単行本未収録作品
リストにナンバリングされていない単行本未収録作品。
ラストサマー
1990.10/早川書房「ミステリマガジン」収録
【評】うな
五十を越し、女流ミステリ作家としてそれなりの地位を築いた私は、ある日突然、失踪して蓼科の別荘に身を隠していた。その自身の姿に、アガサ・クリスティが三十六歳の時に起こした失踪事件を重ねるのだが、私はとうていクリスティのように華やかな作家ではなく――
ミステリマガジンの、アガサ・クリスティ生誕百周年記念号に載った作品。ゆえに、クリスティへのオマージュとなっている。
初老の非モテ作家が、うっかり歳下のイケメンと結婚してぐじぐじしてひきこもっている心象風景をぐだぐだと書いているだけ。なのだが、栗本薫が多大な影響を受けたというクリスティの『春にして君を離れ』を思わせる、自らの知性によって自らを分解していく姿が、なかなかに心に迫ってくる。やはりこのころの栗本薫は脂がのっているなあ。
オチも、一応ミステリ的なのがついているし、悪い作品ではない。ただ、二十年以上前の古雑誌を探してまで読む価値があるかというと、それはハッキリとないと思いますです、ハイ。
単行本未収録に終わったのは、栗本薫が早川でミステリ短編集を一冊も出していないからだろう。多少無理があっても『さらしなにっき』辺りに入れてしまえばよかったのに……。
クリスマス・イヴ
1993.05/徳間書店「現代の小説 1993」収録
【評】う
クリスマスイヴの夜、二十九になるあたしはなかなか来ない彼氏を待っている――
微妙な年齢の女がふられたのにごちゃごちゃ内心でいいわけしているのをただ描いているだけの、特に内容がないシチュエーションだけの作品。「そりゃこいつは捨てられるわ~」感がすごい。
ママの人形じゃない
95.11/早川書房「ミステリマガジン」臨時増刊 収録
【評】う
近所の家には、老婆と初老の女性が二人だけで住んでいるという家があり、だれとも話そうともせず、夜には変な声が聞こえ、気味が悪いという。そんな折、一人娘が近所で行方不明になり……
老女の心が子供のままって怖くね? というだけの話。展開もだらだらとした夫婦の会話をずっと続けていたかと思えば急に巻いた展開になってそのまま終わるので、いまいち。短編でページ数にかぎりがあるとはいえ、子供であり続けることを強要された怖さと悲しさ、というのものを、もっと真面目にあつかって欲しかった。
ちなみに新井素子の大作SF『チグリスとユーフラテス』では、その惑星最後の子供であったがために、老人になるまで子供であり続けなくてはならなかった女性が出てきて、うんざりするくらいみっちりと老女の乙女チックが描写されていて、とても怖く切なかった。なのでこちらをオススメ。
ミステリマガジンに掲載されたのは二作だが、どちらもハヤカワ・ミステリ文庫の海外物のような心理ミステリを狙っていたものと思われる。
タンゴ・ロマンティック
2003.08/マガジンマガジン
【評】う
二〇〇三年、雑誌『JUNE』が創刊二十五周年を迎えたときに特別付録としてついてきた栗本薫オンリーの小冊子に掲載されていたもの。
四十七歳の課長(♂)が同僚(♂)とはずみで寝てしまう、というもの。
まず主人公たちがどっちもおっさんにも見えなければ仕事をしているようにも見えない。そして初期設定からなにも話がすすまず、ずっと主人公が「おお、なんという」と云っているだけの話だった。とにかくこのストーリーのなさは罪。陳腐とかつまらないんじゃなくて、本当に「ない」んだもの。このストーリーのなさの前には「四十七歳のエリート課長」とかツッコミどころ満載の設定すら問題にならない。いいからストーリー作ってください。
セルロイド・ロマンス
2003.08/マガジンマガジン
【評】う
上記と同じ小冊子に掲載されていたホモ小説。
普段は女性を相手にしているAV男優がホモポルノに出演する顛末を描いた話。
「この作者はここ十年くらいのあいだにAV見たことないのかな」と云いたくなるほどに、というか確信できるほどにAV業界っぽさがまるでなく、やたらチンチンチンチンうるさい主人公含めて、とにかく萎える。
やたら「極悪」と云っている美少年AV男優がどう極悪なのか、エピソードがなにひとつなく「とにかく極悪」と短い文中に何回も繰り返されているさまは壊れかけのレディオとしか云いようがなく、きっとこの作品の楽しみ方がわからないのはぼくの体が昔より大人になったからなのだろう。
とにかくやはり「おおなんという。そしてちんちん」の繰り返しだけの作品で、ちんちんという言葉しか読後に残らないちんちん小説。ストーリーと呼ぶべきものが本当になく、こんなものは二ページあれば書けるだろうとげんなりした。
なお、この話はシリーズ化し、同人誌『浪漫之友』に続編が掲載された。
一生を六畳間で過ごした、障害者の弟が教えてくれたこと
2009.11/飛鳥新社『死ぬ作法 死ぬ技術』収録
<電子書籍> 無
【評】う
中島梓名義のエッセイ。雑誌『dankaiパンチ』に掲載された提言連載『死ぬ作法』の一編。
この提言連載は、要するに自死・尊厳死・安楽死などの、自分の意思でもって死を受け入れることを是とした文を集めたものだ。他の作家陣は、眼前に見てきた親族の苦しみや、自死を結構した諸作家を例に挙げて、自死という選択を提言している。
が、中島梓の項を見るに、どうもこの提言連載事態に眉唾な気持ちになってしまう。
というのも、もうぜんっぜん梓らしい文章ではないのである。
いや、書いている内容が梓らしからぬとまでは云わないが、文章には明らかに手が入りまくっている。無駄なだらだらとしたおしゃべりがなく、要点のみを書いているのだ。脇道にそれても、すぐに戻っている。たしかに『転移』でも見られたように、晩年の文章は落ち着いていたが、どう考えても度が過ぎている。
内容も九一年の乳癌手術の顛末からはじまり、〇七年のすい臓癌告知、それからの現在と、自身のいまを無駄なく普通に語っている。いたって尋常な闘病記の一幕だ。
そして最後に闘病中の苦しさに触れ、治る見込みがないなら管を外してくれとも云いたくなると述べ、そこから題にある障害者の弟の一生がなんであったのに触れ、やりたいことをやってきて直に死ぬ自分の一生は癌も含めて悪いものではなかったと思うと締めくくっている。本当にまっとうなよくまとまった文章だ。
無論、随所に梓らしさがあるのででっちあげられたものだとは思わないが、校正によっていささか恣意的に若死にを肯定する方向に編集された文章なのではないか、という気がしてならない。
……しかし普段さんざんぐだぐだした文章に文句を云っていくせに、いざまともな文章を読むと「こんなの中島梓じゃない!」などとぬかすとは、わいは一体どんな面倒くさい読者なのか……
1984年の虚構と真実
1985.06/ハヤカワ文庫『S-Fマガジン・セレクション 1984』収録
<電子書籍> 無
【評】うな
中島梓名義の評論。1984年を実際に迎えた当時、ジョージ・オーウェル『1984年』について論じたもの。複数の評論家が同様の題で論じた「〝1984年〟に考える」というシリーズの一作である。
中島梓の主な趣旨は『1984年』が未来予言の書ではないこと、ゆえに1984年を越えてもその文学としての意味は失われず、逆に増していくべきものであるが、このままでは翌年にはマスコミはすっかり過ぎたこととして忘れ去ってしまうのではないか、という危惧を語っている。
ディストピア小説とはアウトサイダーによる変革ではなくインサイダーによる告発でなければならず、またその革命は成功してしまったら次の文化への移行に過ぎなくなるため、構造的に敗北する物語でなくてはならない、という論がなかなか面白い。またオーウェルの絶望と、敗北にあってすら文学の力を信じているブラッドベリの『華氏451度』を楽観的と読んでいるのも印象的だ。
あまり長くはないが、それゆえに中島梓の評論としては手堅くまとまっている。
またこの「〝1984年〟に考える」というシリーズ自体が多数の評論家によりひとつの作品に対して異なる見解を寄せている興味深い企画なので、笠井潔や巽孝之などの高名なSF評論家と中島梓の論を比べてみるのも面白いだろう
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます