徘徊する影
カティとヨーンが食事を終えた頃――。
エレナは士官学校校舎に併設されているガーデンスペースにて、一人昼食を食べていた。室温は十七、八度しかなかったが、エレナとしてはちょうど具合の良い涼しさだった。だが、真冬のこの時期にわざわざ涼しい空間に入ろうなどとする学生はさほどいるわけでもなく、そんなわけで今日も利用者はエレナ一人だった。寒さに強い植物たちが、そこそこ豪奢に茂っている空間だ。が、エレナには植物への関心はない。
普段は常に複数名の女子に囲まれているエレナだったが、昼休みに関しては、エレナと接触することは厳禁だった。昼休み、とりわけ読書中に話しかけようものなら、エレナはたちまちのうちに不機嫌になるからだ。エレナの煌びやかで自己顕示欲の強い性格から、常に取り巻きがついているイメージはある。しかし、エレナ本人としては、静かに勉学に励んでいたいという願望があった。
そんなわけで、サンドイッチを齧りつつ、昨日入手したばかりの量子論の参考書を眺めている。傍目にはぼんやりと眺めているようにしか見えないが、それがエレナ流の読書のやり方だった。見たページがそのまま、頭の中に記録されていくのである。こういう読書法を行うには、電子媒体よりも紙媒体の方がやり易いとエレナは感じていて、そのためにこの書籍も、わざわざ紙媒体のものを探してきたというわけだ。
「量子論?」
エレナの娯楽、沈思の時間に無遠慮に踏み込んでくる声があった。エレナはたちまち不愉快な表情を浮かべ、その声の主を睨み上げた。
「邪魔しないでくれる?」
「邪険にしないでもらえないかしら」
「邪険にされるような真似をしないでもらえるかしら、ハルベルト・クライバー」
エレナは目の前で前かがみになっている美少女と見まごうばかりの青年を、なおも睨み続けている。相変わらずの全身黒づくめのファッションで、しかもそれが似合う所がまた、エレナの神経を逆撫でする。
「なんで制服を着ないわけ? 一応候補生なんでしょ、あなたも」
「相変わらず気が強いわねぇ」
ハルベルトは豪奢な金髪をかき上げながら、エレナを見下ろした。碧い瞳がエレナを捉え、エレナは言葉を発する代わりに眉根をググッと寄せた。
「そういう顔になるわよ、エレナ」
「ファーストネームを呼び捨てされるほどの深い付き合いだったとは知らなかったわ」
エレナはイライラと手にした書籍を指で叩く。
「何の用? 手短に――」
「隣、座るわね」
ハルベルトは返事も待たずに、エレナにほとんど密着するようにして座った。エレナはすかさず拳二個分ほど距離を離す。エレナは黙々と左手に持っていたサンドイッチを口に運ぶ。ハルベルトは優雅に足を組み、頬杖をつきながらエレナを観察している。その仕草が様になるところもまた、エレナを苛立たせた。
「で、用があるなら――」
「カティ・メラルティンをどう思う?」
エレナの言葉を食いながら、ハルベルトは目を細める。エレナは内心憤慨していたが、サンドイッチを飲み下してたっぷり十秒は時間を置いてから、ようやく答えた。
「すごい奴よ。反りは合わないけど」
エレナはわざとらしく溜息を吐き、諦めたように書籍をカバンにしまった。サンドイッチももうない。時計を見れば、そろそろ午後の講義が始まろうかという頃合いだった。
「頭の良さと容姿以外、私は勝てないもの」
エレナは立ち上がり、ハルベルトを見下ろした。ハルベルトは「へぇ」と目を細める。
「容姿、ねぇ」
「な、なによ!?」
エレナは思わず顔を赤くする。ハルベルトはゆっくりと立ち上がり、エレナの肩に手を置いた。
「あなたも綺麗だけど、せいぜい引き分けよ」
「……うるさい」
エレナはその手を力任せに払い除け、ガーデンスペースの出入り口に向かって歩き始めた。
「ま、あなたも認めているのね。カティ・メラルティンには負けているという事実」
「当然でしょ、あれだけ見せつけられれば。負けを認めるのもまた、強者の特権。違う?」
「強者?」
ハルベルトは腕を組み、これ見よがしに首を傾げた。エレナはぴたりと足を止め、振り返った。
「だから――」
「何をもって強者と言うのかしら、あなたは」
「もう、なんなのよ、あなたは! いろいろあるでしょ、育ちとか、学歴とか!」
「育ち、ねぇ」
ハルベルトは無表情に反復し、エレナの瞳を直視する。そのアンニュイな表情に、エレナはいよいよ苛立ちが頂点を迎える。
「何よあんた、不気味なヤツ! 私に何を言いたいわけ? 喧嘩売ってるの? 買うわよ?」
「あらあら、怖いわ」
ハルベルトは口角を上げた。その美しい容貌に浮かんだ荒んだ影に、エレナは思わず息を飲む。
「そ、そもそも、あんたは何者なのよ! 突然出てくるわ、シミュレータじゃあり得ないことをあっさりやらかすわ、男だか女だかわからないわ!」
「あらあら、人を化け物みたいに言わないでもらえる?」
ハルベルトはエレナに一歩近付いた。エレナはビクッと肩を震わせてから、一歩
「そうねぇ、あたしが何者か。その問いにどう答えたら良いものやら」
ハルベルトはまた一歩近づいた。エレナは退がれなかった。足が動かなかった。
「言うならば、保守派、かしら」
「保守派? 何言ってるの、意味がわから――」
「いいのよ、わからなくて」
ハルベルトは言いながら俯いた。その表情の全てが、金髪に塗りつぶされる。
そしてゆっくりと顔を上げた。
「……!?」
エレナは声にならない声を上げて、尻餅をついた。腰が抜けていた。
「な、なんなの、あんた……」
怖気。寒気。名状し得ない何か。
エレナの全ての神経が、そんなものに侵されていた。
「うふふふ、そんな目で見ないでもらえる? 今のがあたし。あなたが知りたがったあたし」
「だ、だから、あんた、何者なわけ……!?」
「名状し難い
ハルベルトは刃のように鋭く薄い微笑を浮かべて、へたり込んでしまったエレナに右手を差し出し、囁いた。
「安心して。今のあなたは、あたしにとっては排除するべき対象ではないのだから。少なくとも、まだ、ね」
「なんなのよ、それ……」
涼しい程の空間であるにも関わらず、エレナの額には汗が浮かんでいた。そして奥歯が震えているのが、傍目にも
「あなたは、神とか悪魔、信じるタイプかしら?」
「……す、数字のゼロみたいなもんよ、そんなの」
「うふふ、気丈ね。嫌いじゃないわ」
ハルベルトはこの上なく整った笑顔を見せつけながら、頷いた。
「まぁ、そうね。数字のゼロ、とはまた、良い喩えだと思うわ」
「そ、それはどうも」
歯の根が合っていないにも関わらず、気丈に言い返すエレナである。ハルベルトはその表現し得ないが確かに美しい微笑を浮かべたまま、「でも」と切り返す。
「もし神や悪魔がゼロであるとするならば、実数にそれを掛けたら森羅万象一切合切すべてそれに同化してしまうことになるわ。そうね、いわば、色即是空ということかしら?」
「……何が言いたいの、ハルベルト・クライバー」
「うふふ」
ハルベルトは右手の甲を口に当てる。
「あたしがもし、自分が神または悪魔である。そんなことを宣言したとしたら、あなたはどう思うかしら」
「頭がおかしいと思うわ」
「ふふ、そうでしょうね」
ハルベルトは再びエレナに右手を出した。エレナはそれを掴もうとしない。掴んだら最後、深遠の奈落へと引き
「でもね、あたしはそうなの」
ハルベルトの碧眼が輝いた――ように見えた。エレナは腰を抜かしたまま、自分の両肩を抱く。エレナの頭の中に、何かが捻じ込まれてくる。激しい頭痛がエレナを襲い、ハルベルトを睨んでいたはずの視界はぐるぐると渦を巻いた。
ツァ・トゥ・グァ――。
エレナの頭の中で、そんな音が乱舞する。その意味はわからなかったが、聞いてはならない音だということは本能的に理解できた。
「なぁんて、ね」
ハルベルトのお
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