剣聖の記憶 〜炎の中のスピーディア〜
剣聖の記憶 〜炎の中のスピーディア〜 1
四年前。シナイ半島北部の高地にある村に吹いた風は、砂塵とともに硝煙の匂いを運んできたものだった。政情不安著しいこのあたりに住む人々は、常に死の危険と隣接して過ごす。野生的な遊牧民族のたくましさは代々受け継いできた精神力と体力が高次元で結合しているからこそ外部に具現するものなのかもしれない。灼熱の昼と零下を数える夜。そのはざまで生きることは至難であろうが、それでも彼らは今日をゆく。明日以降の命を熱砂のすきまに刻むために……
「ああっ………!」
村の外れ、普段あまり人が通らぬあたりに女の悲鳴が響いた。
「それは……それは家畜を売って得たお金なのです! どうか、どうか返してくださいませ!」
ヒジャブを頭に巻いた小柄な若い女である。ベドウィンであろう。髪が少しのぞいているのは最近の流行りだ。イスラム教圏の女性も古い戒律に縛られなくなった証といえる。
「そいつはできねぇ相談だ」
金が入っている布袋を片手に、黄色い歯をむき出して笑う男は脂肪の塊である腹を叩きながら笑った。百五十キロほどはあるのではないか? 着ている革ジャンパーのファスナーが閉じることは永久にないだろう。
「どうか……どうか返してくださいませ!」
女は必死の表情で男が穿いている極太のズボンにすがりついた。
「ほう……“スチュワート様”第一の部下である、このジャミルに触るとは……おまえ、よっぽどの命知らずだな」
ジャミルという名のでぶは西の方角を指差した。三キロほど先の、さらに高地となっている場所に“城”が見える。なぜか近世ヨーロッパ風の見た目になっており、イスラム色の強いこの場所には似つかわしくない。スチュワートとかいう輩の居城か?
「ジャミル兄貴ィ、この女、好きにしちまっていいかい?」
ふたりいる取り巻きのうち、サングラスをかけたほうの男が訊いた。弟分のようだ。
「おめえ、こんなのがいいのか? 俺にはわからんな」
「そりゃあ、兄貴は“あっち側”だからよぉ」
今度はバンダナを巻いた方の痩せた男が下品に笑った。三人で“巡回”の途中らしい。
「どうか……どうか……」
と、砂地の上ですがりつく女にとって不幸だったのは、このあたりに“同胞”がいないことだった。ベドウィンの絆は固い。仲間がいれば助けてくれたかもしれないが、あいにく人が住む地帯から一キロほど離れている。誰も見ていない。
「どうか……お返しくださいませ!」
「うるせぇッ!」
ジャミルは女を蹴ッ飛ばした。
「俺は女が嫌いなんだよ。触んじゃねぇ!」
腹をおさえ、咳き込む女をジャミルは見下ろした。
「おめえは、俺様の前をふさいだ“障害物”だ……」
彼はそう言った。
「障害物ってのは、あってはならねえ物だ」
大きな鼻を鳴らし、そして……
「障害物なんだから蹴られて当然だよなァ……!」
大笑いをするジャミルとその一行。とても楽しそうである。
「ぷぎゃぱっ……!?」
そして、素ッ頓狂な声を上げて宙を舞うジャミル。地を這う豚も青い空に憧れることがあるのだろうか? 羽など生えていない脂肪の塊は一瞬、高々と飛んだ。だが、それもつかの間……デカい音と砂煙をたてて五メートル先の地面に墜落した。
「だ、だ、誰だ、誰だ、誰だァ?」
ジャミルは砂にまみれた間抜け面をあげた。
「おまえの言うとおり、俺の前に“障害物”があったから蹴ったのさ。当然だよな?」
いつの間にそこにいたのか、グレーのロングコートを着た男が言った。フードを目深かにかぶっており、顔は見えない。
「てめぇ……このジャミル様の綺麗なヒップを蹴るたァ、いい度胸だ」
尻をさすりながら男に近づくジャミル。サングラスとバンダナの三人で取り囲んだ。だが、相手は物怖じする様子がない。
「気取りやがって……顔を見せろ!」
そんな態度が気に食わなかったのであろう。男の目の前に立ったジャミルは、彼がかぶっているフードに手をかけた。
だが次の瞬間、ジャミルは驚きの表情を見せた。無理もない。フードの下に隠されていた顔は女性的で、あまりにも美しすぎた。その秀麗な眉目、それは誰の心をも魅了する。
「日本人か……?」
ジャミルは好色を浮かべた顔を近づけた。どうやら“欲望”がたぎってきたらしい。
「おめえ、名前は?」
「一条悟」
「平和ボケした日本人が、こんなところになんの用だ?」
「“観光”さ」
「観光? 国境から流れ弾が飛んでくるようなこの場所に観光だとぉ?」
悟の言葉を聞き、ジャミルは出っぱった腹を揺すって笑った。取り巻きのふたりは殺気だっている。
「ジャミルの兄貴を障害物扱いするとは命知らずだな。ジャパニーズドゲザを見せてもらおうか?」
サングラスが言った。バンダナは銃を抜いている。ヘッケラー&コッホ社のHK P8。どこからかの横流し品であろう。
「待て待て」
なぜかジャミルは二人を制した。
「俺様に危害をくわえた以上、無罪放免ってわけにはいかん。だが選択肢をくれてやる。おまえが俺様のモノになるのなら許してやろう」
悟の前に立ち、その美貌を観察しながらジャミルは言った。彼の好みに合うらしい。
「おまえは、攻めか受けか?」
悟は訊いた。
「あン? その気になったのか? 実は俺は……」
「もし受けなら、やめといたほうがいいぜ」
「ああ? どういう意味だ?」
「あ、兄貴ィ……」
二人の会話に割って入ったのはバンダナ。銃を持った手がふるえている。
「なんだ?」
「そ、それ……」
バンダナも、そしてサングラスも下を見ていた。ジャミルは自分の足もとに目を向けた。ズボンと、そして地面が真っ赤に染まっている。
「ぴ……ぴぎゃああああああああッ!」
その場にて、のたうち回るジャミル。さきほど悟に蹴られた尻の穴から大量に出血していた。いまさら気づいたようだ。
「てめぇッ!」
バンダナは悟に対し銃を構えた。HK P8は9ミリパラベラム弾を使用する。この距離ならば狙いをはずすことはない。
だが、彼がトリガーをひく前に、悟の体が砂漠に吹く乾いた風と同化した。一瞬にして銃を奪い取ったのだ。その動き、その速さ、舞い上がる砂の一粒をもかいくぐるものであろう。
悟は自分の物になった銃のトリガーをニ回ひいた。雨など降らぬ砂の大陸にふさわしい乾いた銃声がニ度鳴る。9ミリパラベラムはバンダナとサングラスの足もとに着弾し、砂煙をあげた。二人とも尻もちをつき、恐怖に震えている。ジャミルは砂地に脂肪痕を描きながら、いまだにのたうち回っていた。
「選択肢をくれてやる。このままあっさり撃たれるか、それとも最後まで男らしく戦って撃たれるか、だ」
と、片手で銃を構える悟。
「どっちも同じじゃねえか!」
とは、銃を奪われたバンダナ。
「ならば“出血”大サービスの三択目だ。おまえらの兄貴を今すぐ医者に連れて行くこと。どれを選ぶ?」
そう悟に言われた二人は共同で下半身血まみれになったジャミルの巨体を両脇から抱えた。そのまま重そうに砂地を引きずると、十メートルほどさきに置いてあるジープに向かった。それに乗って来たようだ。
「畜生、おぼえてやがれ!」
後席にジャミルを乗せ、出発したジープから捨て台詞が聴こえた。運転手はサングラス。助手席にバンダナ。今回の珍道中は彼らの忘れられない思い出となったろう。
「この辺に肛門科があンのかね? まぁ、当分ホモプレイはお預けだな」
遠ざかるジープを見て、ニヤつく悟。この男も見た目によらず下品だ。女は、まだ立ち上がれないらしい。ジャミルに蹴られたダメージか?
「君のだろ。返すぜ」
悟は金が入った布袋を彼女の前に差し出した。ジャミルが持っていたはずだが、いつの間にかすめ取っていたのだろう? 女は膝をついたまま、すばやく受け取ると大事そうに胸に抱いた。
「誇り高き砂漠の民に手は貸さないぜ。自分で立ちな」
それは優しさか? 奪った銃をコートのポケットに入れた悟は、フードをかぶると歩き出した。女はそのままの姿勢で、遠ざかる背中を見つめた。
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