第9話

「俺は、こうやって絵を描いていられるだけで幸せなんだからさ」

「私は嬉しいが…けどなぁ」

 誰もが認める腕前を持つ青年は、風景画や肖像画も抜群にうまいが、やはり幻獣げんじゅうや精霊を描かせれば、その才能を余すことなく発揮する。

 大きな画壇がだんが抱え込もうとしている噂も聞くものの、当の本人にはまったく欲がない。

「値段はワットさんが決めてくれるか、材料費に対して不当じゃなければ、向こうの言い値で構わないよ。でも、少し思うところがあって…できるだけ同じ人には売らないでほしいんだ。まあ、俺の絵がそんなに売れるとも思えないけどね」

 などと言い出す始末である。

 どれほどワットが勿体ないと言ったところで、カイルは困ったように笑うだけだった。

「はいよ、今回の売り上げだ」

 小さな袋に入った金貨を嬉しそうに受け取るカイルを見て、ワットは内心ため息をつく。


 カイルの描く世界は、底知れぬ美しさを持つ。画家の中には己が筆を持つことを辞めた者さえいるのを、ワットは知っている。その存在感ゆえに固定ファンも多いのだが、どういうわけかカイルは、同じ客に作品を独占されるのを好まない。

 おかげで、度々足を運んでくれる客の前で売約済みの札を下げて対応するなど、本末転倒な工夫までしている。

 カイルの絵を画廊に置くことは、一番のファンを自負するワットにとって喜びではあったが…本来ならこんなところで扱っていていいものではないと、複雑な思いも抱いていた。

 一度買った者にはできる限り売らないという制約も妙なのだが、そもそもブックの絵師ともなれば、今手にしているものよりもはるかに大金が転がり込むことを約束されていると言うのに、カイルは決して引き受けようとしない。

 実際、暮らしはなんとかなってはいるものの画材につぎ込み、食事に事欠くことも時折ある様子。

「なんでまた、その才能を生かそうとは思わないのかねぇ…」

 苦笑を浮かべたカイルの顔に、ほんの少し暗いものがよぎるのを、ワットが気づくことはなかった。


 その数日後。

 一人の少年が画廊の前で歩みを止めた。

「レイジアと、ラズの匂い?」

 呟いて目の前にある建物を、じっと見つめる。

 乾季のこの時期、砂塵さじんを防ぐために誰もがローブをまとっている。

 だがその下から覗いた、あまりに深すぎて黒とも見紛うほどの紅の髪と瞳を持った少年の雰囲気は、幼ない子どもらしからぬ妖しさと不思議な魅力を備えていた。

「…面白い」

 呟いて、ためらうことなく画廊の扉をくぐった少年を店主のワットがにこやかに迎えた。

「いらっしゃい。ゆっくり見て行ってくれ。聞きたいことがあればいつでもどうぞ」

 時折カイルが二束三文で護符代わりに精霊の素描そびょうを分けてやるため、この店には親に請われ、小遣い程度の金を握った子どもがよく訪れた。

 幼い客が気押されないよう引くのも慣れたもので、それだけ言うとワットは店の空気になる。

「ああ、ありがとう」

 子どもが訪れる店は明るくはなるが、展示品にいたずらをされはしないかひやりとさせられることも多い。だが、聡明そうなこの子なら大丈夫だろうと、ワットは安堵する。


 少年は展示スペースに掲げられた二十枚ほどの絵をぐるりと見渡し、奥へと足を踏み出した。けれども思い直したように、手前から鑑賞し始めた。

 やがて彼は、一枚の絵の前へと立った。

 それは翼を畳んだ緋色のサラマンダーが、夕陽が斜めに差し込む水辺の崖で空を恋しがるかのように、天を仰ぎ鳴いているものだった。

 絵の前に立った少年は、瞳を細めて魅入っている。

「珍しいだろう、その絵。サラマンダーと言ったら大概は火を吐いたり、空を飛んだりしている姿を描くのが多いものなんだけどね」

 頷きを返しながらも一体何を思うのか、彼は驚くほど長い時間絵の前に佇んでいた。

 やがてふうっと満足げな溜息をひとつ洩らし、少年がワットを振り返った。

「時に店主、この絵を描いた〝K〟というのはどんな人物なんだ?もしかして著名な者が、己の名を知られたくなくて描いているのか?」

 幼い姿に反し、問いかけはなんとも子どもらしくない物言いだったが、不思議とそれが似合っていた。

 

 ブックの関係者らしき者には決して教えないでくれと、カイルからは含められていたが、彼からはそんな匂いはまったくしなかった。

「カイル・ラスタウィード。そんじょそこらの画家なんざ、裸足で逃げ出しちまう腕前だよ。ウィードの姓まで持っていて、絵師の仕事をやったなら引く手あまただろうというのに、ブックは手がけないってぇちょっとした変人だ」

「…カイル?カイル・ラスタウィード…まさか…」

 少年は、その名を繰り返した。

「…ようやく、見つけた」

 歓喜に満ちた呟きは、ワットの耳に届くことはなかった。


 少年はにっこりと笑いながら絵を指差す。

「これを譲ってくれないか」

 ローブから伸びた左腕にちらりと見えた、幾重いくえにも連なる腕環うでわ。皮とも金属ともつかぬ不思議な素材で出来たそれに、見覚えがあるような気がしてワットは首を傾げる。

 だが、彼が今まで目にしたことがあるのは、せいぜいが三、四連。

 ――まさか、な。

 その後、少年が画廊始まって以来の驚くべき金額を口にしたため、疑問に思ったことなどすっかり抜け落ちてしまったのだった。


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