第十九話:敗因解説・イン・SA

 俺は今回のジムカーナで、「パイロンとパイロンとの間を直線で結ぶ」ようにして愛車「パルサー」を走らせた。

 そうして描かれた走行ラインは、地図上における点と点との距離で見るなら、最短であることに間違いはない。

 だがしかし、そのふたつの点を単純に「スタート」と「ゴール」として考えるのならともかく、それがあくまで全体の一部、いわば長いコースの通過点でしかないと考えるのであれば、話の内容は随分と変わってくるのだ。

 そう。

 俺はそんな仮初めの「目標地点」に辿り着くことばかり考えてて、そこが新たな出発地点になるのだということを、まるっと失念してしまっていたのである!

「今回の君は、目指すパイロンの横を全速で通過することにばかり気を取られてて、次のパイロンに向かうための姿勢造りがこれ以上もなくおざなりだった。ううん。初めからそんなの目に入っていなかった、と言ったほうが正しかったかもしれないわね」

 俺の心中を代弁するように、奴の唇が賢者の言葉を紡ぎ出す。

「ひとつのパイロンをゴール地点とみなす場合、競技者は同時に、そこが新たなスタート地点になるんだってことを決して忘れちゃならないの。君は今回、その初心を完膚なきまでに無視してた。確かに君は、自分で定めたスタートとゴールとの間を全力疾走で駆け抜けてたわ。でも、ごらんなさい。君の設定したゴールがこのパイロンの位置だと仮定したなら、君が次のゴール地点に向かうために採った現実のスタート地点は、になる──」

 薫子の動かす一本の爪楊枝が、当時の俺の状況を残酷なまでにトレースしていった。

 わかりやすく説明しよう。

 配置図上に描かれたパイロンとパイロンとの最短距離をそれぞれ直線で表した際、進路を変える「角」の部分の頂点は、当然ながら各パイロンの位置となる。

 つまり、ジムカーナ競技における最短距離の走行ラインとは、概ねだけど、「あるパイロン間のゴール地点が次のパイロン間のスタート地点と重なっている状況」ってことになるわけだ。

 ところがである。

 今回のG6で俺の採った走行ラインは、そんな理想を、まさしく明後日の方向に投げ捨ててしまっていた。

 取りあえずのゴール地点パイロンに到達した俺の「パルサー」は、あろうことか、その時点での進路変更をほとんど終えていなかった。

 いやむしろ、進路変更なんてまるで試みていなかったと言ったほうが正確だと思う。

 もちろん、次の目標に向かうための準備なんて、ミジンコほどにもできてない。

 早い話が、完全無欠のオーバーランだったってわけだ。

 そんな醜態を晒してたものだから、時機を逸した俺の努力は、理想の位置とは大きく離れた別の位置に、独自のスタート地点を設けることになってしまった。

 本来なら「角」の部分に置かなくちゃならないゴール地点のパイロンを、旋回開始時点で、はるか後方に置き去りにしてしまっていたのである。

 それは別名、「突っ込み過ぎからのドアンダー」

 いわゆる、ヘタクソの代名詞って奴だった。

 減速ブレーキングからの旋回開始ターンインが致命のレベルで遅れたのだから、走行ラインが大きく外に膨らむのも、立ち上がりのタイミングが決定的に滞るのも、物理的には回避不能な出来事だ。

 これが深夜の峠であったなら、もはやクラッシュは避けられない。

 そんなレベルの大失態だった。

 俺は言葉を失った。

 自分の愚かさを悟ったからだ。

 こんな基本的なことすらできてない自分が、仮にも表彰台常連の薫子こいつに戦いを挑むだなんて、ひょっとして物凄く恥ずかしい真似だったんじゃないだろうか?

 もしかして薫子こいつは、そんな俺を嘲笑の対象とみなしてるんじゃないだろうか?

 陰でいろいろ言いながら、物笑いのタネにしてるんじゃないだろうか?

 だとしたら俺は、俺は──…

 だが結果だけ言うと、そんな恐れは杞憂であった。

 薫子の目の中に、俺を嘲る色彩など欠片も見られなかったからだ。

 代わりにそこにあったのは、幼児のおいたをたしなめる、優しい姉の双眸だった。

 俺の人生においてただの一度も向けられたことのない、無償の思いがこめられた

 その存在を認めた瞬間とき、俺の背筋に芯が宿った。

 一気に姿勢がピンとなる。

 なんでそうなったものか、理由は自分でもわからなかった。

 だけど確かにあいつの瞳は、へたれた俺にカンフル剤を撃ち込んでくれた。

 胃袋の奥で火酒が燃える。

 地に着きそうになっていた膝が、力一杯伸び上がった。

 そんな俺の変化を知ってか知らずか、学者の口調で薫子が説く。

「ターンインをミスった君のクルマは、ただ長い距離を走ることになっただけでなく、アクセルオンの機会まで逃して二重のロスを獲得しちゃった。この一連の流れが、今日の君が犯した最大のミステイクよ。このミスで君が失ったタイムは、いちコーナーあたりコンマ二秒から三秒。仮に十箇所のコーナーでこれを繰り返したとすれば、全体のロスタイムは二秒から三秒ってところになるかしらね。もし今日の君が、仮定したこの三秒のロスを縮めることができてたなら、表彰台の上はさすがに無理でも、クラスの中盤あたりには余裕で食い込めてたわ」

「……つーことは、だ」

 落ち着いてそれを聞いていた俺の脳裏を、不意にひと筋の光明が過ぎった。

「その一点をクリアしさえすれば、俺はすんなり、それだけのタイムを短縮できるって寸法なわけだな」

「ま、そういうことになるかしらね」

 薫子は、俺の言葉をあっさり認めた。

「でもまあ、こういうのはいわゆる言うは易しって奴でね。言葉で聞いて頭でわかったつもりになってても、なかなか結果には結びつかないものよ。もしそれが簡単にできちゃうようなら、それこそプロが失業しちゃうわ」

「それでもいま、はっきりとした目標が出来た。おまえのおかげで、目指すべきパイロンが見えてきた」

 礼を言う──そう言いながら、俺の口元は不敵な笑みを形作った。

 ついさっきまで萎えきってたはずの闘争心が、見る見るうちに鎌首をもたげてくる。

 ポジティブシンキングなんかとはまるで縁のない男なんだと、俺はこれまで自分自身を評価していた。

 だがこの時ばかりは、それが間違いだったと言われても仕方がなかった。

 俺を見ていた薫子の表情が、初めは驚きの、次いで満足げなそれへとチェンジしたのが、その何よりの証だった。

「それはよかった。わざわざお説教した甲斐があったわ」

 どこか意味深な眼差しを投げかけつつ、薫子もまた、柔和な笑みで俺に応じた。

 長い睫毛を二、三度動かし、グラスのお冷やで喉を潤す。

 ぽてっと厚めの唇が、異様なくらいに艶めかしかった。

 コクリと動く奴の喉。

 それを見て、俺は思わず目線を逸らした。

 もちろんそれは、理屈に則ったアクションじゃあない。

 なんと言うか、根源的に備わった本能の一部が、俺の身体にその反応を強いたのだ。

 俺の視界に若いオトコの一団が映り込んだのは、ちょうどその時のことだった。

 連中は、離れた位置からこちらの様子を伺いつつ、ヒソヒソと互いに何かを伝え合ってる。

 奴らが何を議題にしてるのかは、実のところ、聞こえなくともわかっていた。

 それは、俺と薫子──つまり、どこからみても野暮ったいタダの小僧とコンテストを総なめにしちまいそうなセクシー美女との組み合わせに対する、オトコとしての違和感である。

 そいつを仮に台詞とするなら、「なんであんなダサいガキが、あんなにもイイオンナと一緒にッ! クソッ! 忌々しいッ!」ってところだろうか。

 ひょっとしたら、そこには嫉妬に似た感情もあったかもしれない。

 俺に向けられた目付きの質が、異様なほどに険しすぎる。

 眼差しが突き刺さる、という比喩表現は、この現実にこそ相応しかろう。

 だが正直言って、そうされること自体に悪い気分はしなかった。

 優越感とはちょっと違うが、明らかにそれと同じ方向を向いた思いが、俺の胸中に浮かび上がって消えていく。

 彼女といちゃつくリア充どもの心境が、ほんの少しだけわかった気がした。

 学園のアイドルと親しくなったライトノベルの主人公たちも、あるいはこんな気持ちを抱いたんだろうか?

 予期せぬ立場に陥っている自分自身を発見し、俺は思わず苦笑してしまった。

 こんな絵に描いたような状況が発生する可能性など、俺の生涯においてはゼロパーセントに違いない。

 いままでそう確信していたがゆえの、皮肉めいた自嘲だった。

 これは危険な兆候だ。

 俺はこの時、はっきり思った。

 火照ったオツムに冷や水を注ごうと、顔には出さず尽力する。

 そんな俺を現実世界に連れ戻してくれたのは、おもむろに放たれた薫子の台詞だった。

 またしても、とでも言うべきか。

 まるでタイミングを見計らったように、あいつは真っ直ぐな言葉で切り出してくる。

「じゃあそろそろ、あたしのほうも本題に入るとしましょうかね」

 微笑みながら、奴は言った。

「本題?」

「そうよ」

 答えるや否や、あいつの笑顔の気立てが変わった。

 世話好きの年上女房みたいだったそいつから、悪戯好きなお転婆娘のそれへの変化。

 そりゃあもう見事なまでのメタモルフォーゼを遂げながら、薫子は、短い言葉で主題を告げる。

「お待ちかねの罰ゲームの話。君も楽しみにしてたでしょ?」

「やっぱりそれか」

 来るべきものが来たかとばかりに、俺はたっぷり溜息を吐いた。

 だが、腹はとっくに括ってある。

 奴からの宣言を真正面から受けて立つべく、俺は轟然と胸を張った。

「約束は約束だ。遠慮せず何でも言ってくれ」

「素敵よ、圭介くん。君ってコは、やっぱりそんな風じゃなくっちゃ」

 俺のことを誉めてるのか莫迦にしているのか、正直判別の付きづらい言い方でもって、奴は宣告の口火を切った。

「今回君に与える罰ゲームは、あたしのクルマを洗車することよ」

「えッ!? 洗車!?」

 驚きの声を俺は上げた。

「洗車って、あの洗車のことか?」

「莫ッ迦ねェ。洗車行為に、、も、、も、あるわけなんてないじゃない!」

 要領を得ない俺の返事に、薫子は、つんと口先を尖らせる。

「と・に・か・く、君には、あたしのインテを心を込めて洗ってもらいます。来週の週末は、予定を入れず空けておくこと。わかった?」

「全身全霊で了解した」

 俺は大きく頷いた。

 「いったい何をさせられるのだろう」という不安が瞬時にして霧散し、入れ替わりにやってきた「なんだ。その程度か」という安堵の思いが、俺の心を決定的に緩ませた。

 たかだか洗車作業のごとき、いかほどのことがあるというのか。

 油断は慢心へと姿を変え、言葉となって俺の口から外に出た。

「洗車だったらお手の物さ。痛車のマスターを舐めんなよ。オーナーのおまえが目を見張るくらい、ピッカピカに磨き上げてやるよ」

「あら、それは頼もしい」

 ニヤリと笑ってあいつは言った。

「じゃあ君からの了承も得たことだし、当日着るメイド服のほうは、あたしのほうで用意しておくわね」

「えッ? メイド服ッ?」

「もっちろん!」

 当惑する俺に向かって、薫子は、とんでもない内容を口走った。

 それはまさしく、ヘヴィ級ボクサーのストレートパンチに匹敵する威力だった。

 紡ぎ出された宣告が、無抵抗だった俺の顔面を一直線に貫通する。

 奴の言葉を俺の頭が理解したのは、それからきっかり一秒後の話であった。

 あいつは俺に、こんな台詞を宣ったのだ。

「当日の君は先月に引き続き、可愛い可愛い『楠木圭子』に変身するの! それも、上から下までガチの衣装を身にまとった。特盛りのメイドさんバージョンでね。どう? このあたしからのプレゼント。いまから楽しみでたまんないでしょ?」

「なッ……」

 勢いよく立ち上がりざま、人目も気にせず俺は叫んだ。

「なんだってェェェッッ!!!」

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