第四十五話:壊れていく女神

 高校生の頃の「薫子」は、誰にとっても眩しく映る、最上級の「宝石」だった。

 トップアイドルを俯かせるほどのルックスと、セクシーモデル顔負けのボディライン。

 それに加えて国内屈指の良家の子女で、気品と知性に不足を感じさせない飛び切りの才媛とくれば、正直な話、およそこの世の者とは思えない。

 年齢を重ねたいまですら、他人の視線を釘付けにしてやまないほどに完全無欠の「美女」なのだ。

 それほどの存在が、あろうことか「若さ」という名のオンナの武器まで備えてるのである。

 想像して欲しい。

 あえてはっきり口にするが、そいつはあまりに出来すぎていて、比較的自由な同人界隈でだって、登場させるのに躊躇するほどのキャラクターだった。

 そんな漫画みたいな女子学生が、日々、登校下校で長い黒髪をなびかせてる──…

 それはまさしく、見る者を瞠目させる光景だったんじゃないかと思う。

 噂を聞いた芸能界のスカウトが彼女の前で思わず呆けてしまったって与太話すら、現実味をもって受け止められたに違いあるまい。

 天の祝福を独占したかのごときその人生は、陽の当たる草原を華麗に走る名馬の姿を連想させた。

 話の筋を聞く限り、そうとしか考えられないシロモノだった。

 誰もが羨み、求め、憧れを抱き、そしてそれを当然のことと認めざるを得ない、文字どおり、神の手による芸術作品。

 それこそが、「大橋薫子」というひとりの少女の内包した、揺るぐことなき市場価値アセスメントだった。

 非の打ちどころなどどこにもない、完全無欠な超人伝説。

 だが、強すぎる輝きは、同じほどに強すぎる闇をももたらす。

 羨望、希求、憧憬という俗人の思いは、実に容易く、妬み、嫉み、憎しみという負の感情へと変貌してしまうからだ。

 そして、当時の薫子を襲ったのは、そんなダークマターの典型だった。

 それは、ある週末の日のことだ。

 薫子は、たったひとりで見知らぬ一軒家を訪れていた。

 クラスメートの女子学生に「大事な相談があるの」と頼まれ、わざわざここに呼び出されのだった。

「親にも、先生にも、こんなことは絶対言えない。大橋さん、お願い! 信じられるのはあなただけなの! わたしを助けて!」

 前日の放課後、そう言って必死の懇願をしてきたのは、付き合いの長いAという名の少女だった。

 Aは、当時の薫子が「一番の親友」と信じてやまない存在だった。

 勝ち気で、自信家で、上昇志向の極めて強い、典型的な機関車タイプ。

 そんな彼女が持ち込んできた個人指定の助力の求めは、薫子にとり、仲のいいAが初めて見せる、おのれの弱さの暴露であった。

 この様子は、ただごとではない。

 こいつがそんな風に判断するのも、無理のない話だった。

 同じ状況に置かれたなら、俺だって似たような判断を下しただろう。

 だから薫子は、微塵も疑うことなくAの希望を受け入れた。

 本当の行先を家族にも告げず、「友達の家に泊まるから」と嘘を吐き、誰にも足跡を悟られることなく、この一軒家に足を運んだ。

 その先に何が待ち構えているものかを、いっさい警戒することもなく──…

 Aに招かれるがまま家に上がった薫子は、そこで思いも寄らない連中と出くわした。

 それは、暴力団の下部組織とされている半グレ集団のメンバーだった。

 下衆で、暴力的で、モラルの類など欠片も持たない、邪すぎる欲望の塊。

 兄貴分と思しきコワモテの親父が、その中心に陣取る形でニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべていた。

 その傍らにいたのがAだった。

 胸元の開いたワンピースを身に着け、親父の肩にしだれかかっている。

「いらっしゃい。大橋さん」

 何が起きているのかを理解できず、ただ立ちすくむだけの薫子に向け、怪しく微笑みAは告げた。

「わざわざ遠くまできてくれて、ありがとう。主役が来てくれないと、お祭りが始められないものね」

「これ、どういうこと?」

 予期せぬ状況に直面し、狼狽した薫子はAに尋ねた。

「このひとたちは、いったい何?」

「男優さんよ」

 クスクスと笑い、Aは応えた。

「綺麗なあなたがAVデビューするための、とっても素敵なお相手さん」

「Aさん。あなた、何を言って……」

「目障りだったのよ、大橋さん。あなたの存在、そのすべてが」

 悪魔のように口の端を吊り上げ、Aは冷たく言い放った。

「あなたさえいなければ、あなたの手にした評価のすべては、このわたしのものになってたはずなの。評価だけじゃないわ。視線も、賞賛も、好意も、それらすべてが、わたしのものになってたはずなの。ご存じかしら? 昨年、我が校に赴任なされたK先生のこと」

「確か、東大出の──」

「そう。数学を教えるK先生。知的で凛々しくてセクシーな、あの素晴らしいK先生。あの方に夢中になった挙句、その身を捧げてしまった女生徒なんて、我が校だけでも十指に余るわ。無論、このわたしも含めてね。それくらいにみんな、あの方を自分のモノにしたい、自分のパートナーにしたいって想いが募ってる。たとえ、少々この身が汚されようとも、ね。それなのに……それなのに!」

 Aの瞳に狂気が宿った。

 じりっと後退る薫子に、生の怒声が発射される。

「あの方は、あなたのことに夢中なのよ! ほかのみんなが束になってかかっても、あの方の視線を独占できない! オンナのすべてであの方に尽くし、言われるがまま見知らぬオトコに抱かれても、あの方の目に映っているのは、ただひとり! 大橋さん! あなただけなのよ! こんな屈辱ってある? こんな侮辱ってある? 敗北感? 劣等感? いいえ、そんな言葉ではとても語り切れないわ! わたしが味わったこの思い、ご立派な生まれで恵まれた人生を送ってきたあなたなんかには、到底理解できないでしょうね! だから──」

 Aは言った。

「あなたにも、堕ちてもらおうと思ったの」

 それが半グレたちへの合図となった。

 人知れず背後に回っていた男が薫子の身体を羽交い絞めにする。

 抵抗などできなかった。

 蟷螂の斧などという表現が、生温く感じるほどに絶望的な戦力差。

 半グレたちは、集団で薫子に襲いかかった。

 二桁に達するケダモノたちの手が、ブラウスの胸元を力尽くで引き裂いた。

 けたたましい悲鳴も、助けを求める哀願も、連中にとっては、嗜虐感を高ぶらせるための心地好いBGMにしかならなかった。

 ベッドの上に抑え込まれ着衣を剥ぎ取られた「絶世の美少女」に、まず兄貴分と思しき男がのしかかった。

 背中一面に彫り物のある、それはヤクザの幹部だった。

 舌なめずりとともに発せられる、中年男のヤニ臭い息。

 それは、まさに悪夢だった。

 これ以上ないほどの悪夢だった。

 生まれて初めての口付けは、そんな野郎に奪われた。

 恋する誰かに捧げる初めて──そんな希望は、無残なほどに打ち砕かれた。

 だが薫子を襲った悪夢って奴は、まだ序盤も序盤に過ぎなかった。

 ヤクザの幹部──鬼頭という名前だったらしい──は、おのが組みしだいた美少女を性欲の許す限り犯しまくった。

 相手に対する気遣いなど、これぽっちも見せなかった。

 許しを請う声など、初めからどこ吹く風という有様だった。

 ただ獣欲の導くままに、貫き、貪り、奪い、蹂躙し、なんの躊躇もなく、白い液体を胎奥深くに注ぎ込んだ。

 それは、もはやセックスですらなかった。

 射精欲と支配欲とを満たすだけの、単なる排泄行為に過ぎなかった。

 夢よね。こんなの、夢に違いないわ──…

 行為の最中、薫子は虚ろな瞳で天井を見つめるしかなかった。

 現実から逃避し、時が過ぎるのをじっと待つしか術がなかった。

 何度こいつに身を汚されたのか。

 五度から先はおぼえていない、とのことだった。

 鬼頭の体温が身体の上から消失した時、ようやくことが終わったのだと安堵した。

 それと同時に、局部から流れ出る濃厚な体液が、彼女を現実に引き戻した。

 どうしよう。

 どうしよう。

 わたしこれから、どうすればいいの?

 混乱した思考が、カオスの海を漂流する。

 哀しくて悔しくて、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。

 しかしながら、彼女を襲った狂宴は、その程度では終わらなかった。

「おい、おまえら。俺が回復するまで、そのお嬢ちゃんと遊んでていいぞ」

 事後の一服とばかりに煙草を吹かし、手下に向かって鬼頭は告げる。

「その極上のカラダに、オトコの味を教えてやんな。たっぷりと躾けて、アレなしじゃ生きられないオンナにしてやるんだ。そのでけえオッパイも、キュウキュウ締め付けてくる名器も、いずれウチの主力商品になるんだからな。大事なお客さんが満足するよう、早いうちに山ほど経験値を積ませてやらねえといけねえ。これもまた、立派な親心のひとつってわけだ」

「鬼頭さん。俺らも中に出しちゃってもいいんすよね?」

「好きにしな。前の処女はもらっちまったが、ほかの穴はくれてやる。壊さねえ程度に楽しむんだぜ」

「へへへ。ゴチになりやす」

 全裸になった半グレたちは代わる代わる、そして休むことなく薫子を弄んだ。

 抵抗する意思も力も失ってぐったりするしかない彼女に、容赦なくおのれの欲望を流し込んだ。

 その光景を眺めていたAは、無言のまま歓喜の笑みを浮かべてたらしい。

 いやそれは、堕ちたライバルを目の当たりにしての、勝利者宣言であったのかもしれない。

 狂気の宴は、翌日の昼まで継続した。

 精魂尽き果てた男どもが睡眠欲を満たそうとしだした頃、薫子の柔肌で奴らの体液が付着していない個所など、数えるほどしか残ってなかった。

「おい嬢ちゃん。つまんねーこと考えるんじゃねえぞ」

 クソ野郎どもに喰らい尽くされ、いったん解放されることとなった薫子を、鬼頭の奴が恫喝した。

「お嬢ちゃんの初体験は、初めから最後まで、写真と動画に収めてある。つまりだ。お嬢ちゃんがほかの誰かにこのことをしゃべったら、それが世間にばらまかれるってこった。そうなりゃ、お嬢ちゃんだけじゃねえ。あんたの大事な家族だって、とんでもねえ目にあうだろうな。というか、この俺が、家族丸ごととんでもねえ目にあわせるんだが」

「……」

「だが、お嬢ちゃんさえこっちの言うことに従っててくれるなら、こいつは俺の手元で押さえとく。俺も一端の極道だ。約束を破ったりはしねえよ」

「それは……本当なんですね?」

「ああ。男に二言はねえ」

 にやりと笑って鬼頭は応えた。

 アウトローとの取引を受け入れる。

 普通に考えるなら、それは破滅への一里塚だ。

 こちらがどれだけ約束を守ろうとも相手に同じ真似を強制することはできないし、何よりも弱みを握られたこちらが更なる弱みを提供してしまうケースが高確率で発生する。

 それはフィクションの世界だけでなく、現実世界でもあたりまえに近い常識だろう。

 人間世界の蟻地獄。

 そこから自力で逃れ出るのは不可能に近い。

 クズどもに人生をしゃぶりつくされるのが関の山ってところだ。

 だけど、単なる女子高生、それも、オトコの悪意に踏みにじられ絶望の淵にいたこの時の薫子に、その判断を求めるのはあまりに酷というものだった。

 薫子は、この日を境にヤクザ・鬼頭の情婦となった。

 学校が終われば、その足で鬼頭のマンションを訪れて奴に抱かれ、

 休みの日には、別の幹部に性接待を強いられた。

 もちろん、鬼頭の要求はそれだけで終わらない。

 時には、組を代表する高級娼婦として見知らぬ客に身体を捧げ、

 非合法AVの人気女優として、数多の撮影で主役を務めた。

 半グレ連中を相手せずに済んだことだけが、不幸中の幸いだった。

 粗暴極まるあいつらも、兄貴分の情婦兼組織の主力商品に手を出すことはためらわれたのだろう。

 人間性を否定され、ただただ性欲解消の道具としてのみ扱われる美少女。

 よくある凌辱系のエロ小説なら、ここで話は完結する。

 だがしかし、この一件は現実世界の出来事だ。

 フィクションと違って、時間の流れは先へと続く。

 ゆえに、クソ野郎だけに都合のいいクソ野郎どものターンなど、長続きするはずもなかった。

 人倫に反する秘め事というものは、些細なことから破綻する。

 そのきっかけとなったのは、あろうことか薫子の妊娠だった。

 そう。

 望まぬ交わりを繰り返し強いられた若い身体は、ついに新しい命を宿してしまったのだ。

 それも、父親が誰なのかわからない、祝福されない命を、だ。

 発覚の舞台となったのは、薫子の通う学校のトイレだった。

 遅れる生理に恐怖した彼女は、そこで妊娠検査薬を使用したのである。

 結果は陽性。

 冷たい現実を突き付けられた時、ショックのあまり薫子は、その場で意識を失った。

 そして、たまたま通りかかった別の女生徒が卒倒した薫子と足元に転がる妊娠検査薬を発見したことで、すべてが明るみに出ちまったってわけだ。

 その一件により、事態はたちまち急展開を迎えた。

 教師らに詰問されたことで、不幸な美少女はこれまでに起きたすべてを語り、その証言をもとに、彼女の実家や警察などなど巨大な組織が報復に動いた。

 鬼頭をはじめとするヤクザたちが、いったいどこまでのことを企んでいたのかは定かでない。

 極上の美少女を情婦にしたことで満足していたのか。

 それとも、彼女の実家が経営する「大橋グループ」までもを、その毒牙にかけようと目論んでいたのか。

 残念なことに、それは法廷においても明らかにされなかった。

 ただひとつはっきりしていたのは、総力を挙げた権力者たちの反撃が、連中の属する組織を根こそぎ粉砕してしまったという事実だけだ。

 鬼頭が所属していた暴力団は、上部組織からも見捨てられ、警察の手により跡形もなくデリートされた。

 いつもなら官憲の横暴にかまびすしいマスコミも、この時ばかりは沈黙を守った。

 大スポンサーである「大橋グループ」に対し、そろって忖度していたに違いなかった。

 市民に恐れられる反社会的集団であっても、本物の「力」の前には、まさに砂上の楼閣だった。

 間を置かず、大掛かりな少女売春組織が全国各地で摘発された。

 報道その他を信じるなら、薫子を初めとする被害少女の総数は、軽く三桁に達していた。

 組織の手足となっていた半グレ集団は芋蔓式にお縄となり、顧客リストに名を連ねた連中もまた、有無を言わせず社会的な死を迎えた。

 自業自得としか言いようがないが、そのうちの何人かは、樹海の奥に消えていったと噂されている。

 Kという教師も、そう噂される者のひとりだった。

 裏の商業ナンパ師であった彼は、目ぼしい教え子たちを組織の幹部に売り渡すことで、多額の謝礼を受け取っていたのである。

 警察の任意同行を拒んで逃げた彼の姿を見た者は、それからひとりとして現れなかった。

 AとAの家族もまた、タダでは済まなかった。

 子供じみた復讐心を悪手で満たした代償として、彼女らは未来のほとんどを失った。

 学校を追われ、職場を追われ、多大な慰謝料を請求され、破産したAの一族は、夜逃げするようにして住み慣れた街から引っ越していった。

 およそ数か月を待たずして、乙女たちを食い物にしていた外道どもは、そのことごとくが裁きを待つ身に落ちぶれていた。

 警察が本気になればこれほどのことができるのだと、誰もが認める解決劇だった。

 日本性犯罪史上に残るであろう大事件は、こうして終焉を迎えた。

 マスコミを始めとする報道機関も、他の事柄にその矛先を向けるようになっていた。

 だがそれは、一面的な見方に過ぎなかった。

 被害に遭った少女たちにとり、事件はまだ終わってなどいなかったからだ。

 その代表格が薫子だった。

 事態が終息に向かっているさなかであっても、彼女の胎内では、望んで宿したわけではない命が、日々その体積を増し続けているのである。

 産むのか?

 堕ろすのか?

 責任ある大人たちの意見は、後者一択に染まっていた。

 当然だろう。

 よほどの莫迦でない限り、それ以外の選択を支持できるわけなどないからである。

 当の薫子本人も、そうした勧めに従った。

 そいつは、彼女自身がそれを最善手だと認めたからにほかならなかった。

 だけど──…

 だけど──…

「本当は、産んで……あげたかった!」

 左右の肩を自分で抱きしめ、俺の女神は絶叫した。

 顔を俯かせたまま、狂ったように吠え猛った。

「たとえ望まれない命でも、産んであげて、この世の光を見せてあげたかった! でも……でも、どうしても駄目だった! 父親のいない子供を抱いて、路頭に迷う自分が想像できた! ふしだらな女と後ろ指を差されて、途方に暮れる自分が想像できた! だから堕ろした! お腹の中の罪のない命を、保身のために殺してしまった! 女として、母親として、決して許されることのない罪を犯してしまった!」

「薫子! もういい! もういいんだ!」

 自分がそうさせたことを棚に上げ、俺は薫子を制止した。

 跳ね上がるように飛び起きて、奴の両肩に手を置いた。

 心を込めた強い言葉を真っ正面から叩き付けた。

 でも、薫子は止まらなかった。

 堰を切った濁流がすべてのものを押し流すように、俺の女神は自分自身を責め立てた。

「手術のあと、麻酔が切れて意識が戻った時、涙が溢れて止まらなかった。自分の意志が、ひとつの命を殺めてしまったんだって実感が湧いた。もう自分は幸せになっちゃいけないんだと、心の底からそう思った。医者になろうって志したのは、この時だったわ。罪を犯したあたしは、決して幸せになっちゃいけない。だったらせめて、ほかの誰かを幸せにしよう。あたしと同じ立場の女性をひとりでも多く救えるよう、医学の道を歩んでいこうって、自分の中で誓いを立てた──」

 背中まであった長い黒髪をばっさりと切り落としたのは、この頃のことだったのだそうだ。

 そして時を同じくして、薫子の実家である大橋家は、いわゆる傷物になってしまった娘に対し、次のふたつの道のどちらかを選ぶよう強制してきた。

 ひとつめは、親子ほども離れた親戚に後妻として嫁ぐ道。

 それは紛れもなく、質の悪い政略結婚そのものだった。

 もうひとつは、今後、家とは縁を切り、自分の道を自分の足で歩いて行く道。

 相応の支度金が与えられるとはいえ、そいつはもう、体のいい追放劇にほかならなかった。

 由緒正しき大橋家としては、家の体裁を守るために、そうしなければならなかったのだろう。

 だがそれは、余りに非情な要求だった。

 少なくとも、未成年に科していい試練などでは到底なかった。

 しかし、薫子は選択した。

 自分の意志で、行く道を選んだ。

 その選択は、言うまでもなく後者だった。

 たとえ豊かな生活が約束されるとはいえ、前者の道は誰かの人形となって漫然と生かされる道だ。

 それは、ヤクザどもに弄ばれたあの地獄の日々と、どれほど異なるというのだろう。

 毅然として家族に背を向け、薫子は見知らぬ海原へ細腕ひとつで漕ぎ出した。

 唯一の頼りとしたのは、かつて自分と同じように実家を出された、変わり者の兄だった。

 悟さん。

 彼の支援を受けながら、薫子は身を削るようにして受験勉強に打ち込んだ。

 希望の医大に一発合格したのは、そんな努力の賜物なんだと断言しても構うまい。

「医者になるための生活は、大変だったけど充実してたわ」

 絞り出すように彼女は言った。

「悩める女性の助けとなれる、そんな立派な産婦人科医。たとえ綺麗事だとわかっていても、それを目指す自分が誇らしく思えた。だから医師免許を手に入れて、研修医として働きだした時、汚らわしい過去の自分と決別できたような、そんな気がした。そんなことなんて、ない。そんなことなんて、絶対にあるわけないのにね──…

 藤田の奴と出会ったのは、そんな時のことだったわ。あの時のあたしの目には、あのクズ男が、尊敬できる先輩で、信頼できる上司のように映ってた。心臓外科と産婦人科。専門はそれぞれ違っていたけど、同じ方向を見て同じ道を歩いている、そんな戦友みたいに見えていた。莫迦だった。本当に莫迦だったわ。あれだけわかりやすい最低男を、それだと見抜けないほどに、あたしの眼鏡は曇ってた。ううん。そうじゃない。あの時のあたしは、汚れた自分が幸せになっていいだなんて、分不相応な自惚れに犯されていたのよ!」

「薫子ッ! やめろッ! それ以上何も言うなッ!」

 俺の女神が壊れていく──…

 もう、見ていることなどできなかった。

 左右の指に力がこもる。

 薫子の両手が、そんな俺を振り払った。

 制止の声を拒絶して、自虐の言葉をなおも紡ぐ。

「藤田の奴は、あたしのすべてを知っていた! すべてを承知した上で、愛の言葉を語ってくれた! 愚かなあたしは、そんなあいつに心を委ねた! こんな汚れたあたしでも誰かを愛していいんだと、オンナのすべてを捧げ尽くした! あいつにとって必要だったのは、そんな『都合のいいあたし』だけだったのに!」

「薫子……もういい……」

「だから、あいつの本性に気付いた時、自分の莫迦さ加減にほとほと嫌気が差してしまった。こんな莫迦なオンナ、死んだほうがマシなんだって、冗談抜きでそう考えた。もし千春さんに会ってなかったら、自殺してたかもしれない。それぐらい、自分のことが嫌いになってた。ほんの一時であっても、幸せになれるだなんて考えたお莫迦すぎる自分自身を、否定したくてたまらなくなってた。

 君に会ったのは、そんな気持ちから少しだけ立ち直ろうとしてた頃。改めて自分自身を見直して、もう一度、初心に帰ろうと頑張ってた頃。兄さんの店で君から向けられた、あの真っすぐな視線がたまらなく眩しかった。こんな風に、誰かを見詰められる時期が自分にもあったんじゃないかと、羨ましく思った。

 だから試した。自分の『オンナ』を過度に誇示して、君もまた『オトコ』なんだと確かめようとした。君も藤田と同じように、いずれあたしの『オンナ』を求めてくる。きっとそうに違いない。『オトコ』なんてそんなものだ。気持ちを許したら、きっとまた痛い目に遭う。そんな風に自分自身に言い聞かせて、何度も何度も、君の本性を知ろうとした。

 でも……でも……逆効果だった。君のことを知ろうとすればするほど、君のことが気になっていく自分自身が増えていった。あたしのことを『オンナ』ではなく、ちゃんとしたひとりの個人と見てくれる君の存在が、あたしの中で、だんだん大きくなっていった。惹かれていく自分がはっきりとわかった。もしかしたら、この魂の牢獄から連れ出してくれる王子さまなんじゃないかと、おこがましくも思ってしまった。こんな汚らわしいあたしみたいな女が、君と一緒なら幸せになれるんじゃないかって、過去を学びもせずに思ってしまった! そんなお莫迦なあたしの期待が、身の程知らずなあたしの夢が、いま、君をこんな目に遭わせた! 君を傷付け、危険に晒した!

 ごめんな……さい!」

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