ストレンジ・トライアングル(地)

 退魔連合会鹿児島支部伊集院北出張所の退魔士、高島八重子が藤代隆信邸のインターホンを鳴らしたのは夜九時過ぎのことだった。愛車のオフロードは隣接している月極駐車場に停めてある。


「八重子様、突然お呼びだてして申し訳ありません」


 そう言って出迎えたのは家政婦の取手さわ子だ。黒い修道服姿の八重子は首を振ってこたえると、中に入った。門から少し歩くと、立派な玄関がある。そこで靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。


「会長にご挨拶をしてきます」


 八重子は言った。女性にしては低い声である。


「旦那様は今、真知子様と“長電話”の最中ですわ」


 さわ子は少し悪戯っぽく言った。真知子とは藤代アームズ社長、藤代真知子のことだ。隆信の孫である。身体が弱いという理由で出社しない社長だ、ということは八重子も知っていた。


「お食事は?」


 と訊かれ、八重子はまた首を振った。今日、“仕事”だった彼女は職場でさわ子から直接、メールをもらったのだ。“旦那様がお会いしたがっています”という内容だった。つまり“添い寝”の要請である。黒い修道服という“正装”のまま、ここへ来た。






 広い食堂で、さわ子が作ったサンドイッチを食べたあと、八重子はバスルームへとやってきた。浴室暖房が取りつけられているが、まだ使うほどの寒さではない。外は涼しかったが、屋内は常温である。すでに湯がはってあるようだ。


 ここは日本家屋でありながら、中はところどころ今風になっていた。広く豪華な洗面所の大きな鏡に映る自分はキリスト教系の退魔士にふさわしいシスターの格好をしている。切れ長の目、形の良い鼻、艶っぽい唇。我ながら美しさには自信がある。


 黒い修道服を脱ぐと、あらわれたのは純白の下着に包まれた完璧な身体である。プライベートではセクシーな色を好むが、仕事の日はオーソドックスなものを着ける。隆信は色物の下着を好まないので都合が良い。


 ため息をひとつついた。軽くゆれるバストは89センチFカップを誇る。それは今宵、隆信を癒やすためにある。添い寝の相手をするようになって四年ほど。23歳になった彼女の大学時代は“薩摩の怪物”とも呼ばれるあの老人に白い肌を捧げて終わった。


 八重子は鹿児島異能業界の名門、高島家の分家に生まれた。自身が所属する退魔連合会や薩国警備の要職に一族の者たちを輩出している高島家の歴史は室町時代にさかのぼる。由緒ある家系だ。


 一族最高の天才、とうたわれた兄のまことが異能犯罪に手を染め、出奔したのは八重子が大学一年のときだった。要職についていた者たちの立場が危惧されたが、それを救ってくれたのが隆信だった。その見返りとして要求されたのが“添い寝”である。兄が犯した罪から一族を守ろうという責任感を胸に秘め、彼女は従った。女性としての尊厳は、心のさらに深いところへ押しやった。そして、今に至る……


 はじめてここを訪れたときから、この鏡に自分の姿を映してきた。四年がたつも、自己の容貌の変化というものはなかなかわからない。あのころは、まだあどけなさが残っていたような気がするが、当時から年のわりには色っぽいと言われてきた。実年齢より上に見られたときは老けているのかしら? と、悩んだこともある。兄の出奔と老人相手の添い寝、という特殊な経験は、外見よりも中身を変えたのかもしれない。打算が働くようになった。鹿児島の異能業界に影響力を持つ隆信についていれば家は安泰で、自分の立場も守られる。


 ブラジャーとパンティを脱いだ八重子は籠の中からシャワーキャップをとった。さわ子が用意してくれたものだ。長い黒髪にかぶり、女神の化身のような裸の彼女は浴室へと消えた。






 バスローブの内側から石鹸の香りを漂わせ、八重子は隆信の部屋をノックした。


「八重子です……」


 低い声で言った。


「入りなさい」


 中から声がした。真知子との長電話は終わっているようだ。


 ドアを開け、入ると薄あかりがついていた。主の隆信はベッドに座っている。ガウン姿だ。


「こちらに来なさい」


 命令された。逆らう権利はない。八重子は従った。


「風呂に入ったのか?」


 と、隆信。彼は自分の豊かな胸に顔を押しつけてきた。身体の匂いを嗅がれたようだ。


「はい……」


 八重子の返答は短い。代わりに豊かな総白髪を抱いてやった。こうすると、この老人は喜ぶ。四年にわたる関係の中で、八重子は隆信が好む“行為”を知り尽くしていた。


 隆信の目の前で、八重子はバスローブを脱いだ。豊かな胸、くびれた腰、白い太股。極上の身体を見せつけながら隆信の両肩に手を置いた。


「あっ……」


 声が出てしまった。隆信が強引に引き寄せてきたからだ。


「か、会長……痛いのです……」


 胸に隆信の頭を抱きながらフルヌードの八重子は甘い息を吐いた。異能者であり鍛え抜かれた彼女の肉体が、この程度で音を上げることなどない。“演技”である。そのままの体勢でしばらく、隆信の好きにさせた。こういう“テクニック”も身につけていた。


「会長、足は……?」


 隆信の体をベッドに寝かせるとき、八重子は訊いた。すると……


「今日は、調子が良い」


 とのことだった。足が悪いとはいえ、たいがいのことはこなす老人である。手伝わなくとも自分で出来ると思うが、それでも介添えはした。隆信の下半身を最適な位置に置く。そこに跨がるようにした。


「このままで、大丈夫ですわ……」


 左手を背中にさしこみ、右手でゆっくりと肩を押してやった。うまい具合に隆信の頭が枕に降りた。こちらが押し倒すような格好になってしまった。


 八重子は仰向けに寝ている隆信の胸に頬を添えた。耳に入る心臓の鼓動は正常なものである。この老人は百八十センチ近い偉丈夫で、年齢のわりに体も引き締まっている。悪いのは足だけだと聞いているが、本当なのかもしれない。


 だが、老いた隆信は既に“男”ではなくなっていた。だからふたりの間に交合が発生したことはこれまでに一度もない。添い寝だけ……ただそれだけの関係、と自分に言い聞かせることで、八重子は四年間、女たる自らのモラルを維持してきた。それが、裸の肉体を捧げる行為だとしても……






 八重子は隆信の胸の上で目を覚ました。寝かしつけた体勢のまま、眠ってしまったらしい。


(いま、何時かしら……?)


 時計が壁にかかっている。確認すると深夜一時前だった。明日は非番であるため、少し気が楽だ。


 やや肌寒く感じる。布団の中、自分と溶け合う隆信の体温が心地よかった。もうすこしだけ、こうしていたいと思い、八重子はふたたび、彼の胸に頬を置いた。


 隆信のことをどう思っているのか? 八重子はよくわからなくなっていた。まさか愛しているなどとは思っていない。祖父と孫ほどに年が離れているのだ。半年ほど前まで大学生だった自分が八十過ぎの老人を男として見ることなどあり得ない。兄のせいで立場が危うくなった家のために尽力してくれたという意味では大恩人であるが……


 ならば逆に隆信は自分のことをどう思っているのか? それもわからない。この老人は“母に似ている”ことを理由に自分を添い寝の相手に選んだというが、本当か否かは知らない。隆信の母の写真を見せてもらったことがあるが、そこまで似ているかしら? と思った。


 薩摩の怪物と恐れられる隆信と名門とはいえ分家の出にすぎない自分。身分差というものは理解している。私以外にも女の影があるのではないか、自分はそれらの中のひとりにすぎないのではないか、と疑うこともあるが、家政婦のさわ子曰く、そういう存在は他にいないらしい。


 音をたてぬよう、八重子は静かにベッドから出た。


(夜が過ごしやすくなったわね……)


 上下一糸もまとわぬ白い肌が、敏感に秋夜の空気を感じとった。隆信の体が冷えぬよう布団をかけ、床に落ちているバスローブを拾った。袖をとおし、豊満な胸の前を合わせ、くびれたウエストを帯でしめる。


 薄あかりがついたままだった。隆信の寝顔を見た。築いた権力や財産ほどには年輪が刻まれておらず、実年齢より十ほど若く見える印象だ。その顔立ちは端正と精悍の中庸といった感じで見事なものである。海外の某有名映画俳優に似ている、と評する声も聞く。


(会長、八重子は帰ります……)


 彼女が寝室を出ようとした、そのとき……


「八重子……」


 渋い声で呼び止められた。振り返ると、隆信がこっちを見ている。


「申し訳ありません」


 と、八重子。どうやら起こしてしまったようだ。


「“あの男”の様子はどうかね?」


 隆信は訊いてきた。それは一条悟……剣聖スピーディア・リズナーのことだろう。


「不穏な動きは見られません」


 八重子は答えた。“監視”と身辺の世話を仰せつかっている身である。


「そうか……」


 隆信は半身を起こそうとした。八重子は近づき、体を支えた。


「八重子、あの男の“妻”になる気はないかね?」


 目の前で、隆信は言った。

 

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