ニーベルングの歌

 三人が去り、途端に静かになったその廊下に、ハルベルト・クライバーが姿を現した。まるでずっとそこにいたかのように、平然とだ。風もないのにその豪奢な金髪がかすかに揺れている。細められた目は、無感情に近い。


「あんな子たちを小道具扱いするとはね、まったく――」


 金髪を細い指でかき上げて、指先で毛先をくるりと絡め取る。


のために必要な措置だということはわかっているわ。でも、あたしが素直にあなたたちの目論見もくろみに従うと思う?」


 ハルベルトは誰かと話をしているようだ。


「ふふ、あたしのこの行為おこないもまた計算の内ということ?」


 宙を睨む碧眼が、禍々しい程の輝きを放つ。不自然なほどに静まり返った廊下に響き跳ねる彼の声を誰かが聞いていたとしたならば、おそらく得体の知れない怖気のようなものを感じることとなっただろう。


「だんまり、か」


 ハルベルトの浮かべる微笑は、端麗な容姿にはあまりにも似つかわしくない、さながらだった。異常に陰の濃いその微笑は、先ほどカティと話をしていた時のような花のような美しさとはベクトルからして全く違う。血に塗れた名刀の放つ、蠱惑的な、悪魔的な美しさだった。


「記憶を失くしたジークフリートは、遂にはブリュンヒルデに害されることになるのよ。その極めて原始的な感情によって、ね」


 ニーベルングの指輪。


 二百年以上も昔の歌劇オペラ


 それが歌劇として成立したのは二百余年前だが、その原点となった「ニーベルングの歌」の成立は、それよりも七百年も以前の話になる。そしてさらにそのモデルとなった物語は、さらに数百年という時代を遡る。連綿と受け継がれる過程で、さながら人の遺伝子交配の結果のように、少しずつ、だが時には大胆に変化――進化と退化――を繰り返して今に至った物語。


 その起源の発生より幾度も書き換えられてきた物語ではあるが、物語の本質自体が変わってきたのではない。伝えた人間と受け入れた人間が、相互に受け容れ易い形に抽出と淘汰というフィルタリングを経て受け渡してきた結果が、現在に残る形質なのだ。凝集、整形、削除、そしてより魅力的な要素の付与を経てされてきた形質なのだ。


 そしてそれを受け容れてきた大衆たちのその大多数は、その本質には「器」しか持っていない。彼ら大衆は、「自分という器に、それらの現象や作品の持つ情報を受け入れ可能か否か」だけを受動的に判断していれば良いと思っているし、実際の所、それしかできないものだ。言ってしまえば、単なる受容者レセプタであり、単なる消費者コンシューマである。にもかかわらず、彼らは「多数である」という理由だけで、大手を振って「自分たちこそが基準である」とのたまう。彼らが「多数派」であることは、彼らの努力に由来するものではないのだが、彼らはそのを特権であると誤認している。そしてその誤謬ごびゅう者が「多数」であるがゆえに、それを訂正される機会が訪れることはまず、ない。


 ハルベルトの前や横を、学生たちがすり抜けていく。彼らはハルベルトに気付かない。気付くことのできない人々なのだ。ハルベルトにしてみれば、人間である。彼らはハルベルトらの言葉を聞くことができず、よしんば聞いたとしても理解することもできない。


「つまらない世界」


 ハルベルトは溜息交じりに呟く。もちろん、その声も目の前を行き交う誰の耳にも届かない。


 彼らのようなが、あの子たちを苦しめる。それは既定路線であり、確定事項だった。だからなおのこと、ハルベルトは歯痒く思っている。


 彼ら大衆は、大多数の者たちは、意識的にせよ無意識にせよ、それ以外の希少な人々に対して過大な要求をする。自分たちの「器」にぴったりとはまるものを創れと、彼らは常に要求し続ける。彼らの「器」の形など、彼ら自身にしか理解できぬのは自明なのだが、彼ら自身はそこに思い至ることは無い。漠然とした「皆」という概念の代表に、各々が勝手に自分自身を当てはめているに過ぎないことに、彼らは決して気が付かない。希少なる人々が彼らの「器」を理解する意味も見返りも提供せず、彼ら多数派は自分たちの要求を喚きたてるだけなのだ。「多数の総意」が即ち正義正道なのだと、声高に主張する。彼らがそれをして傲慢だと感じることはない。疑問に思う事すらない。


「この世界はそんな風にできているのだから、くさしてもしかたないのだろうけれど」


 ハルベルトは冷たい微笑を浮かべる。その表情は、少なからぬ残忍さを秘めている。


 知恵あるものは、無知なるものをただ認めるほかにない。膝をつき、こうべを垂れ、彼らの要求に応え続けるほかにない。無知なるものは、希少なる知恵ある人々を消費し、彼らの産み出したものにただひたすらに耽溺し、次から次へと要求を重ねていく。


 だが、彼らの、無知なるもの存在は無駄ではない。


 彼らのような有象無象が、個々のの隙間をみっしりと埋めている。彼らという間隙要素がなければは発生しない。彼らは宇宙の星々の間に漫然と横たわる空間のようなものだ。それがなければ星々は生まれもしなければ、あるべき軌道を手に入れることもできないのだ。つまり、圧倒的多数の単なる受容者たちは、の存在価値とは、そういうものなのだとも言える。


 そう、彼らなしには、集合的無意識というアスペクトは成立しない。圧倒的多数の雑多な情報、認識、そして意識というものが蓄積されて、初めて集合的無意識は形をす。彼らなしにはそういったビッグデータは成立しないし、そうなると――。


「あたしたちの起源だもの、敬意は払うわ」


 ハルベルトはいささか憮然とした様子で、そう応じる。


「さて」


 ハルベルトは優雅に腕を組み、宙を睨む。


「この舞台の、今回の配役は。一体誰がオーディンに該当あたるんでしょうね。……聞いてる?」


 ハルベルトは右の眉を跳ね上げる。そして暫く待った後、大袈裟にかぶりを振った。


「あたしはそうね、ファフナーってところで手を打つわ。そうよ、ファフナー。身を挺して、小鳥の言葉を教えてやるだなんて、あたしに相応ふさわしいメルヘンだと思わない?」


 からのいらえはない。だが、間違いなくハルベルトの言葉は届いている――ハルベルトはそう知っていた。


「ふふふ、好きにやらせてもらうわ」


 何かを聞いたのか。ハルベルトはまた、奈落の微笑みを浮かべた。


「それともあたしは、ロキの役目でも仰せつかるのかしら?」


 いや、それはさすがに傲慢か。


 ハルベルトは、ふふ、と哂う。


「あと何年もつのかしらね? は」


 揶揄するような物言い。だが、それは空間にただ消えて行く。


「ふふ、その時あたしは、一体どこに立っているのかしら」


 ハルベルトはそう言い残すと、忽然と姿を消した。姿を消したという事実すら、誰一人にも気付かれぬまま。



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