見えてしまった過去

 カティはそれからも辛抱強くヴェーラたちを待ち続けた。目を閉じ、ヘッドフォンで耳を塞ぎ、音楽を流して外部の音を完全にシャットアウトして、ヴェーラたちが話しかけてくるのを待った。


 目を閉じていると時間の経過が遅くなる気がする。だが、それから実際に経過した時間はわずかに二曲分だった。


 気配を感じたカティは億劫そうに瞼を開いた。すると目の前にヴェーラが座っていて、その傍らにレベッカが立っていた。


 カティはやや慌ててヘッドフォンを外し、教室の出入り口あたりで様子を窺っている女子たちをその鋭い視線で一舐めした。それだけで彼女らは黙ってその場から退散していく。ヴェーラに視線を戻すと、何故か酷く憂いに満ちた顔をしていた。目が合ったヴェーラは、少し微笑む。見た目の年齢に似合わない、重く謎めいた微笑だった。


「おまたせ」


 ヴェーラはそう言ったが、さっきまでの弾けるような元気さは、その中には感じられなかった。沈鬱な倦怠感のようなものがカティにダイレクトに伝わってくる。自分が何かしたのかと、カティは自分の行動をかえりみたりもする。


「違うよ、カティ。カティが悪いんじゃないよ」


 ヴェーラはまるで心の中を読んだかのように、そう言った。傍らのレベッカは、眼鏡越しに少し困ったような表情を浮かべていたが、何も言わなかった。


「じゃぁ、どうしてそんな」


 暗い表情をしている?


 カティは訊こうとしたが、何故か声が掠れて後半が言葉にならなかった。そもそも他人の領域に踏み込むことが得意な性分ではないのだから、これは仕方のないことなのかもしれなかった。


「あの」


 レベッカがおずおずと口を開く。が、それはヴェーラの上げた左手で制された。


「わたし、どうしてもカティとお話しなくちゃならない」

「うん?」


 カティは意味が分からず、ヴェーラをただ凝視する。ヴェーラは椅子に座り直すと、膝の上で両手を握りしめた。その上目遣いの蒼い瞳がカティを捉えて離さない。カティはまるで裸で二人の前にいるんじゃないのかと思うほど、羞恥心のような何かを感じていた。


「さっき、カティもすごく暗い顔、してたよね」

「……そうかもな」


 あんなことを思い出したわけだし。無理もない。


 カティは大きく息を吐いた。ヴェーラはレベッカの右手を左手で握りながら、「それで――」と震える声で言った。


「見えたの」

「見え……た?」


 カティは思わず唾を飲み込んだ。文字通りに心臓が跳ねたような、そんな感触を覚えた。


「見えた。見えたんだ。見えちゃったんだ」


 ヴェーラはそう繰り返した。そしてまたカティの紺色の目を覗き込み、訥々とつとつと呟くようにして尋ねてきた。


「ねぇ、あれはカティが見てきたこと? 見てきたもの?」

「ヴェーラ?」


 レベッカもその様子に困惑しているらしい。声を掛けたレベッカに、ヴェーラがどこかすさんだような微笑を浮かべた。


「ベッキーにも見えると思うよ。音楽聴いた時みたいに、わたしには見えた」

「え……」


 レベッカはカティの目をじっと見詰めた。カティは金縛りにでもあったかのように、身動きができなくなる。全身を鎖で縛られて、脳みそを直接ひっかきまわされているみたいな、不快感というか不安感のようなものがカティの中に生じてくる。カティの視界の中心には、レベッカの瞳があった。その新緑色の瞳は底が見えないほど深く、そう、言うなれば奈落のようだった。そうと気付いたカティは、胃の辺りに冷たく重たいものがのしかかっているような、そんな感触を覚える。


「なんだよ、それ……」


 心の中でも読まれているのだろうか?


 カティは全身の鳥肌を何とか取り繕おうと必死になる。そんな非科学的なことがあってたまるか、とは思うが、この子たちなら或いは――ヴェーラとレベッカは、そう思わせる何かを持っていた。


「ヴェーラ、これは」


 レベッカの声が掠れていた。


「これは触っちゃダメなものよ!」

「……ごめん」


 思わず大きな声を上げたレベッカに向けて、ヴェーラは頭を下げた。白金色の髪が、揺れてキラキラと輝いた。そしてカティに向かっても頭を下げる。


「ごめんね、カティ」

「えっと」


 カティは戸惑っていた。あの天真爛漫を地で行っているようなヴェーラが、今はこれ以上ないというくらいに深く澱んだ空気を纏っていたからだ。


というのが分からないが」


 カティは心拍を落ち着かせようと努めながら、何とか声を出した。


「そう、まだピンと来ていないんだが、その、見たくて見たわけじゃないんだろう?」

「うん」


 頷くヴェーラの大きな瞳から、唐突に大粒の涙がこぼれ出た。最初の一粒が流れ落ちたのを合図に、堰を切ったように溢れ出す。口元が小刻みに、肩が大きく不規則に揺れ動いていた。しゃくりあげながら、小さな手で頬をぬぐっている。険しい表情のレベッカがハンカチを手渡し、ヴェーラはそれを握りしめて泣きじゃくる。カティはこの状況の急変に戸惑うばかりだった。撫でてやろう、とは思うのに、少しも腕が動かない。


「ごめんね、カティ」

「……いいんだ」


 そうか。


 カティは深く息を吐いた。少しだけ楽になった気がした。


 もしかしたら、本当に見えたのかもしれない。アレが。


 十年前の自分の記憶。


 小さな漁村の光景。


 煤のように心の奥底にこびりついた、焼けるような空気と、悪臭。耳が聞こえなくなってしまうほどの、轟音。叫び。断末魔。


 薄暗くなった教室の中、号泣するヴェーラの向こうに、カティはその風景を再び呼び起こしていた。

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