ストレンジ・トライアングル(人)


「八重子、あの男の“妻”になる気はないかね?」


 隆信のその言葉は、あまりにも唐突だった。


「あの男とは……一条さんの?」


 意味を理解するのに時間がかかってしまった八重子。“悟と結婚する気はないか”と、隆信は言っているのである。


「じょ……冗談じゃありませんわ。誰が、あんな人と……!」


 普段は低い声がうわずってしまった。本気なのだろうか?


「なにか、不都合があるかね?」


「不都合もなにも、あの男は……」


 言いかけて、八重子は黙った。一条悟という男が自分にしてきたことを話すのは恥ずかしすぎた。彼の家を訪れた初日に黒いパンティ一枚で汗ばんだ腋を拭いているところを見られた。退魔士、銭溜万蔵の悪事をあばくため、セクキャバ嬢の真似事までさせられた。


「と、とにかく……あの人は家中散らかし放題のいい加減な人ですわ!」


 と、八重子。


「嫌いなのかね?」


 とは、隆信。


「そ、それは……」


 返答につまってしまった。悟のことが嫌い、というわけではないのだが、好きかと訊かれればどうか?


 嫌いなのはむしろ異能業界の世界的スーパースター、剣聖スピーディア・リズナーとしての悟なのだ。自分にとって最高の異能者とは出奔した兄の誠である。愛刀オーバーテイクを手に世界を股にかけ人外の存在を倒すたび、異能犯罪者を斬るたび話題になる剣聖などチャラ男にしか思えなかった。本人と出会うまでは……


「あの男は高島家の婿に最適ではないか」


 隆信の言うとおりだ。異能者同士を結婚させることで強い気質を持つ子を生み続け、繁栄してきたのが名門家である。高島家も例外ではない。悟ならば実力的に申し分ない。


 顔には出さなかったが、八重子が不満に思った理由がもうひとつある。この四年間、添い寝をさせてきた自分に対し、いきなり結婚しろ、とはあんまりではないか。交合こそなかったが、乳房を吸われ、股間に手を入れられることもしばしばだ。


 はじめて隆信と出会った十代のころの初々しさがなくなったからだろうか? 外見は大人っぽく変わったかもしれないが、それでも自分は美貌を保っている。最近は慣れて落ち着いたものだが、昔は恥ずかしさのあまり泣いてしまったこともあったのだ。


「私は、まだ結婚など考える年ではありません……」


 八重子は言った。


「そうか……なら、よいのだ」


 隆信は手を差し出してきた。八重子は不満に感じつつも、それを握った。


「明日……いや、今日は仕事か?」


「いいえ、休みです」


 かつて武器職人だったという隆信の手は、それらしく節くれだっているが、年のわりに染みも少なく感触はむしろ繊細だ。


「今夜は、ここにいなさい」


 と、隆信。老いても、その声には野心家だったころの強制力がある。


「会長が、そうおっしゃるのなら……」


 とは、八重子。拒否することなどできない。


 隆信にバスローブの帯をほどかれた。前が開き、深夜の空気に美肌が晒された。股間が露出してしまっても隠すことはない。見られることにも、触れられることにも慣れてしまったのだ。


 はだけたバスローブのまま、八重子は布団に入り、隆信の体に覆いかぶさった。


「八重子、おまえは母に似ているのだ……」


 それは、これまでに何度か聞かされた話だ。


「職人だった私の父は厳しかった。言うとおりに出来ないと殴られ、蔵に閉じ込められた。夜遅く、母がこっそりと届けてくれた握り飯で飢えをしのいだものだ」


 何十年も前の回想をするとき、決まって隆信の手は八重子の背中にあった。その温度とともに当時の光景を想像するのが聞き手としての彼女の条件反射となっていた。


 “薩摩の怪物”などと恐れられるこの老人だが、心の奥底にはデリケートな部分もあるに違いない。のし上がる過程で周囲に数重の虚勢をはる必要があったのだろう。才能と統率力、カリスマ性を強固に支えてきた精神力は並大抵のものではあるまい。年齢とともに弱くなった側面があるのなら、それを修復する存在というのがいてもいいのではないか? “添い寝”という、体同士のつながりにすぎないものであっても……


「会長……」


 八重子は隆信の胸でこう言った。


「兄を失った私が生きていられるのは会長のおかげなのです。まだしばらくは、このままでいさせてください……」






 微風も涼しい朝、隆信邸を出た八重子は愛車のオフロードを駆って鹿児島市 武岡たけおかにある二十四時間営業のスーパーの駐車場に入った。帰宅の途中、買い物をしようか、と立ち寄ったのである。


 サングラスを外してエンジンを切り、運転席のドアを開けた彼女の格好は修道服ではなく私服だった。最近、流行しているデニムのワイドパンツはくるぶしよりやや上ほどの丈で、その下は洒落たブラウンカラーのスリッポンだ。チェックの長袖シャツは黒。非番の日にシスターの格好などしない。


 駐車場内でたむろしている三、四人の若い男の集団がこちらを見ている。その中のひとりが口笛をふいた。私を見てのことかしら? と、すこし意識しながら歩きはじめた。


 “今日はなにをして過ごそうかしら?”


 さっきからいろいろと考えていたが特に思い浮かばなかったので家にいることにした。撮りだめしてある映画やドラマがあった。それを消化していれば一日過ぎるだろう。その前に買い物をすませておくことにしたのだ。


 そのとき着信音がした。バッグからスマートフォンを取り出し、耳に当てた。


 ────やぁ〜え〜こぉ〜


 今にも消え入りそうな声……一条悟ではないか。


「どうしたのですか?」


 八重子は訊いてみた。


 ────腹へったぁ〜………メシを作りに来てくれぇ……


「冷蔵庫に食材が入っているはずですわ」


 すこし悪戯心を出してみた。内心で舌を出す。ものぐさなあの男に作れるはずがない。


 ────ダメだ……力が……力が入らねぇ……


「私の料理は口に合わないのではなかったかしら?」


 ────前言撤回します。八重子さんの作るメシ最高です


「二本足があるのですから外に食べに出ればよいのではなくて?」


 ────ダメだ……腹に力が……力が入らねぇ……


 通話がそこで途切れた。八重子の美しい口元から苦笑とため息が漏れた。






 十数分後、たくさんの食材が入った買い物袋をさげた八重子がスーパーから出てきた。オフロードに乗り込み、エンジンをかけた彼女はギアをドライブに入れた。


「まったく……どうしようもない男……」


 走り出した瞬間、ついつい、ひとりごとが出た。爽やかな秋空から降りそそぐ朝の陽光がフロントガラスを透過する。その眩しさに切れ長の目を細めた八重子は信号待ちの最中、サングラスをかけた。


「でも、飢え死にさせるわけにはいかないわね。会長から身辺の世話を仰せつかっているのだから……」


 シグナルが青に変わった。八重子がステアリングをきったのは悟の家の方角だった。






『ストレンジ・トライアングル』完。


 次回『わたしを殺して……! 〜愛と哀しみのオーバーテイク〜』につづく……






 


 

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