冥王星の物語

 そのヨーンの言いように、カティは首を傾げた。


「今は?」


 惑星がそう簡単に減ったり増えたりするのだろうか?


 カティが心の中で「?」を飛ばし始めるのを見計らっていたかのように、ヨーンは静かに説明を始めた。


「八十年くらい前まではね、もう一個、惑星と呼ばれた星があったんだよ」

「消えたのか? 爆発したとか?」

「まさか」


 ヨーンは小さく笑い、説明を加えた。


「今から百五十年前に惑星として生まれて。今から八十年前に惑星という地位を追われた。そういうこと」

「そういうことって言われても、えと……よくわからない。ごめん」


 カティの反応を見て、ヨーンは腕を組んで空を見上げた。


「ごめん。アタシの知識じゃ、全然物足りないだろ」

「そんなことはないんだけど、無理につきあわせてたら悪いなって」

「ないない、そんなことないよ」


 カティは慌てて手を振った。ヨーンはニコッと微笑んで、カティに向かって手を差し伸べた。カティがその手を取ると、ぐいっとベンチから引き起こされた。そのまま、ヨーンの腕の中に抱きすくめられるような形になる。


「その星にはね」


 ヨーンの声が耳のすぐそばで生じる。それだけで、カティの心拍が跳ね上がる。


「その星には、明日が来ないんだ。明日は常に去っていく。遠くなっていく」

「明日が、来ない?」

「うん。その星はね、僕らにとっての六日間。だいたいそのくらいの時間をかけて、昨日に向かって進んでいくんだよ」


 その言葉は熱を帯びていた。カティの耳に、ヨーンの吐息と声がかぶさり、カティはますます鼓動が高鳴るのを覚える。落ち着くのに、落ち着かない。そわそわする。


「彼は僕らによって、と言われて。名前も付けられた。冥王星プルート。そういう名前」

「冥王星……聞いたことはあると思う」

「うん」


 ヨーンはカティの背中と後頭部に手を当てていた。そして囁き合っている。


「でもね、冥王星がその公転軌道の三分の一も回ってないうちに、学者たちがあれこれ議論し始めた。そしてやっぱりと言って、惑星の地位と名前を取り上げた。彼は名前を失い、代わりに134340なんていう味気ない番号を与えられた」

「なんか、勝手な話だな」

「そう、勝手なんだ」


 ヨーンはカティを抱く腕に少し力を入れた。カティもヨーンの背中に手を回し、ぎゅっと力いっぱい抱きしめた。ヨーンは痛がるようなりも見せず、カティの額に口づけした。


「でもね、彼は、冥王星は、そんなことを気にしちゃいないと思う。僕らは無関心に、時として感傷的にその話を聞いて、いろいろと考えたけれど。でも、それは僕らの身勝手な同情と感傷から生まれた妄想に過ぎないんだ」


 カティは想像する。ヨーンが冥王星の物語を知った時の表情を。それは彼が何歳くらいの時の話だったのだろう。その時、どんな風に思ったのだろう。


 カティは間近なヨーンの顔を真正面に捉え、その灰緑色の瞳に映る自分を見た。


「……寒い?」


 唐突にヨーンが訊いてきた。カティは首を振る。


「でも、喉が渇いた」

「僕もさ。今日は空気が乾いているからね」


 二人は連れ立って自販機の所へ行き、それぞれ熱い缶コーヒーを購入する。


「ヨーン、冥王星って見えるのか?」

「十四等級の彼の姿は、肉眼ではどうやったって見えないよ。高性能な望遠鏡を使えば今の空でも見えるかな」

「そうなんだ」

「でもね――」


 缶コーヒーに口を付けながら、ヨーンはまた空を見上げた。吐く息がふわりと舞い上がる。


「計算で存在が確信されていた彼はね、それでも長い間発見されなかったんだ」

「場所が分かってたってことだよな? それなのに何で?」

「計算が間違ってたからだよ」

「間違ってた? 学者でも間違えるのか?」


 そのカティの言葉に、ヨーンは苦笑した。


「学者だって人間だし。それに、間違いがあるから、学者という商売が成り立つとも言えるのさ」

「なるほど……」


 何となくだが理解した気になって、カティは頷いた。そして缶コーヒーを一口飲み、その熱さに少し辟易した。


「あそこに冥王星が見えたとする」


 ヨーンは夜空を指差した。


「でも、もう彼はそこにいない」

「どういうこと?」

「太陽の光が僕らに届くまでは約八分かかる。一億五千万キロメートル離れてるからね」

「いちおくごせんまん?」

「そう」


 ヨーンは頷き、左手の人差し指と親指をギリギリまで近付けて、言う。


「もし地球の直径が一ミリだったとしたら」


 そして、振り返って自分の車を指差した。


「太陽までの距離は十メートル以上あるってことだね」

「……まさに天文学的な話だ」

「まさか。たったの一天文単位の話だよ」

「天文単位?」

「太陽から地球までの距離を、一AU天文単位というんだ」

「へぇぇ……」


 関心しきりのカティである。カティは缶コーヒーを両手で抱えて、ベンチの所に移動した。ヨーンも速足でついてくる。そしてカティに促されるまま、二人は並んで座った。


「続けてよ、ヨーン」

「うん」


 ヨーンはコーヒーを飲みつつ、頷いた。


「太陽の光が僕らに届くまでは八分。でも、冥王星には平均して五時間半もかかるんだ。最小三十天文単位、最大五十天文単位。さっきの計算だと、地球が一ミリ、太陽までが十メートルとして三百から五百メートル離れてるってこと。すごく楕円な軌道なんだ。しかも潜ったり浮かんだりするかしいだ軌道」


 カティは黙ってヨーンに身を預け、その言葉を聞き続ける。


「月が眩しいでしょ。月に反射した太陽の光でさえ、僕らには眩しい。でも、冥王星の所に辿り着いたころには、太陽の光なんてみたいなもんなんだ。氷漬けの冥王星にとって、太陽の光なんてただの標識にすぎないんだ。二百四十七年かけて一周するための標識にすぎない」

「でも、なかったら……」

「そう、それでも太陽は冥王星にとっては大事な標識なんだ」


 そうか。カティは何となく頷いた。ヨーンはカティの髪に手をやり、不器用ながらも優しく撫でた。カティは猫のように、ヨーンに身を任せきっている。


「僕はずっと独りなんだと思ってた」


 さっきもそんなことを言っていたっけ――カティは学校内での遣り取りを漠然と思い出す。


「僕は小さいころから、そう、ちょっと違ったんだ」

「違った?」

「うん。自分で言うのも変だけど、ちょっとばかり頭が良すぎたんだ。知能指数で言う所の百八十とか、そんな数値を叩き出していたみたいでね」

「IQ?」

「うん、そう」


 あまりに数字が大きすぎて、どのくらいすごいのか、カティには想像もつかない。


「親は過度に期待するし、先生も無茶苦茶やってくるし、そのおかげで友達はできないし……。良いことなんて一つもなかった。でも、なんだかんだで褒められる自分を演じることから逃げられなくなった。そんな自分が嫌で嫌で仕方なくて。気が付いたら星の事ばかり考えるようになっていたんだよ」

「ああ、それで――」

「うん。好きが高じて博士号なんてとっちゃったりしてね。親からは、そんな飯の種にもならないような博士号なんて意味がないとか散々言われたりして」


 博士号というだけですごいと思うのに、それに注文を付ける親がいるのか。カティは今さらながらに、自分とヨーンの間にある文化の差を感じた。


「まぁ、それをきっかけに僕は親と絶縁状態になっちゃってさ。その時に気付いたんだ。空軍に入れば星を見放題じゃないかって」

「あはっ、あはははっ」


 カティは声を立てて笑った。ヨーンとは思えない短絡的な思考が、たまらなくおかしく感じられたからだ。


「笑うなよ、その時は真剣だったんだからさ。そりゃ、好きなものすら言い訳に――」

「わかってる」


 カティはそう言って、ヨーンの頬にキスをした。ヨーンは目を丸くしてカティを見ている。カティは頷き、少しヨーンから身体を離した。


「良いと思うよ。言い訳にしちゃっても。だって、大事にしてたんだろ、星への想いていうか、そういうもの」

「うん」

「だったら、誰も不幸にならないじゃないか。良いと思う」

「……そうか」


 ヨーンはカティの左手を握った。外気に当てられてすっかり冷えてしまったその指先を愛おしむように包み込む。カティも指先でそれに応えてくる。


「少なくともアタシは」


 カティは右手でコーヒー缶を傾けて、温くなったコーヒーを一口飲んだ。


「アタシはね、ヨーンがそうしてくれたことを喜んでる」

「なんか照れるね」


 ヨーンは笑い、カティも笑った。ヨーンはふと真面目な顔に戻って言った。


「僕が僕の嫌いな僕じゃなかったとしたら、僕は君に出会えていなかった。だから、僕は、僕の嫌いな僕に感謝しなきゃいけないと思う」

「んん?」

「つまり、何が人生に作用するかわかんないってこと。人間万事塞翁が馬――昔の人は上手いこと言ったね」


 それは、そうかもしれない。


 十二年前の事件の事を肯定するつもりには到底ならないけれど、そのおかげで自分はヴェーラやレベッカ、エレナ、そしてヨーンに出会えた。自分にパイロットの才能があったなんてことも、あんな事件に遭わなければ知る事すらなかっただろう。そして今、自分はヨーンといるだけでこんなにも満たされている。胸が熱い。これはきっと、幸せだと言っても良い気持ちなんだろう――カティはそんな風に考えていた。


「僕は今、すごく幸せなんだ。だから、今までの事すべてに感謝したいと思ってる」

「ちょ、直球で来たな……」


 カティは戸惑う。恋愛小説の中で幾度も見聞きしてきた惚気ノロケのフレーズ。だが、それが自分に使われる日が来るだなんて思ってもいなかった。自分は恋愛事なんかとは一生無縁だと思い込んでいたのだから。


「僕は変化球を投げられるほど器用じゃないんだ」


 ヨーンはカティの顎に手を遣り、そして唇を重ねてきた。不器用ながらも、少し長くて熱いキスが、カティの意識をとろけさせる。


「ちょうどよかった」


 カティはゆっくりと息を吐きながら囁いた。目の前にはヨーンの精悍な顔がある。


「アタシも変化球を受け止められるほど、器用じゃないんだ」


 カティはヨーンの頬を両手でそっと挟み込んだ。


「アタシ、君を愛してるのかもしれない」

「それはゆっくり確かめればいいよ」


 ヨーンはぎこちなく微笑み、そしてまたカティに優しくキスをした。

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