一騒動あったせいですっかり忘れそうになっていたけど、そういえば本を借りに来たんだった。今日はもう決まっている。昨日読み終えたこの恋愛小説の作家さんの最新作。背表紙を指でなぞりながら、お目当てのタイトルでピタリと止めた。すぐに読み始めたい衝動を抑えて貸出カウンターに向かう。今日のカウンター当番は一年生だったような気がするんだけど、そこにはいつもの昼休みと同じで委員長が座っている。

「また交代ですか」

「うん、そろそろ体育会系は試合や大会で忙しい時期だから」

 確かに二、三人しかやってこないこのカウンターで大切な放課後を過ごすくらいなら思い切り汗を流したいという気持ちもわからなくはない。僕の場合は圧倒的にこうして本を読むほうがいいんだけど。

「委員長っていつも新書ですよね。面白いんですか? 僕は眠くなっちゃうからダメなんですけど」

 子供みたいだね、と委員長が笑う。ちょっと言い返したくなったけど、とっても嬉しそうに笑うから頬を膨らませてぐっと堪えた。その顔が可愛いとまた笑われる。

「本を読むと一つ賢くなれるでしょう? 私はそれが好きなの。だから普段から新書とか実用書を読むほうが好きかな。小説なら時代物とか」

「僕は現代物かファンタジーばっかりですね」

 委員長はそう言うけど、断言してもいい。本を読んでいるからといって賢くはならない。だって実際の僕がそうだもの。

 読むジャンルが偏っているし、たとえその中に知識が散りばめられていようとも波乱のストーリーに飲み込まれるように僕の頭からは消え去ってしまう。国語の成績だけはいいからきっと読解力にはなっているのだろうけど、たくさん入ってくる知識が定着するかどうかはその人次第なのだ。

 ちょっぴり寂しい気持ちになりながら委員長からハードカバーの小説が手渡される。貸出手続きは終わったみたいだ。

「ちゃんと勉強もしなきゃダメだよ。三年生になってからだと大変なんだから」

「ぜ、善処します」

 イメージを守るためなのか、それとも元からなのか。やっぱり委員長は成績優秀らしいと聞いた。今日は先に宿題と予習を済ませてから読み始めよう。そうしよう。

 自分に言い聞かせるように何度も頭の中で呟いて、僕は足取り重く図書室を出たのだ。

 明日の予習をどうにか終わらせて、入れ替えるように取り出した小説とともにベッドに飛び込む。甘い蜜月とは程遠いけど、僕にとっては睡眠とこのリラックスした読書がベッドでの至福の時なのだ。

 柔らかいマットレスの抵抗を全身に受け、さぁ、と表紙をめくったその時、現実に引き戻すように携帯電話が震えた。部屋にいようとマナーモードのままの僕の携帯は堅い木製の机を一生懸命に叩いて、小さな体に不釣合いの音でがなっている。

「こんな時間に誰だろ?」

 鳴り止まないバイブ音がメールや勧誘の類ではないことを告げている。夕飯前に急にかかって来る電話に心当たりはなかった。僕はせっかくの幸せな時間を邪魔する相手を恨みながら、画面も見ないで耳に当てる。

「七海、今は家にいる?」

 声でわかった、なずなだ。いつもよりずいぶんと殊勝な声で違和感はあるけれど。

「いるよ。ご飯はまだだけど」

「そう。じゃあすぐに行くわ。長くかかる用でもないし」

 用件だけ伝えると、一方的に電話が切れてしまう。彼女らしいと言えば彼女らしかった。

 幼馴染とは言っても、どこかの漫画よろしく家が隣で窓から直接入ってきたりはしない。なずなの家は僕の家から五軒先。それでも歩いてすぐの場所だ。陸上部に所属する彼女なら他愛もない距離なんだと思う。

 しばらくして階段をリズムよく叩く音が聞こえる。いつもならバタバタと駆け上がるはずがちょっと様子がおかしい。放課後のことで何かあるのかな?

 ノックもなしに扉が開くと、そこには制服姿のままのなずなが立っていた。部活の後でもジャージでは絶対帰らないなずなのポリシーは今日も守られているらしく、一見するととても運動部には見えないだろう。彼女自身もそういう運動バカに見られるのが嫌だからってそうしているらしいけど。

「ごめん、急に電話して。迷惑だった?」

「そんなことないよ。ちょうど予習も終わったし」

「思い出させないでよ、私はこれからなのに」

 珍しい、とわざとらしく驚いた振りをしてから、部活帰りで疲れたらしく僕のベッドの端に座る。白いシーツと小麦色になったなずなの肌のコントラストが妙に似合っていて、どこかの芸術品みたいだ。

 なずなは自分の手元に転がった小説を見つけて、ちょっと物悲しそうにこちらを見た。

「もしかして、これ読み始めるところだった?」

「え? うん、まぁね。でもまだ一行も読んでないから」

「そっか」

 何かを言いたい、でも言えない。なずなが考えていることはなんとなくはわかるんだけど、今回というか夏休みが明けてからどこか読み取れないものがある。全部わかる訳はないんだけど、長年連れ添った幼馴染としてはなんだか悔しい。

「そういえばさ、今日の図書部って何なの?」

 言い渋る彼女に僕は持っていた疑問を投げかけてみる。

「え? だから図書室を活性化させる……」

「それは聞いた。っていうかよく部活になったね。部員とか集まったの?」

「たくさんいるわよ、八〇人くらいになったかな? 活動場所は図書室、って言ったら山のように入ったわ」

 もう大半の生徒の入部動機がわかるなぁ。さらに図書室で公然と騒げるようになるとなれば一石二鳥というものだろうし。

「それで、なずなの本当の目的は? 急に本が好きになったってわけでもないんでしょ?」

 言ってくれるわね、と目で訴えているけど、否定できなかったらしくすぐに目を伏せる。そしてもう一度僕を見据えた視線は、逃げるのをやめて決意を固めているようだった。

「あ、のね。好きに、なっちゃったの」

 なずなの震える手が僕のよれよれのTシャツの裾を掴む。こちらを見る目は涙に揺れていて、僕をドキリとさせた。

「えっと、それはつまり図書室によくいる人に、ってことかな?」

 一瞬、僕に言っているのかと錯覚してしまった。あんな乙女のようななずななんて絶対に似合わないと思っていたのに。実際はやっぱり女の子なんだと痛感させられる。

「そ、そう。そうなの」

 歯切れの悪い答えが返ってくる。

「でも、図書室によくいる人なんて、僕以外だと委員長くらいなんだけど……」

 ほぼ毎日通っている僕だけど、心当たりはそのくらいだ。よく借りに来る人はいるんだけど、わざわざ放課後の図書室で読書に勤しむなんて滅多に見られない光景だ。

「え? そ、そうよ。あの図書委員長さん」

「でも委員長って女の子なんだけど……」

 今日言い合ったあの委員長のことをなずなが忘れているとも思えない。

 わなわなと僕の服の裾を掴んだままの手が震えている。次の瞬間には堰を切ったように流れ出た言葉が僕の耳に流れ込んだ。

「そ、そうだけど。別にいいでしょ、相手が誰だって七海には関係ないんだから。アンタと違って背が高くて、クールでかっこいいんだから。悔しかったらアンタもあんな風になってみなさいよ、無理だと思うけど。じゃあね、私帰る。明日から私とあの人がうまくいくように協力しなさいよ!」

 何が逆鱗に触れたのか、僕にはよくわからなかった。いつもの調子でまくしたてた彼女はそのまま床を踏み鳴らして急ぎ足で帰ってしまった。僕の家から出て行ったのがわかるくらいの大きな音だった。

 最近、なずなのことがわからなくなっていると思う。ずっと一番近くで見てきたはずなのに、誰よりも仲良くしていると思っているのに。なずなの口から出た言葉の意味よりも、僕は自分の不甲斐なさに衝撃を受けていた。

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