ファウストの右、ファウストの左

 エレナはぶんぶんと首を振った。なぜ自分は地面に座り込んでいて、なぜ目の前にハルベルトが立っているのか。そしてなぜ彼が今、自分に向かって手を差し伸べているのか。


 私は確か一人でサンドイッチを食べていて……。


 それからどうしたっけ?


「うっ、いたた……」


 立ち上がろうとしたら、お尻から腰に掛けて痺れるような痛みがはしった。どうやら尻餅をついたか何かした際に、したたかに打ち付けてしまったらしい。


「だいじょうぶ?」

「う、ん……」


 仕方なくハルベルトの手を借りて立ち上がるが、ふらふらするほど腰が痛かった。力が半分くらいしか入らない。いったい私は何をしてこうなったんだろう?


 エレナはその目撃者にして容疑者でもあるハルベルトの碧眼を覗き込むようにして見つめた。ハルベルトは目を細め、フッと笑った。


「ガラス越しにあなたが見えたから来てみたのだけれど、どうしたの? こんな寒い所で」

「ランチを食べにここに来たところまではハッキリしているんだけど」


 エレナはハルベルトを凝視したまま腕を組んだ。


「何か考え事でもしてたのかしら」


 考え事に没頭するあまり、前後の記憶がすっぱりなくなったという事はなくはない。だが、ランチを食べながらそんなことが起きるだろうか? 第一、その「考え事」が何だったのかさえ思い出せないなんて、どう考えても不自然だ。エレナはその頭脳をフルに回転させて思い出そうと躍起になる。


 ハルベルトは顎に人差し指を当てて、エレナの頭上あたりに視線を彷徨わせた。


「カティの事でも考えていた?」

「……どうかしら」


 かもしれない。エレナは考える。確かにここの所、寝ても覚めてもカティの事ばかりを意識している自分がいる。そして、何をしても勝てない自分が、現実として存在する。持っていたはずのアドバンテージも、今や過去の栄光に成り下がってしまっていたし……とにかくあらゆる点において、カティに対しては劣等感ばかりを覚える自分がいることは間違いなかった。エレナは自己顕示欲の強い自信家ではあったが、それすら覆されるほどに、今のエレナの内側には不満と不安しかなかった。


「不公平なのよ」


 知らず、そんな言葉が口から出ていた。ハルベルトは腰に手を当て、表情だけで先を促してくる。


「不公平だと思う。私が十年努力してやっと到達したところに、あいつはほんの数ヶ月で辿り着いてしまうのよ。あいつがその気になれば、私なんて簡単に踏み越えることができてしまう。それが怖い。私はいつでも二番手になってしまう。一番でなきゃならないのに、意味がないのに、一番になれない。私は二番になるためにに来たわけじゃないわ!」

「それはというのよ、エレナ」

「……笑えばいいわ」


 エレナは吐き捨てる。しかし、その語気はどこか弱々しかった。ハルベルトは首を振って、エレナの肩をポンと叩いた。


「よかったわ」

「え、なに?」

「なんでもないわ」


 ハルベルトは微笑する。エレナはその意味が把握できぬまま、ハルベルトの表情を探る。


「……ほんと、なんなのよ、あんた」

「姫とでも呼べばいいわ」

「ひめ?」


 言ってから、思わず小さく吹き出すエレナ。


「姫って、なにそれ!」

「あたし、姫っぽくない? そう、男装の麗人。なんとかの騎士、的な?」

「男装って、あんた、男じゃないの」


 エレナは「ばかばかしい」と言いながら回れ右をした。


「そうだ」

「なに、エレナ」

「私、あんたのことはカティ以上に嫌いよ。理由は適当に自分で考えて」


 エレナはそう言い捨てると、少しふらつく足取りでガーデンスペースから出て行った。 


「あらあら、嫌われたものねぇ」


 エレナの背中を見送ったハルベルトは、おもむろに腕を組み、透明なガラス張りの天井を見上げた。


「でも、思ったほど悪い子じゃないじゃない」


 ハルベルトは虚空に向かって話しかける。そこには、先ほどまでの柔和さも美麗さもない。まるで影を落とす能面のような、闇の深い表情をしていた。


「そう、あたしはよ。あなたのような独善主義者とは違うの、根本から。そう、残念ながらね」


 ハルベルトの認識し得る範囲、その中の全てのものが時間を止めていた。空調システムからの温風も、ぴたりと動きを止めていた。ハルベルトの時間だけが、何の干渉も受けずに流れている。


「あなたがメフィストフェレスを気取るなら、あたしはさしずめ使ということになっちゃうわよ? ミカエルなのか、ガブリエルなのかはさておき。いいの、それで?」


 というのは、即ちだ。何故なら、とは、意識によるに他ならない。つまるところ、だ。神は未来にはおらず、つまり、変化をすることもない。神の変化=過去の改竄かいざんである。神の眷属である存在ものたちが、神の変化を許すはずもなく、そしてそれゆえに、彼らはなのだ。


 その問いに対する答えが届いたのか、ハルベルトは酷薄にも思える微笑を見せた。


 ファウストの右と、ファウストの左。


 ハルベルトたちはの両手を繋ぎ止め、そして各々のでお互いを牽制しているに過ぎない。


 ばかばかしい世界。


 そしてあたしたちは――。


 ハルベルトは首を振る。


 時間が元のように流れ出す。


 ハルベルトの姿は、もうどこにも見えなかった。


 

 

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