計を見ると、午前六時。

 結局今日も、徹夜の作業になっちまった。

 でもその甲斐あって、最後のページへのペン入れを滞りなく終えることができた。

 長かったこの仕事も、一応これでひと段落というわけだ。

 すでに書籍化が決定していた俺の作品「双刃のガロー」

 その加筆パートも、残すところあとわずかで完成する。

 「ピポパ」での連載分に、それとほぼ同数の描き下ろしページを加えた前後二巻。

 作者としては、まるまる一冊分の原稿を新しく描き加えたって形になる。

 無茶な企画が通ることの多いこの業界エロマンガであっても、さすがにこれだけの分量は、あまりのあまりに異例と言えた。

 ひょっとしたら、前人未到の暴挙なのかもしれない。

 まともな描き手であれば、尻込みすること請け合いの作業量である。

 まして俺みたいな非デジタルの個人作家であるならば、そいつはもう、なおさらのことだと断言すらできた。

 スタートから数えて、余裕で一年はかかったこの単行本化作業プロジェクト

 そのすべては、俺の担当編集である岡部のオヤジがお膳立てしたものだ。

 本人は口を濁してばかりだが、伝え聞くところによれば、相当な強引さで上にこいつを捻じ込んだらしい。

 風の噂じゃ「企画が通らなければ辞表を書く」とまで言い切ったと聞く。

 なんともかんとも大した度胸だ。

 俺みたいな若造の作品をプッシュするにもほどがある。

 少なくとも、いい歳こいたベテラン編集がやっていい行いではあるまい。

 とはいえ、ギリギリで間に合わせた最終話がネットで好評だったことに加え水面下で動いていたアニメ化のプランがいきなり具体化したりしたせいで、奴の見積もりでは、周囲の印象ほどに無謀なプランでなかったのかもしれない。

 事実、捻じ込みをかけられた「ピポパ」編集部も、特に否定的な意向は示さなかったそうだ。

 確かに、これほどの長丁場を俺に預けてまで大規模な加筆修正を進めさせるなど、企画に対する好意的評価なくしては決してありえない話だろう。

 普通の会社に例えるなら、期待の若手の双肩に大商談を託すようなものか。

 ありがたい話だ。

 そこまで信頼されてるとなれば、いちクリエイターとして俄然やる気が湧いて出る。

 あえてほかの仕事を削ってまで、俺は「ガロー」の単行本作業に精力のほとんどを費やした。

 その勢いは、以前の俺なら独りで熱意が空回りして、中途で朽ち果てていただろうレベルだった。

 だが幸いにして、この作業中の俺はぼっちじゃなかった。

 心から信頼し背後のすべてを任せられる相棒が、ずっと側に居続けてくれたからだ。

 軽い睡魔がまぶたを襲う。

 このまま寝床に直行するのも悪い選択じゃなかったんだが、なぜか無性にコーヒーが飲みたくなり、俺は一階のリビングへと向かった。

 眠い目を擦りながら階段を降り、ちりひとつないほど掃き清められた廊下を足早に進む。

 込み上げてくる生あくび。

 そいつをひとつ噛み殺して、無造作にリビングの扉を手前に引いた。

 その瞬間、目の前に広がった光景を、なぜだか俺は忘れまいと思った。

 それは、木漏れ日の降る森の中みたいに心休まる空間だった。

 この場所が、ほんの一年ちょっと前まで寂れきった墓場みたいなところだったなんて、にわかには信じられない現実だ。

 開け放たれた大きな窓から微風が吹き込み、白いカーテンを優しく揺らす。

 そしてそのカーテンの向こう側、リビングに繋がるテラスの部分に、彼女はいた。

 ロッキングチェアに腰を下ろし、朝の陽ざしを浴びながら嬰児みどりごに乳を与える絶世の美女。

 その有り様はあまりにも神々しくて、俺ごときの持つ表現力じゃ言葉にするのも難しかった。

 宗教画にある聖母マリアですら、彼女を見れば白旗を掲げざるを得なくなるだろう。

 まるっきし現実離れしたその姿に、思わず気圧されてしまう俺。

 美女の目線がそんな俺を捉えたのは、それからひと呼吸おいてのことだった。

 ハスキーボイスが穏やかに弾ける。

 微笑みながらその女性ひとは言った。

「おはよう、あなた」と。

 あなた──それは女性が配偶者を呼ぶときに用いる言葉。

 その女性ひとは、俺に向かってそれを発した。

 紛れもなく、この俺だけに向かって──…

 そう。

 そうなのだ。

 この見目麗しき女性こそ、旧姓大橋、いまは俺と同じ姓を名乗る最愛の妻、「薫子」そのひとなのである。

 俺と薫子とが入籍して正式な夫婦となったのは、俺たちが初めてひとつになってから、ものの半年も経たないうちの出来事だった。

 結婚を急いだ理由は至極簡単。

 こいつのはらに俺の子供ができたからだ。

 このありがちな展開に、ちょっと無計画すぎやしないかい、と苦言を呈する向きもあろう。

 まあ確かに、俺だって知人が同じ境遇に至ったら、似通った台詞を吐かないでいる自信はない。

 だがな、少しだけ想像力を働かせて欲しい。

 童貞卒業した女を知ったばかりのサルみたいな若造の家に、万人が認める極め付けの美人が通い妻してきて、毎夜毎夜あの手この手で求めて来るんだぞ。

 一体全体、どんな顔してそれを拒めばいいというのだ?

 それ以前に、そんなことができると本当に思っているのか?

 プレイメイトも顔色なくすパーフェクトボディが、隙あらばと密着してくるんだぞ!

 潤んだ瞳で愛の言葉を囁きながら、俺の身体に指先這わしてくるんだぞ!

 甘くて密な女体の香りが、鼻腔を通して中枢神経突き刺してくるんだぞ!

 断言するが、その状況で拒むという選択肢を思い浮かべること、それ自体が難業、偉業、奇跡の類以外の何物でもなかった。

 たとえ性欲の枯れたジジイであっても、イキリ立つこと疑いなしって奴だ。

 ましてや、ひとつ屋根の下で一緒に暮らし始めるようなってからは、その破壊力だって倍増どころの騒ぎじゃない。

 ともに過ごす時間帯が一気に長くなったのだから、そんなのは至極当然の帰結である。

 しかも、である。

 同棲を始めたあとでわかったんだが、薫子ってオンナは、極めて高品質な「駄目オトコ製造機」なんだ。

 とにかく、惚れたオトコに尽くして尽くして尽くそうとしてくる。

 朝から晩まで、それこそ二十四時間四六時中、その尽くしっぷりが途切れることないんだ。

 炊事洗濯その他もろもろの家事関係は言うまでもなく、入浴となれば、ありとあらゆる身体の個所を懇切丁寧に洗ってくれるし、夜は夜で、脳髄が蕩けるんじゃないかと思える濃厚さで徹底奉仕してくれる。

 いつぞやの朝など、エロ漫画に出て来るメイドさんもかくやと思える特殊な起こされ方をしたせいで、そのまま一気に戦闘状態へと突入してしまった。

 皆無だった俺の経験値も、いまや驚天動地の爆上がりである。

 ヤンデレとはまさにこのことなのかと、我が身をもって思い知った。

 あまり認めたくはないけど、藤田の奴が薫子に執着したのも男としては理解できる。

 こんな状況がひと月も続けば、性欲満タンな若い男が健康な女を孕ませるのなんて、それこそ赤子の手をひねるようなものだ。

 ましてや、互いに避妊する気などミジンコほども持ち合わせてないんだから、むしろそうならないほうがおかしいとさえ言える。

 もっとも、薫子の妊娠が判明した時、つまりこの俺が父親になるという未来がいきなり具現化した時、動揺しなかったのかと問われれば、さすがに「しなかった」と胸を張ることはできなかった。

 もちろん、魅力溢れる極上の恋人に溺れる一方、その将来についてしっかり覚悟はしてきたつもりだ。

 だがいざその現実に直面すると、それとこれとが全く別の問題だということに気付かされた。

 俺みたいな非モテのオタクに、父親となる資格なんてあるんだろうか?

 産まれてきた子供に「俺が親父だ」と誇りを持って言い切ることができるんだろうか?

 千春さんに聞かれたらその場で怒鳴りつけられそうだけど、残念ながら、それが偽らざる本音でもあった。

 漫画描く以外に実績を持たない、極めつけに低価値なオス。

 絶世の美女からパートナーとして選ばれたにもかかわらず、俺はどうしても「オトコ」としてのおのれに自信というものが持てずにいたんだ。

 でもそんな腰の抜けた考えは、受胎を知った薫子の顔を見た瞬間とき、宇宙の彼方へすっ飛んで行ってしまった。

 ボロボロと大粒の涙を零して、薫子は俺に向かって告げたのだ。

「圭介。あたし、産むから。必ずあなたに、元気な子供を授けるから」

 歓喜に満ちた、とは、この表情のことを言うんだろう。

 「母」となった悦楽。

 いまどきのフェミニストあたりからは唾棄される反応なんだろうけど、薫子は、本能からくる「女」としての喜びを隠すことなく表に出した。

 そんな心打つシロモノを目の当たりにして、まだヘタレのままでいられるほど、俺も性根が腐ってなかった。

 感動にも似た衝撃に胸から背中をぶち抜かれ、俺は改めて腹をくくった。

 その日のうちに婚姻届けを貰って来て、俺は薫子にサインを迫った。

 まだ婚約指輪さえプレゼントしてないのに、いきなり結婚の申し込みである。

 そりゃあ口頭のみであるにしろ、すでにプロポーズは終えている。

 だが順序の無視が甚だしいのも、また否定できない事実であった。

 にもかかわらず薫子は、嫌な顔ひとつしないで俺の意向を受け入れてくれた。

 むしろ、本当に自分でいいのかと、きつく念押しまでされたくらいだ。

 当然ながら、俺は本気だった。

 本気の本気で、こいつを女房にする気でいた。

 というか、いまさらそいつを疑うのかと、ちょっとカチンときたくらいだ。

 俺の人生に迷惑がかかるくらいなら自分は日陰者でもいい、などとほざくこいつをガチンと叱り、半ば強引に話の筋を付けさせた。

 まあそういうわけだから、展開は、マジでとんとん拍子に進行した。

 婚姻届けの証人欄は、薫子側が実兄である悟さんに、そして俺の側が、財産管理で世話になってる猿渡さわたりという名の弁護士に、それぞれ名前を書いてもらった。

 いささか形式的ではあるにしろ、新婦のお腹が大きくなる前に結婚式は挙げておこうと、きちんと段取りも整えた。

 列席者は、証人欄に名前を借りた悟さんと猿渡先生の両名に加え、「シーガル」の千春さんと岡部のオヤジという計四名。

 親戚筋がうちひとりだけという、いかにもワケありげなウエディングだ。

 とはいえ、普通に考えれば特に注目されるような式典ではなかっただろう。

 ただその開催場所が、市役所の待合室という突拍子もないところでなかったとしたら、だが。

 そう。

 俺たちふたりは寄りにも寄って、地元の市役所にある待合室の一角で、堂々結婚式を挙げたのである!

 そのアイディアを出したのは、新婦を務める薫子だった。

「式を終えたら、そのまま書類を出せるじゃない。そのついでに、あたしたちのしあわせを市民の皆さんにも分けてあげましょ? ね、あ・な・た」

 そう悪戯っぽく言われたら、反対する言葉がどうしても思い浮かばなかった。

 もちろん、市役所にはお伺いを立てて、正式に許可を得ていた。

 教会の神父さんも苦笑いを浮かべつつ、それを了承してくれてはいた。

 以上、こちらの都合の根回しは、相応に終えていたつもりだった。

 だが、だがしかし。

 テレビ局その他が大挙取材に押し寄せてくるなんて状況は、まったくもって想定外だった。

 一体全体、どこから情報が漏れたのやら。

 市長以下の偉いさんたちまでもがわざわざ祝福のために下りてきて、俺たちは、老若男女の注目を浴びつつ、ほかの誰もが真似しようと思わない、奇天烈極まる華燭の典を開催した。

 互いに愛を誓いあい、窓口の職員に記載済みの書類一式を提出したのち、夫婦の契りの口付けを交わす。

 歓声が爆発したのは、まさにその刹那のことであった。

 至るところで拍手の音が鳴り響き、女性の中には、思わず涙ぐむ者さえ見受けられた。

 テレビ局の女性記者が、花嫁衣裳を身にまとった薫子に突撃取材を試みる。

 思えばこれがこいつにとって、人生の大きな転機に発展した。

 薫子はここで、温めていた自分の夢を口にしたのだ。

「まだ何年先になるかはわからないんですけど、近いうちに独立して、お呼びのかかった地方のどこかでクリニックを開業したいと思ってるんです」

 言い忘れていたが、妊娠が明らかになった薫子は、この時、勤めていた病院に休業届を出していた。

 あとになって聞いたのだが、そのまま退職する腹積もりでいたのだという。

 それもこれも、新しい人生の一歩を俺とともに歩みだす、その準備のためであった。

 その準備期間が、この一件をきっかけにバッサリと短くなった。

 全国ネットで放送された、美貌の花嫁による将来設計──それも、あの「大橋グループ」の息女が述べたそのプランに、複数の市町村がたちまち興味を示したからだ。

 産婦人科医の不足と若者の流出に悩む地方の自治体にとり、この話題性たっぷりの女医をおのれのテリトリーに招聘するのは、文字どおり一石二鳥の妙手であった。

 事実、「ぜひうちの地元に」と名乗り出てきた市町村は、五つや六つじゃきかなかった。

 どれを選んでも自治体から大きなバックアップが望める、そんな美味しい申し出であった。

 でも薫子は、それらすべてを一旦保留の扱いとした。

 当面は母としての義務、つまり出産と子育てに専念したいから、というのが、その表向きの理由である。

 まあ実際は、条件その他をじっくり考えてみたかったからってのが本当のところだったそうだ。

 とは言うものの、夢を叶える第一歩目が予想もしてない大ジャンプになったっていうのは、あいつにとって疑いようのない事実であった。

 そしてその恩恵は、パートナーである俺の上にも降り注いだ。

 顔と名前と実績とが全国規模で広まったことで、仕事の合間にアップしていた同人関係の売り上げが、思い出したように急上昇を始めたんだ。

 振込先の通帳残高も、毎月最高値を更新した。

 もちろん、収入の絡みだけではない。

 ネット上でも、俺は一躍時の人となった。

 トンデモクラスの美人嫁を貰ったことへの嫉妬とやっかみが半々ずつだったとはいえ、それでも決して悪い気はしなかった。

 無論いくばくかの有名税こそ支払う羽目になっちまったが、それこそ必要経費だろう。

 またこのあたりから、漫画の仕事が一般誌からも舞い込んでくるようになった。

 試金石を兼ねてか単発の読み切り仕事が大半だったが、それでも俺は、過去に経験したことのない嬉しい悲鳴に泣かされることとなっちまった。

 臨時のアシスタントを雇い出したのも、おおむねこのあたりからのことだ。

 もっとも、個人的な募集に応募してきたのは、その大半が俺の嫁薫子とのワンチャンを期待してきたド素人どもだったんで、さっさとお引き取りいただくことになったんだが──…

 なお、薫子とのワンチャンを期待した連中は、アシスタントに応募してきた連中だけじゃ済まなかった。

 あの結婚式が多くの耳目を集めたことで、俺の愛妻の過去もまた、ロクデナシどもの知るところとなったからだ。

 「むかしのことを旦那にばらされたくなければ……わかってるな?」みたいな脅迫状を送ってきたクズは、それこそ数えきれないほどにいた。

 呆れたことに、俺のお袋一家もまた、そのクズどもの中に名を連ねていた。

 そんなクズどもなかで一番の大物は、間違いなく、刑期半ばで仮出所してきたヤクザの幹部・鬼頭であろう。

 例の番組でかつての情婦の現況を知った奴は、これをふたたび我が物にしようと、チンピラどもを引き連れて実力行使を仕掛けてきたのだ。

 だが俺たちは、毅然としてそのクズどもに立ち向かった。

 ひとりでは太刀打ちできない相手であっても、いまの俺たちには互いに支え合えるパートナーがいる。

 手を取り合い、励ましあい、そいつらの悪意を合法的に叩き潰した。

 そして、そんな連中をひととおり撃退し終わって数か月が経った頃、薫子は元気な赤ちゃんを産み落とした。

 丸々と太った可愛い双子の女の子だった。

 感涙にむせぶ母親の側で、すやすやと眠る新しい命。

 薫子の奴は「堕ろした子供が帰って来てくれた」と何度も何度も繰り返した。

 それは妄想に近い感想だけれど、正直、俺もそう思った。

 少女時代、こいつが味わった堕胎の経験。

 女として母として、思い出したくもない現実だったことは想像するに余りある。

 でも、あえて言う。

 あの時流した新しい命は、消えて行ってしまったのではない。

 おまえの側にずっといて、おまえの子供として産まれる機会をワクテカしながら待ってたのだと。

 そのことを真面目腐って伝えたら、こいつ、「あなたって詩人の才能もあるのね」などといつもの調子で返事してきやがった。

 畜生め。

 娘たちの柔らかいほっぺを指先で突きながら、苦笑い浮かべて俺は思った。

 やっぱりおまえ、ファム=ファタールだよ──と。

 そんなこの子たちに俺は、それぞれ「撫子なでしこ」と「桜子さくらこ」という名前を与えた。

 どちらも古臭くて、とても今風に聞こえる名前じゃないけど、そんな名前をあえて選択。

 最愛で最高の妻である薫子に少しでも似るよう、その名に韻を踏ませたのだ。

 どちらもきっと、とんでもなく「いいオンナ」に育つだろう。

 そんな予感が、俺の中には確かにあった。

 何せ、女神で天使で絶世の美女の血を引く娘なのだから──…

 にもかかわらず薫子は、その子たちと俺との血の繋がりDNAを鑑定するって言い出した。

「なんでだよ!?」

 この突拍子もない申し出には、さすがの俺も驚いた。

「おまえの浮気なんて、これぽっちも疑ってねーぞ!」

 そんな亭主に女房が告げる。

 忠誠の証よ、と。

「忠誠の証?」

「そう」

 訝る俺に彼女は言った。

「このあたしが生涯あなただけのオンナであるという誓いの証明。こういうのって、言葉だけじゃ駄目だと思うの。きっちりと、客観的なデータで裏付けしてあげないと」

「そ、それにしたってだな、DNA鑑定ってのはいくらなんでも」

「あら? これはあなたのためでもあるのよ」

「?」

「娘たちが思春期に入ったら、この子たち、きっと父親あなたを毛嫌いするわ。あたし自身がそうだったもの。もしかしたら、『おまえなんて父親じゃない』みたいな、キツイ言葉を投げかけてくるかもしれない。でもあたし、最愛のひとがそういう扱いをされたりするのが全然許せそうにないの。だからね。いまから資料を用意して、『何を言ってるの。このひとは、あなたにとって遺伝子上の父親であることに間違いないのよ。ほら、これが何よりの証拠』って、娘たちを論破するつもりなの」

 そんな愛妻の強い意向に押し切られ、結局俺はDNA鑑定に同意した。

 当然ながら、二人の娘は俺の子供に相違なかった。

 その証明書類は、いま額縁に入れて飾ってある。

 薫子がクリニックを開いたら、そこに持ち込んで展示する予定らしい。

 あ、そうそう。

 薫子のクリニック開業計画は、いまわりと具体的な話がまとまりつつある。

 場所は、いまいる土地から県境を跨いだ山間やまあいにある地方都市。

 その閑静な一角に立派な建物を新築し、そこで営業する手筈が進んでる。

 ありがたいことに、薫子を迎える自治体も、土地の絡みや業者の手配やらで何かと支援をしてくれた。

 及ばずながらこの俺も、親父の遺産のほとんどすべてを、そこに突っ込むことにしている。

 いまいる家も引っ越しの際に手放してしまう予定なので、その売却代金も開業資金に費やすつもりだ。

 知らぬ間に相続していた、顔すら知らない親父の遺産。

 そいつは俺にとり、たいして思い入れのあるシロモノじゃなかった。

 金額の多寡が問題じゃない。

 ただただ実感が湧かなかったってだけの話だ。

 だからだろう。

 そんな大金おおがねを手放すことに、ためらいなんてちっともなかった。

 むしろそのことが妻の望みの糧となるなら、喜んでそうすべきなんだと心の底から思えてしまった。

 とはいえ、この家ぐらいは手元に残しておくべきなのかも、と未練を覚える時もある。

 いや、正確に言おう。

 ここで暮らした俺たちふたりの数百日。

 そいつを建物という形で残しておくべきなんじゃないかという思いが、俺の心のどこかにあるのだ。

 通い妻状態から始まる、愛したひととの二人三脚。

 それは決して忘れられない、忘れてはならない、大事な記憶だ。

 だけど俺は、そうした選択肢をいとも容易くねじ伏せた。

 俺たちふたりの──じゃないな。

 俺たちの「思い出」ってのは、どこかに残しておいて振り返って見るシロモノではない。

 いつだって未来に向かって築き上げていくものなんだと、断固確信していたからだ。

 それが本当の家族ってもんだと俺は思ってた。

 それが本当の家族ってもんだと俺は憧れてた。

 だから自分の選択に後悔などなかった。

 そんな選択をした自分に半ば酔いしれてさえいた。

「ちょっと待っててね」

 そんな酔っ払いをハスキーボイスが現実世界に引き戻す。

 慌てて自分を取り戻したその刹那、俺の目に女神の瞳が否応なく飛び込んできた。

 愛しきオンナは、天使の目線で俺を見る。

 そして、妻の口調で俺に告げた。

「この子のおっぱい終わったら、コーヒー淹れてあげるから」

「いいよ、それぐらい」

 片手を振って俺は応えた。

 赤面しながら言葉を返す。

「自分で淹れるから、ゆっくりしてな」

「だ~め」

 慈母の笑顔で彼女は言った。

「夫のお世話するのは妻の役目よ。あたしの幸せ盗らないで」

「はいはい」

 あっさり意向を引っ込めて、俺は娘の側に歩み寄った。

 妻の抱いてる次女さくらこのほうに、ではなく、ゆりかごで眠る長女なでしこのほうだ。

 ぷくぷくと太った俺の子供。

 小さな手のひらを指先で突くと、すぐさまそれを力強く握ってきた。

 愛しい。

 叶えた「夢」に、思わず頬が緩んでしまう。

 そう。

 それは紛れもなく、俺が叶えた「夢」だった。

 「夢」なんか見るもんじゃない。

 それがいい「夢」ならなおさらだ。

 目覚めたあとの現実が、ただただ辛くなるだけだから──…

 そんな風に思ってたちょっと前の自分に、いまなら大声で言ってやれる。

 「夢」が予定と違っていても、それはそれでいいじゃないか。

 諦めずに戦い続ける限り、必ず「未来」は開けるんだ──と。

「ねえ、あなた」

 愛妻の声が俺の背を打つ。

「コーヒーにミルクは入れる?」

「ミルク?」

 疑問符とともに振り返る俺。

 誰かさんの影響で俺がブラック党になっちまったってことは、おまえが一番知ってるだろうに。

 だが次の瞬間、その本意とやらがわかってしまって、俺はその場で息を呑む。

 なるべく平静を装って、無難な返事を口にした。

「い、いや、今日のところはナシということで」

「そうよね」

 意味深に笑って薫子は言った。

「昨日の夜、娘たちに上げる分がなくなっちゃいそうになるくらい、一心不乱に飲んでたものね。飽きちゃうのも仕方ないか、あたしの母乳ミルク

「あ……ははは」

 笑ってごまかすしかない場面。

 漫画みたいな幸せがここにあった。

 アニメみたいな幸せがここにあった。

 だがこれは漫画じゃない。

 だがこれはアニメじゃない。

 確かな実感が怒涛のごとく押し寄せてきて、思わず失神しそうになる。

「エッチな漫画描いてるくせに変なところで純情なのよね、あなたって」

 そんな俺を見て、薫子が率直な感想を口にした。

 呆れはあっても嫌味はない。

 そんな、いつものあいつの口振りだった。

「ま、そんなところがカワイイんだけど」

「悪かったな、初心なガキでよ」

 クチバシを尖らせ俺は告げた。

「でもそのおかげで、近いうちに青いほうの青年誌で連載が決まりそうだぜ」

「そうなの?」

「ああ。あちらさんからメールが来てて、今度直接打合せする。描きたい話もあることだしな。前向きに検討するつもりだよ」

「おめでとう!」

 目を輝かせて薫子が言う。

「良かったら、どんなストーリーにするのか教えてもらえる?」

「お望みとあれば」

 もったいぶって指先を振る俺。

「オンナ嫌いのエロ漫画家が美人の女医さんと知り合って、モータースポーツを始める話だよ」

「素敵な話ね」

 彼女の相好が見る見る崩れた。

「ちなみに、題名のほうは決まってるの?」

「もちろん」

 大きく頷き、俺は答えた。

「Let’s Go To Gymkhana──ジムカーナに行こう、にするつもりさ!」

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Let's Go To Gymkhana ~勝利の対価は童貞卒業!~ 石田 昌行 @ishiyanwrx

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