191 バサラ 3
1994.11/カドカワノベルズ
<電子書籍> 無
【評】うな
● 実在の人物との夢小説の末路
「お前の踊りには地獄だけがない」――弥勒丸の言葉にお国の心は揺れる。一方そのころ、バサラ踊りを見た蒲生氏郷の衰弱は激しく、正気を失いつつあった。氏郷を狂わせているのがバサラ衆との関わりであることを察したお国は弥勒丸をも敵に回すことを決意するが――。
最初の章では長々と前巻のおさらいが続き「薫ってば前巻から執筆が空いたときはいつもこうなんだよなー、自分用のおさらいはメモ用紙にして欲しいなー」という気持ちになり、続いてぼたんとのレズセックスが長々とはじまり、そのエロくなさ萌えなさにとてもげんなりする。前巻のレビューでぼたんを褒めといてなんだが、薫が気に入った脇キャラは贔屓しすぎて逆に魅力がなくなるという法則が常に発動するため、勝ち気でなにしでかすかわからないような直情型であったぼたんはお国様好き好き言い過ぎで鬱陶しいキモ重い女になっていてガッカリである。
続く章では名護屋山三郎が「蒲生氏郷がおかしくなってずっとセックスしまくってて尻が開きっぱなしで死にそうで辛い」ということを長台詞で延々と語り「相変わらず薫のキャラは肉体が辛くて死にそうなときにずっと長台詞しゃべるな~」という気持ちになる。しかしこの、普通の作家なら場面転換して地の文を交えて描くであろう長いシーンを、一人のキャラの長台詞で十ページも二十ページも続けて済ませるという、栗本薫特有の奇癖はなんなのだろうか。昔からそういうところはあったし、それが告白者にある種の凄みを生むこともありはしたが、だいたいの場合においては一人で一方的にしゃべってるから鬱陶しく読みづらく、まただらだらと説明されているせいでシーンに迫力が欠けることが多いんだが。書き手目線で考えても、この書き方だとやりづらくてしょうがないと思うんだがな……一応、梓へんへは「一人称のときは視点が変わってはいけない」という原則で書いているから一人称小説のときはまだわかるんだが、今作みたいな三人症小説でもやるからね……本当にわけがわからないよ……。まあ謎の奇癖だから謎でもしょうがないよね……。
と、本のなかばまでをげんなりとしながら読んできたものの、ここからストーリーが面白くなってくる。
豊臣秀頼は実は石田三成の子であること。秀吉後の天下獲りを望む三成は人物である蒲生氏郷を疎ましく思い若松へ遠ざけたこと。松永久秀の遺児が名を変えて生き延び、織田・豊臣への復讐を目論んでいること。バサラ衆の目的は世直しであること。弥勒丸はそのためとなにかの恨みのために蒲生氏郷を狙っていること。そのためにお国に近づいてきたこと――
様々な事実が判明し、謀略とトンデモ説が融合し、ようやく時代伝奇らしくなってきた。ヒロイック・ファンタジーだから時代考証とかでいじめないで、などと逃げずに、はじめからこの謀略の中で翻弄されるお国という図を押し出していけばよかったものを。たしかに文武に優れ、信長と秀吉に才を認められた氏郷のわずか40歳での早すぎる死は毒殺説もあり、もし生きていれば家康に次ぐ第三勢力に成り得たかもしれないことを考えると、面白いポジションの大名なのだ。
男らしいということになっているメス丸出しのお国の物思いにほとんど一巻使うようなことをせず、こうした秀吉政権末期の危うさを押し出していれば、ずっと面白く時代伝奇ファンも食いついただろうに……。
しかし、近年「みっちゃんは不器用で誤解されやすいだけで根はいい人」キャンペーンが長く続いており、自分もそういうイメージがすっかり定着していたけど、そういえば昔は石田三成といえば陰険悪役ポジションキャラでしたね。すっかり忘れていたぜ……。
さておき、バサラ衆の世直しとはどのようなものなのか。なぜ蒲生氏郷はバサラという言葉に怯え、正気を失ったのか。弥勒丸の氏郷への恨みとはなんなのか。お国が数年前に抱いた高貴な女性の正体とは。お国は弥勒丸の子を産むのか。お国の求める踊りの行き着く先は。
予定では第一部の出雲のお国編は次の四巻で終了である。この複雑な事情がどのように一つの流れとなり、あと一冊でどのようなクライマックスが訪れ、そしてどのように第二部天草四郎編へとつながっていくのか。ようやく期待できる状態になり、いざ次巻へ――!
はい、中絶。
ざっけんなよ! 売れなかったのは知ってるよ! 現代編までやれるなんて一巻読んだ時点で無理だって当時から察してたよ! でもお国編はあと一冊じゃねえかよ! せめてそこまでやれよ! あと一冊じゃねえかよ! なんぼ売れてないといってもまかすこの実績あるんだからあと一冊くらいは角川だって出させてくれたはずだろ! ここ数年の最大の自信作なんじゃねえのかよ! 諦めんなよ! もっと熱くなれよ!
まあ、売れなかったとか、角川ノベルス自体に元気がなかったとか、角川春樹事務所が動き出して春樹お気に入りだった作家たちは微妙なポジションになったとか、いろいろあるんだろうけど、薫はこの後、バサラに関しては続きを書くどころか「そんなものありましたっけ」レベルで言及しなくなっている。
これは邪推になってしまうのだが、最大の理由は後藤宏行と喧嘩別れでもしたのだろう。
90年辺りから五年近く激推ししていた後藤宏行に対して、薫は95年あたりからぱったりと口にしなくなってしまう。95年に上演された『グイン・サーガ 炎の群像』ではイシュトヴァーンは別の役者が演じ、以後、中島梓の舞台に後藤宏行は出演していない。95年に出されて同人誌でも後藤宏行のために脚本を書いた『マグノリアの海賊』に対して再演はないだろうと書き、あの舞台に関しては作品の出来とは別に苦々しく思っていることを何度も口にしている。誰とは名指ししていないが役者に不義理をされた、陰口を叩かれた、出入り禁止にした、ということも書いており、一時期の熱の上げ方とその後の距離の置き方を考えると、その中に後藤宏行がいた可能性は高い。
一巻のレビューにも書いた通り、この『バサラ』という作品は後藤宏行主演の舞台として考案されたものであり、その後藤と疎遠になってしまったのなら、もう書く理由がない、むしろ喧嘩別れした相手のことを思い出したくないから書きたくない、という感じだったのではないだろうか。
そしてこれこそ本当に邪推になってしまうが、九十年代前半に限定し、ホモ小説ではなく、『マグノリアの海賊』、『好色屋西鶴』、『野望の夏』、『パサラ』、『グランドクロスベイビー』などの男女のオープンエロな作品を書いていたことと、その時期が後藤宏行との蜜月であったことは無関係ではないと思う。やたらと年増が若く暴力的な野心家との激しいセックスに巻き込まれる話が多いことに、どう見ても特定の年下の男に薫のメスがうずいて仕方なくて夢小説を書いてしまっているようにしか見えないのだ。
そしてどういう経緯かは知らないが、後藤宏行と疎遠になったからパタリと男女エロも書かなくなった。道場主は小説には作者がどうしたって出ると云っていたが、薫は本当にダダ漏れである。
まあ、喧嘩別れすることになるとは思わなくて、思わず取り返しのつかないことをしてしまうということはわりとよくあることだ。恋人の名前を入れ墨に入れたりするのと同じだ。デビュー時に当時の旦那に関連するペンネームにしてしまって、別れて二十年も経ってからペンネームを変えた獸木野生(旧名:伸たまき)のような漫画家もいる。惚れ込んでいた役者のために書いていた小説を投げだす作家がいても、いいではないか。
……いや、よくねえよ。せめてあと一冊書けよ、あと一冊。読者をなんだと思ってるんだ。本を出版するのを止めることは出来ても何人も私から書くことを止めることはできないじゃねえよ。ちゃんと後始末しろよ。ぼく、薫のこういう部分は本当にどうかと思うの。本当の本当にどうかと思うの。
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