剣聖の記憶 〜一億ポンドの約束〜 11
太祖の左腕から突き出された棒が悟の右耳をかすめたとき、割って入ったシャオイェンを挟んだ両者は二歩分も離れていなかったであろうか。達人同士の間合いの近接は洞窟内の冷気すら沸騰しそうな熱い風を生む。すでに到達したトップスピードの領域に高地の気圧が揺れる。獰猛な闘争本能は周囲の酸素すべてを喰らい尽くし燃焼する。これらの現象が戦いの過程にある二次産物なのだとしたら、彼らはただ欲望に従って生きてきた人間の基本的な在り方を肉体で表現しているだけなのかもしれない。たとえそれが、勝利や大義を名目とした殺し合いだったとしても……
ギリギリのタイミングで回避した悟はシャオイェンの細い腰を抱くと、脚に気を集中させ、そのまま前方に跳躍した。彼女を抱えたまま太祖の頭上を飛び越える格好だ。
「剣聖ッ!」
太祖が振り返りざま上方に繰り出した棒は、天駆ける剣聖の腕に抱かれたシャオイェンが身に纏う薄衣の腰横を通過した。見事かわした悟は入り口上部あたりの壁を蹴り、跳躍の方向を変えた。三角跳びである。
地上の太祖が攻撃を継続しようとした瞬間、その目前を遮るように白い影が踊った。シャオイェンの薄衣だ。太祖の棒がそれを貫いたとき、悟は寝台のそばに着地していた。
「女の服を盾にするとは、さすが剣聖だ」
シャオイェンの芳しい体臭を漂わせながら残骸となった薄衣の布片が舞い散る中、太祖は皮肉を言った。
「女の身体を盾にする教祖様に言われたかねェな」
悟は、ほそい白蛇のような裸を晒し意識を失っているシャオイェンを寝台に寝かせた。薬物漬けにされたこの娘は太祖に心身忠誠を誓うよう暗示をかけられているのだろう。だから両者の戦いに割って入った。シャオイェンが立っていた入り口付近を意識した太祖の防戦時の立ち回りは彼女を盾とするためだった、ということだ。
「剣聖は女を斬れぬ、という噂は本当らしいな」
と、太祖。悟が剣を止めていなければ、勝負はついていたかもしれない。そういうところは甘い男である。
「半分は間違いだ。“いい女を斬れない”、のさ」
悟は眠っている裸のシャオイェンを見た。美しいが幼くあどけない寝姿を晒す彼女の白く華奢な左肩は出血している。さきほど悟を狙った太祖の棒が肩上を通過したとき、その風圧で切れたのだ。通常人の肉体は異能者がもたらす物理力に耐えられるものではない。
「また、この子を盾にされたらたまらないんでね」
それが、悟がシャオイェンを抱いて飛んだ理由のようだ。もっとも、本音か否かはわからない。
太祖の棒に弾き飛ばされたオーバーテイクは悟の右手七メートルほどの位置にあった。気の供給を絶たれているため、光刃を収めた一本の黒い筒状の機械となり地面に転がっている。一方、悟に弾き飛ばされた太祖の長剣は入り口のそばに落ちていた。太祖から見れば後方だ。
「決着のときである」
太祖は左手に持っていた棒の端を右手で引っ張った。すると驚くべきことに中から刃があらわれた。なんとこちらも“仕込剣”だったのだ。スーツの中に三本の武器を隠し持っていた、ということだ。
「らしいな……」
対する悟は素手である。状況としては不利だ。
「剣聖よ……名声を得、命賭す必要もないであろう今、お前はなぜ、剣を持つ?」
太祖は鞘となった棒を捨て、右手に剣を構えた。
「小難しい理由はねぇよ。俺がここに来たわけは、チェルシーと交わした“一億ポンドの約束”さ」
そう。ロンドンにいる、もう長くは生きられない少女との……
「違うな、お前の目は私と同質のものだ。戦いの中にある、血が沸きたつような高揚感の中でしか生きられない男だ。死線をくぐることでしか、自己の存在価値を見いだせぬ男だ」
否定する太祖の人間評は世間一般のものでもある。剣聖スピーディア・リズナーは本質的に好戦的である、とよく言われる。彼が本能的に戦いを呼び込むのだ、とも……
「なら、“同類”のあんたも宗教活動なんざやめて、広い世間に出てみたらどうだ?」
悟が笑ったとき、太祖もまた笑った。死生のはざまに立つ両雄は、互いを理解しあい、そして否定する。これからやり取りするのは言葉ではなく命……明白なことである。
同時に、動いた……いや、剣を持っており武装上のアドバンテージをとる太祖のほうが小数点未満のタイミングで早かったかもしれない。だが、武器を持たぬ悟は大胆にも正面決戦を挑んだ。駆ける両者間にあった距離が急速に縮まる様は磁石にも似ていた。立場上、異極にある互いが、互いを必要とする。戦い、という魅惑の磁場の中で……
横に薙ぎ払われた剣を低い体勢でかわした悟の掌打が太祖の水月をとらえた。このとき気を右手に集中させていたため凄まじい威力となった。喰らった太祖が吹き飛び壁に激突したとき、一瞬、洞窟内が震動するほどであった。
「徒手空拳も使いこなすとは、いい腕だ……」
口から流れる血反吐を手の甲でぬぐいながら立ち上がる太祖。その目に光る闘気は、まだ失われてはいない。
「あんたもな……」
後方に飛びオーバーテイクを拾った悟の左頬が切れ、美しい顔にひとすじの血が滲んでいた。掌打で吹き飛ばされる直前、太祖も意地の一刀を決めたのだった。今、ふたりの距離は約十メートル。
だが、その間合いは瞬刻の光陰のうちに再度、急接近した。嗚呼……この二人、異極ではなく血を求め合う“同極”なのか? 敵の流血のみを生きのびる手段とする両雄に必要なのは言葉ではなく相手の命ひとつ……戦士としての技と餓狼としての牙を、より鋭くあわせもったほうが勝つ。
太祖の剣が真っ向上段から振りおろされた。その斬音、暗黒の淵より来たる鬼の咆哮にも似る。
悟が右手に持つオーバーテイクが紅く発熱した。チェルシーとの約束の刃、冷寒の洞窟を燃やす日輪の軌道を描く。
二本の斬撃はまさに必殺の重さだった。そして激突の果てに背中合わせとなった悟と太祖。両者、勝負の行方を知ったか追撃の姿勢はない。振り返ることなく数秒の時をおくった。
悟の左肩から血飛沫があがった。太祖の剣は、そこをとらえていた。
「さすが、剣聖だ……」
そして斬られた胴からおびただしい血煙をあげ、太祖は倒れた。地面に転がった彼の長剣が鐘に似た硬い音をたて、剣戟の閉幕を告げた。
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