#02-3:電空の咎人

ダス・イッヒ

 ハルベルト・クライバー……か。


「また変哲のない名前をつけたものだね」


 ジョルジュ・ベルリオーズは微笑を浮かべた。


 何もない空間、完全なる闇の中に、彼は独り浮かんでいた。


「どんな定義も、僕を真ん中に置きたがる。そして僕は、そうであるならば、そうであろうとしてしまう。……難儀なものだよ」


 僕個人の意志などお構いなしにね。そもそも僕に僕自身ダス・イッヒなんてものがあるとすれば、だけれど。


 ベルリオーズは溜息を吐いた。その音は反響すらせずに消えて行く。そしてその左目が数度、赤く明滅した。


「悪魔と天使がこの世に存在するのなら――」


 バルムンクの中に、ぼんやりと文字列が浮かび上がる。目まぐるしく変化する文字と記号――それはさながら、数式の乱舞だ。それら文字列の示すものは、古今東西、人の意識の中で創発し、淘汰されていった神性の何かだ。それぞれの数式は明確な意味を持っているのに、その総体は茫漠茫洋なものに見える。各個の数式は意味を持つが、それ自体では存在し得ない。曖昧な総体となって、初めてそれらの意味は、意味を持つ。


「どちらの勝利が人類にとっての勝利なのだろうね」


 ベルリオーズは数式を煩わしそうに払い除け、そして天を見た。何もない、ひたすらに深遠の空だった。バルムンクとはそういう空間だ。「自己」と「無」だけが存在し、そして、共依存している空間なのだ。このには「虚」しかない。そして確実に


 彼の疑問に答えるように、その舞台に広がる完全なる静寂を揺らがす存在が現れる。それはまるでだった。


「ここにきて哲学ですか、ベルリオーズ。無に何を呟いたとしても、事象たちは変わらないのだけれど」


 そこにでたそれは、銀髪の女性の姿をしていた――逆に言えば、それしかわからなかった。突如出現したその姿に対して、ベルリオーズには寸分も驚いた様子がない。彼はその存在を知っていたからだ。


「変わらない、か」


 ベルリオーズは目を伏せて少しだけ口元を緩めた。


「そうかな。僕はその意見には懐疑的だ。実数と虚数の混在するこの空間バルムンクは、そのもの自体が複素数なんだと認識しているよ」

「複素数、ですか。でもそれゆえに、この空間で何を創り出したとしても、実数空間では単なる実証を持ち得ない観測事象にすぎない。その程度のしか起きないのですけど」


 女性の姿は興味深げに、だが、どこか冷酷にそう宣告した。しかし、ベルリオーズもまた、冷たい表情を崩さない。


「わずかなから、宇宙が始まる事だってあっただろう?」


 その反問に、「どうかしら?」と女は考えるように、どこか揶揄するような口調で答える。


「私が創発うまれたのは、そうね、この銀河が生まれたくらいからかしら。こんなこと、意味のない定義だけれど。ともあれ、ゆえに、私はこの空間では無であり、同時にうつろでしかない。そう、さしずめ、実数を観測するためだけに存在する複素数的な何か、と言えないでもないでしょうね」

「ならば、君に対して何を言ったとしても無駄、というわけだ」

「そうというのならば、そうなるのでしょうね」


 女性は曖昧な答えを寄越よこす。ベルリオーズの赤い瞳はその銀髪の女性を明確に捉えているのだが、彼の目をしても、それ以上の情報を得ることはできなかった。だが彼女のには意味がない。その銀の姿すらも便宜上で選択されているアバターのようなものに過ぎず、つまりそれは、単なる観測対象としての価値しかない。よって、やはりその空間には、「無」と「彼」しかいない。


「私は定数のようなもの。定数にはありませんから」

「ふふ、定数はただ使役されるためだけに存在する値だよ。君が定数であるというのなら――そのが変化しないものだというのなら――定数それ自体の存在意義は、定数以外のものが存在するという事実を反定立とすることで初めて成り立つ。つまり、何か別の存在を証明するためだけのものに過ぎないのでは?」

「私の存在によって――」


 銀髪が揺らぐ。ふわりと空間を漂って、そしてベルリオーズの目前に現れる。


「私以外のものが存在するという証明が成立するということであれば、私の存在はそれら定義上の後発の事象、その全ての起源となるのだと言い得ると思うのだけれど」

上位相スーパークラスの概念かい。人も君たちもそれを好む。でもそれは、定義の順列の関係に過ぎない。その呼び出し元がそれらをどう配置するのかは、それこそだ」


 ベルリオーズは無感情にそう語る。しかし、目前に立つ銀の姿は揺らがない。


「その呼び出し元でさえ、何かの下位にあるのだとすれば、その定義は永遠に終焉を見ませんわ。あなたの好きな、自己ダス・イッヒと無と虚の関係項のように」

「関係項か。そうだね、キェルケゴールが叫んだ三つの関係項のようにもね。……ふふ、言い得て妙、というところか」


 ベルリオーズはククッと喉の奥で笑った。細められた左目の赤い輝きが強くなる。


「でもね、それは君たちの視点での把握に過ぎない。僕個人の視点では、僕はそれこそ僕自身こそが観測し得る最終結節ターミナルノードそのものなのだから、僕の定義こそが、君たちを決定付けると言うことができる」

「うふふ……というのは、あなた? それとも、ジークフリート?」

「さぁ」


 ベルリオーズは腕を組み、小さく首を傾げた。


「どうだろうね」


 その左目が眩しい程に爛々と輝いていた。


「僕は僕であると同時にジークフリートなのかもしれないよ。それに――」


 ベルリオーズの端正な口元がほんのわずかに歪んでいる。哂っているのだ。


「君がメフィストフェレスだとして、だ。君の描いている悪魔の道は、いったいぜんたい何処へ向かっていると言うんだい? この世界の存続? 滅亡? それとも変化シフト?」

「さぁ」


 銀の姿は肩を竦めた……ように見えた。


「私の役割は、あなたにティルヴィングをもたらすこと。それ以上でもそれ以下でもなく。古来より私はこの剣を多くの人々に貸し与えてきました。そして、その全てが例外なく自らを滅ぼし、いかなる記憶からも抹消されてきたのです。つまり」

「君は、ということだね」

「そのとおり」


 彼女は笑ったようだった。ベルリオーズも笑う。漂う神の数式たちを気まぐれに打ち払いながら。


「君はそうして、事実を標榜するわけだ。なるほど、悪魔的だね」

「皮肉にもなりませんわ。それこそがダス・イッヒなのですから」


 なるほどね、と、ベルリオーズは頷き、そして自分の爪先を眺める。


「そしてまた、僕もティルヴィングの歴代の所有者の一人になろうとしているというわけだね」

「さぁ」


 銀の姿はおどけた返事をする。


「今回の舞台は特殊。きっとね。私にしたって、メフィストフェレスだなんて初めての役割ロールですもの」

「そう……」


 ベルリオーズは慨嘆するように息を吐く。そして首の骨を軽く鳴らした。


「でも残念なことに、僕は別に神だの悪魔だのにはこれっぽっちも興味がないんだ。僕の興味は僕自身の救済なんかではないんだよ。在るべき人々の、在るべき形での存続。僕の為すべき事は、これ以上でもこれ以下でもないのさ」

「あら、在るべき人々の定義から外れた人々は、消え去っても構わないと?」

「消費と耽溺で生かされてきた意味を、彼らはそろそろ認識るべきなんだよ」

「あら怖い」

「それにね」


 銀の女性の揶揄を無視してベルリオーズは続ける。


「君たちが今回、かのファウストを舞台とした戯曲を展開しようとしているのなら、どうしても看過し得ない無理があるよ」

「あら、それは?」

「ふふ、僕が神に推挙されるような人間だとは、到底認められないという点だよ。神が僕を指差して、『悪魔よ、あの男を堕落させてみせよ』だなんて言うとは思えない」

「確かにそれはそうかもしれませんわ」


 銀の姿は笑う。


「分の悪い賭けを自ら吹っ掛けるようなものですものね」

「そう。そういうことにしておこうか」


 ベルリオーズの微笑はくらい。


 前触れもなく銀のは消え、その晦冥かいめいの中にはベルリオーズだけが残った。


「僕と君たちでは、どうやらが異なっているようだ」


 ベルリオーズのその呟きは、闇よりも一層暗く、周囲の闇を塗りつぶしていった。




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