四番目の絵柄 〜未亡人懺悔〜 10


「一条さん、私ちょっと出かけて来ますわね」


 午前十時ごろ、ラフな格好の緑が言った。青いパーカーの下は、スリムなテーパードシルエットの黒いパンツだった。


「どうぞどうぞ」


 と、悟は起き抜けの目をこすりながら答えた。今、目を覚ましたところである。顔でも洗おうか、と客間を出たら廊下に彼女がいた。


「大きな荷物だな」


 悟は緑が肩にかけているトートバッグを見た。


「お友達と食事に行ってきます。帰りにジムに寄ってきますので……」


 そういえば、体型維持のためジム通いをしている、と彼女は言っていた。ゆうべ帰ってきたのは深夜だったが、愛人の長原と会っていたのだろう。


「ゆうべは遅くなってごめんなさい。先に寝ていてくださってよかったのに」


「大丈夫、大丈夫。留守番も仕事さ」


 悟は、やや寝癖のついた髪を手で整えながら


「ところで、俺もちょっと出かけるから待っててくれない? すぐ準備するから」


 と訊いた。普段着で寝ていたので、顔を洗って歯を磨けば準備完了である。


「ああ、それなら合鍵、お貸ししますわ」


「いいの?」


 昨日会ったばかりだが、どうにも緑からは信頼されているようだ。


「でも、依頼人の立場としては家を空けられると不安だわ」


 その目が、ほんの少しだけ責めていた。彼女の依頼とは、この家に出るという幽霊退治だった。


「悪りィ、実は“他の仕事”もかけもちしてるんだよ。貧乏稼業でさ」


 悟は申し訳なさそうにした。


「私、夕方には帰ると思いますの。それまでに帰ってきてくだされば……」


「わかったわかった、ひとりにはしないよ。あ、ところでさ……」


 悟はさらに恐縮して……


「傘、貸してくれないかな? 午後から雨マーク出てるんだよね」


 と、訊いた。両手を合わせて……


「ええ、玄関のもの、持っていってください」


「ありがとう。ついでにさ、客間の漫画、何冊か借りてっていい? 時間つぶし用にしたいんだけど」


「主人が描いた漫画を?」


「んー、そうそう。“旦那さんの漫画”」


 と、そこは強調した。


「おもしろい人ね……」


 悟があまりにも低姿勢だから、だろうか? 緑は吹き出した。


「いいですわ。でも、約束は守ってくださいね」


 夕方には帰ってこい、という意味か? 笑いながら彼女は小指を差し出してきた。元主婦にしては荒れておらず洗練された手をしている。


「了解! 指切りげんまん」


 悟は緑の小指に自分の小指を絡めた。すると……


「ねぇ……」


 と彼女は、しずかに頬を寄せてきた。


「一条さん、あなたって優男でハンサムだけど、なぜか危険な匂いがするのよね。どうしてかしら?」


 大柄な緑との間に身長差はさほどない。彼女は悟の肩に顎をのせるようにしてきた。


「あなたほどじゃないさ」


 長い髪から流れる芳香を吸いながら、悟は緑の耳もとでささやいた。彼女がかぎとった匂いとは、血の匂いなのかもしれない。世界を股にかけた異能業界のスーパースター、剣聖スピーディア・リズナーは、かつて多くの敵を斬り捨て、名声を得てきた。屍の上にこそ、己の存在理由はあったのだ。


「私が、危険?」


「ああ、男から見れば危ない魅力があるのさ、あなたには」


「褒めてる?」


「客観的な評価さ。男目線での」


「素直に喜ぼうかしら……」


 いつの間にか緑の手は悟の背中にあった。何人もの男をとろけさせたであろう未亡人の体温が彼女の豊満な身体から伝わってくる。


「年上はどう?」


「悪くないね」


「お上手ね、そんな気ないくせに」


「昨日の長原って男に遠慮してるのさ」


 悟が言うと、緑は身体を離した。とうにほどかれていた小指に代わり、ふたりの視線が絡みあう。


「解決しそう?」


「幽霊の件?」


「ええ……」


「手がかりがなきゃあな。思い当たるフシはないのかい?」


「ううん……“主人の幽霊”かしら?」


「そう思うのか?」


「不貞をはたらいた私を恨んでいるのなら、化けて出てもおかしくはないわね」


「もしそうならば、剣をとるさ」


「本当?」


「ああ……」


「あなたは私を、汚い女だと蔑まないの?」


「綺麗な女だと称賛するさ」


「まァ……!」


 緑は少し頬を赤らめた。世間ではアラフォーなどと呼ばれる年頃で、重ねた経験と男遍歴がもたらす色気を持つが、今のは乙女の反応だった。これがもし演技ならば、やはり女とは怖い生き物だ。






 予報どおり、昼すぎから鹿児島は雨に見舞われた。風はさほどなく雷の音もしないが雨足は強い。遙か彼方まで続く暗い空は、分厚い雲のすきまから錫の色をした光を放射しているが、それが地上に届かぬ午後だった。ゆきかう車たちは暗い昼の道路を照らすためヘッドライトをつけている。どの建物からも灯りが漏れている。そして外を歩く皆が傘をさしている。十四時をまわったばかりでありながら夕方のように暗い。空は四時間程度を前倒すほどに、これから起こるであろう灰色の不吉を演出したがっているのかもしれない。


 ななじまは鹿児島市南部、海沿いにある。埋め立てられる以前に七つの島があったことをその名の由来とする。かつては海水浴客も多く訪れたというが、今そのころの面影は見えない。延々と続く人工の硬い大地は、このあたりの様相を大きく変え、現在となっては工業地の側面が強くなった。食料品の工場などもある。


 表側にある広い県道は産業道路と呼ばれる。市南部を縦断する交通の要所で、天候に関わらず交通量が多い。今もタイヤで泥をはね飛ばしながら無数の車が行き来する。北へ走れば市の中心部へ、南へ走れば指宿いぶすき方面へとたどり着く。近年は埋め立て地の反対側に大きな商業施設がたち、ドライブの途中で食事や買い物をすることに困らなくなった。


 悟が立っているのは産業道路から東へと曲がって、数百メートルほど進んだ場所だ。このあたりも埋め立て地で、もう少し行けば海である。南の空に巨大なガントリークレーンが見えるが、稼働している様子ではない。天気が悪いから、だろうか? 車も通らない。それもまた、不吉を予感させる。


 藤代真知子から借りているコンパクトカーを道路脇に停め、雨の中、女物の赤い傘をさして立つ悟の姿は端麗なものである。身をもって雨中の美を表現する彼は、かつて世界的スーパースターだったが、一部では“偶然の剣聖”とも呼ばれていた。理由は様々だが、どちらの評価も外見をその基底としていたようだ。“しょせん顔だけ”という酷評は常についてまわった。ある犯罪組織から追われる身となり、死を装って生まれ故郷の鹿児島に帰ってきたのは八月のことだった。もはや伝説となりつつある剣聖スピーディア・リズナーはもういない。今は一介のフリーランス異能者にすぎない。


 湿気った空気を切り裂くようにして、向こうから一台の車がやってきた。シルバーの国産スポーツカーである。流線型の車体が履いている太いタイヤは水しぶきをあげながら、やや離れたところに停まった。積んでいるエンジンは四リッタークラスだろうか? 音が大きい。雨の中でもよく聴こえる。


 ヘッドライトが消え、運転席の扉が開いた。長身の若い男が傘をさしながら出てきた。雨の中、こちらへと歩いてくる。


「なんの用です?」


 会話ができる距離で立ちどまり、男は訊いてきた。昨日会った緑の愛人、漫画家の長原将生である。かつて姿鬼八のアシスタントだったが、今は『未亡人懺悔』の作者だ。


「あんたに“確認”したいことがあってね」


 と、悟。事件の真相に近づくため、長原を呼び出したのだ。


「確認?」


 首を傾げる長原の顔はニヤついている。特に緊張した風ではない。


「ああ、確認だ……」


 悟が微笑したとき、一瞬だけ強風が吹いた。これからおこる嵐を予告するため、大気が荒々しく変質したのか?


「長原さん、あんたが緑の亭主、姿鬼八なんだろ?」


 悟は言った。



 



 

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