静かな丘の上で

 タイヤが地面を転がる音、静かな駆動音、ボリュームを絞られた心地よい音楽。外を歩く人影は一つもなく、車もまたいなかった。こんな夜だ、誰もがテレビにかじりついているということだろう。


 信号機は義務的に色を切り替えながら、誰もいない道路を見下ろしている。通り過ぎたコンビニの明かりが、視覚にうるさく残像を残した。その一方で、透き通るくらいに何もない凍えた空の色は、黒というよりもむしろ青く見えた。月と星の輝きが、なぜだかいつもよりも眩しい。


「僕は何をしているんだろう」


 信号待ちをしながら、ヨーンはゆっくりと息を吐いた。


「あんなことが起きたっていうのに、僕は」

「悪いとは思わないよ、アタシは」


 カティは硬く冷えた路面を眺めながら言う。


「あんなことが起きたから、アタシはヨーンに好きだって言ってもらえた」

「でも」

「なんだっていいんだ、きっかけなんて」


 カティは首を動かしてヨーンを見た。その時、信号が青に変わり、ヨーンは車を発進させた。ヨーンの精悍な横顔は、やはり少し緊張していた。カティは自分の唇に手をやり、さっきのキスの感触を思い出そうとする。思い出すだけで、胸の奥が少し苦しくなる――そんな感覚があった。

 

「今はさ、ヨーン。悲しんだり怒ったりは、他の連中に任せておこう」

「……そうだね」


 ヨーンは頷いた。カティはまた正面を見る。寒風に晒された道路標識たちが、いかにも冷たそうに見える。春まではまだ遠い。


「今日は本当に星が綺麗だ」


 ヨーンはそう言いながら、車を進めて行く。自動運転でもいいんじゃないかとカティは思ったりもしたが――そしてその分ゆっくり話をしたいと思っていたが――ヨーンは頑なにハンドルを握っていた。


 車は緩やかな坂を上っていく。このあたりでは唯一の小高い丘だ。頂上付近まで車で上がり、小さな駐車場に停める。そこには誰もおらず、いた痕跡も見当たらない。自動販売機が一台、煌々としているくらいだった。


 二人はどちらからともなしに車を降り、そして近くのベンチの傍まで移動して、立ったまま空を見上げた。自販機と月明かりによって、二人の息が白く照らされる。ヨーンはいったん車に戻ると、トランクから冬用のジャケットを持ってきた。そしてそれをカティの肩に掛ける。


「ありがとう。でも、君のは?」

「僕は平気さ。寒いくらいじゃないと、今の僕は冷静さを保てないよ」

「そうか」


 カティは相槌をうつと、ヨーンの右手を捕まえた。そしてベンチに並んで座る。


「やっぱり緊張する。男に触れたこととか、CQC接近格闘戦の訓練でしかないし」

「僕も似たようなものだよ」

「モテたんじゃないのか、ヨーンは」

「それはジョークの一種かい?」


 ヨーンは例によって困ったような微笑を浮かべ、肩を竦めた。


「モテたためしなんてないよ。ここに来る前は、僕はいつでも独りだった」

「そっか……」


 どんな事情があったのかはわからない。でも、カティはそれを追及しようとは思わなかった。カティだって、ヴェーラたちと出会わなければ、今でも孤独の中に生きていただろうから。


「ヨーン、アタシさ」


 カティは少しヨーンに近付いた。ヨーンの左手がカティの右手を握り直す。冷え切った空気の中であるにもかかわらず、二人はまるで寒さを感じていなかった。


「アタシ、こんなふうに星を綺麗だと感じたのは、初めてだよ」

「うん?」

「星なんて、気にしたことがなかったんだ」

「うん」


 ヨーンは頷き、空に向かって白い息を吐く。


「百年くらい前まではね、六等星までは何とか肉眼で見えたそうなんだ」

「六等星?」

「すごく暗くて小さな星さ」

「ふぅん。でも、今は見えない?」

「六等星どころか、ここでも三等星だって怪しいものなんだよ。君の目なら四等星でも余裕で見えちゃうかもしれないけど」


 ヨーンは空を見上げて、「あの星が三等星かな」と言った。カティにはどの星の事かよくわからなかったが、なんとなく頷いた。


「昔はもっとたくさん見えたってことなのか? 今だって結構見えるぞ?」

「もっとさ。とは比較にならないくらい、たくさん見えたはずなんだ」

「そうなんだ。でも、アタシはしか知らない」

「あ……」


 ヨーンは少し慌てた様子でカティの横顔を見た。その視線に気付いたカティは、紺色の瞳をヨーンに向ける。そして顔もヨーンに向けて、少し顎を上げた。


「どうした?」

「ごめん、素が出ちゃって。気になったらごめん」


 ヨーンは頭を掻いた。そこにカティが小さく素早く口づけする。ヨーンは目を丸くしてカティを見て、カティは少し頬を染めて視線を逸らした。


「気になんてならない。興味あるよ、君の好きな話」

「ありがとう」


 ヨーンは今度は自分からカティの唇にキスをした。その手はカティの両肩を包んでいる。カティはその掌の温度を感じながら、きゅっと口角を上げた。

 

「アタシたち、案外似てるかもしれないな」

「そうだね、僕たちは似てる」


 ヨーンは頷いて、そしてまた空を見上げた。カティはヨーンの横顔を経由して、空に浮かぶ星々を見た。


「この空はね、濁っているんだ。地上に近いところがさ」

「そうなんだ?」

「うん。でも、空のずっと高い所は、昔のままなんだ。僕はそれを見たくて、空軍に入りたいと思った。宇宙飛行士なんて職業がまだ存在していたなら、もちろんそれを目指したけれどね」

「空を見たくて空軍?」

「うん」


 ヨーンは簡潔に肯いた。カティは金色の月をじっと見つめながら疑問を口にする。


「でもそれならさ、旅客機のパイロットとか、そういうのがあるだろう? 天文学者になれば、宇宙にあるっていう望遠鏡だって使えるんじゃないのか?」

「そういうのじゃなくて――」


 ヨーンは「どう説明したものかな」と頬をひっかきながら呟く。


「僕の、この目で見たいんだ。雲の遥か上の世界を。自由に」

「自由に……か」


 カティは今見ている空よりもずっと澄んでいる世界というものを想像してみる。勿論、カティは宇宙を知っている。テレビや雑誌でも度々取り上げられていたし、何とはなしに見てはいた。しかし星の名前なんて知らないし、宇宙がどうやってできたのかだって、どの説が有力なのかすら知らない。


 カティは自分の無知さを少し後悔する。ヨーンと出会い、惹かれ合うことが予めわかっていれば。いや、今日この日にこうなるとわかっていたならば。少なくとも話題を合わせられる程度の予習はしてからのぞんでいただろう。


「自由にああいう世界を見られるなら、それは凄いことだと思う」


 結局、こんなありきたりな感想しか言えない――カティは心の中で舌打ちする。


「メラル……じゃないや、カティ」

「なに?」


 立ち上がったヨーンを目で追う。ヨーンはくるりとカティを振り返り、夜空でひときわ輝く赤い星を指差して言った。


「あれは火星。あっちのは木星。ところでさ、カティは太陽系に惑星が幾つあるのか知ってるかい?」

「八個。そのくらい誰でも知ってるだろ」


 馬鹿にするなと言わんばかりにカティは言った。ヨーンはまた困ったような微笑を浮かべる。


「そう、八個」


 ヨーンは静かにそう言った。







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