剣聖の記憶 〜月下の美影〜
剣聖の記憶 〜月下の美影〜(上)
五年前。寒い平日の夜中だった。アメリカ最古の都市公園ボストンコモン。各種催し物が行われ、市民や観光客の憩いの場となっているが、昔は処刑場だったという。今、そのころの面影は見えない。日付がかわり、暗闇に支配されるこの時間になっても……
白人の男がバーボンの瓶を左手に持ち、歩いている。名をハリーという。既に店を数軒ハシゴし、酔っ払っていた。背も高いが横幅もある。“往年のファン”が今のこの姿を見たら、さぞかし嘆くであろう。かつての精悍さは消え失せ、不摂生な生活で肥満していた。
ハリーが行く先にベンチに座る人影があった。暗闇に溶け込む姿は男のものだろうか? 雲が多い空である。
「Hey You!」
彼は叫んだ。
「そこはこの時間、俺の“永久指定席”だぜ。どきな!」
怒声に夜空が刺激されたのか? 一瞬、強い風が吹くと雲が晴れ、月がのぞいた。
息をのむハリー。ベンチに腰かけているのは確かに“男”だ。だが、淡い月光の中に浮かぶその顔は女のように美しい。
「日本人か?」
目も、そして心すらも奪われたに違いない。ハリーは訊いた。雲が散った理由は自身の怒声などではなく、男の美貌を強調するために天空神がはからった粋な演出であることを知ったであろう。
「この世に“永久”なんてものは存在しないさ。メジャー通算288勝。サイ・ヤング賞に輝いたこともある栄光のベースボール人生にもな、ハリー・ホークウッド」
美しい男は言った。
「Oh! おめぇ、俺を知ってるのか?」
「ああ、あんたの百マイル級のファストボールにはしびれたぜ」
「日本人のくせにわかってるじゃねぇか! 名前は?」
「一条悟」
「サトル! おめぇ、ベースボール好きなのか?」
「ああ……」
「そうか」
ハリーは、バーボンをひとくちあおると、酒臭い息を吐いた。気温が低いため、夜空に白くたちのぼる。
「おめぇの言うとおり“過去の栄光”さ。昔の俺は凄かった。打者のインサイドをえぐり“ヒットマン”などと仇名された。決め球のスプリッターは三振の山を築いた」
月を見上げるハリー。その胸に居来するものは、なんなのか?
「学生野球でたいした実績がなかった俺は“左腕”一本でハンバーガー・リーグから必死の思いで這い上がったんだ。ステーキ・リーグを目指してな」
マイナーリーグとメジャーリーグの違いは食い物で表現される。待遇差は天と地ほどに大きい。
「全盛期は、女優と寝たこともあるんだぜ。サトルは知ってるかい? “暗黒街の光明”に出てたルーダ・エドモンド」
「何度も観たよ」
「ベッドの上でもいい女だったぜ。まァ、“今付き合っている女”のほうが床上手だがな」
「そうか」
悟は微笑した。芸術的に整った横顔は美の女神の設計によるものか? それを彫刻の神が仕上げたものか?
「だが、あんたは突然に“転落”した……」
「そう、そうだ!」
ハリーは太い足で地面を蹴った。
「たった一度だ! たった一度、薬物に手を染めただけで俺はベースボールの世界から追放された。殿堂入りは叶わず、指導者への道も閉ざされた。たった一度でだ」
「人生、やり直しはきかないってことだな」
「俺も今じゃ、単なる飲んだくれさ。別れた女房に払う慰謝料で首も回らねぇ」
「その、あんたの元妻は、さっき“死体”で発見されたよ」
「ほう、そうか」
ハリーは大笑いした。太い声が寒風を突き通すように響く。
「犯人は、あんただ」
悟は言った。
「おいおい、何を証拠に?」
「“左手”さ」
「あン?」
「彼女は正面から右の側頭部を鈍器で殴られた。犯人は“サウスポー”さ。あんたは私生活でも左利きだったよな?」
アメリカ人は左利きの割合が極端に少ない。親が矯正することに熱心だからだ。そのため警察は左利きというだけで簡単に容疑をかけて、しよっ引く。
「まァ、今夜中には凶器も見つかり、証拠もあがるさ。警察の科学捜査ってのは立派なもんだ。ミステリーのような完全犯罪なんて、そうそう成立しねぇよ」
「ガッデム!」
ハリーは左手のバーボンを地面に叩きつけた。瓶が割れる様は、この男の今後を絵的に示すものなのかもしれない。崩壊、そして破滅……嗚呼、球史に残る実績を積み上げた左腕は、最後に汚点を残したのだ。人間が最も忌み嫌う“殺人”という名の汚点を……
「キャサリンが悪いんだ! あの雌豚、弁護士と組んで、とんでもない額を請求しやがった。俺に野垂れ死ねってのか!」
そのハリーの大声が“災難”を呼んだらしい。夜影の隙間からコートを着た長髪の男があらわれた。
「お初に、お目にかかります」
彼は丁寧に言った。ハリーと同じく白人だが、こちらは均整のとれた身体つきをしている。
「誰だい?」
訊いたのは、ベンチに腰かけたままの悟。
「“ハウンド”と申します」
コートの男は答えた。悟と同じく、“裏稼業”の異能者である。金のためなら仕事は選ばないタイプだ。
「ある依頼により、その方の命を頂戴いたします」
「キャサリンか? キャサリンがおまえを雇ったのか? いや、あの弁護士野郎か? あいつら、やっぱりデキてやがったのか!」
ハウンドに対し支離滅裂なことをわめくハリー。酔っているからなのか? それとも死を目前とした恐怖がさせるのか?
「依頼人の名は明かせません。では……」
ハウンドはコートの中に右手を入れた。そこから“なにか”を取り出し、投擲した。その速さ、メジャーリーガーの比ではない。ハリーの顔面を一本の鎖鎌が襲った……
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