「あ、あ、……これは、その」


 泣かせた張本人のくせをして、まさか泣かないでなんて言えるわけもない。

 せめて、それから目を逸らさない事くらいしかできる事が思いつかない役立たずの前、女の子は濡れた顔で、震える声で言う。


「…………ちゃ、ちゃんと!」

「……うん」

「ちゃんと、その、お見送り、する時は、ちゃんと、しますので……! だ、だから」


 波打つ喉で、ひゅうっと息継ぎ。


「ちょっと、きょ、今日だけ、……い、今だけ、……いま、だけだから」

「…………うん」

「…………ご、ごめんなざいぃぃ!」


 気丈に上げていた顔が、ついに机の方を向いた。俯いた彼女は、やがてうずくまるように肩を丸める。


「ご、ごめんなざ、……わ、わだし、…………ご、ごめんなざいぃ……! ごんな、ごんな……っひ、うぅ…………! う、ううぅ……っ!」


「……ザザが謝る事なんて、なんにもないよ」


「で、でも、でも……!」


 ごめんを言うのは、絶対にこちらだ。だけどここでそうしたら、きっとそれの言い合いになるだけ。

 左手で自分の太ももあたりに爪を立てながら、幹人は口を縫い付けた。


「あの、で、でも、あの、……ミキヒトさん、わ、わたしっ」


 くぐもった声で、時折大きく肩を揺らしながら、ザザはそれでも言った。


「あの、……だけど、……い、いれて、ほしくて、わ、わたし、ミキヒトさんたちの、ギ、ギルド……!」

「……ザザ」

「ミキヒトさんたちが、か、かえる、までで、いいから……それ、までで、いいから……き、きっと、ちゃんと、おみおくり、するから、……わがまま、いわないから!」


 もしかしたらこれも、断るべきなのかもしれない。

 そうした方が最終的には、彼女の傷つく量は少なくて済むのかもしれない。


「だがら、だがら、……そ、そばにっ、いても、い、いい、ですか!」

「……うん」


 だけど、出来なかった。

 出来る人間もどこかにいるのかもしれないが、雨ケ谷幹人には出来なかった。その強さがなかった。


「うん。わかった。それまでは、ずっと一緒にいよう」

「…………っほ、ほんと、ですか?」

「もちろん。照兄だって言ってたでしょ? ザザがそう言った時は歓迎するって」


 出来る事と言えば、彼女にそう笑いかけながら、情けなく必死で祈る事。

 この選択が目の前の女の子にとって最善であってくれるよう、どうかどうかと祈る事。

 それから、これから先、自分の最善を尽くそうと心に決める事くらい。




「……それじゃあ、お休みなさい」

「うん、お休み」


 返した幹人に、ザザは微笑んで小さく手を振ってからドアを閉めた。


「…………」


 ひとしきり泣いて、最後は少し笑ってくれた彼女の、翡翠の眼に差した赤みがどうしても頭に焼きついて、なかなか幹人は動き出せなかった。

 しかしまさか、いつまでも女の子の部屋の前で立ち止まっているわけにもいかない。ノロノロと、自分の寝床へ引き上げるため歩き始める。


 ザザの部屋は一階の東角。対して幹人の部屋は二階の真ん中あたりだ。

 夜のビラレッリ邸の廊下には、等間隔に星命魔法で出来た光球が灯り代わりに浮いている。貴族の家ではよくある趣向らしい。


「…………」


 階段を上がりきって、二階にたどり着く。

 日本のものよりも透明度は低いが、こちらの世界の窓にもガラスは嵌まっている。そこから見える、晴れた夜空に瞬く星の光に眼を惹かれ、幹人はなんとなく立ち止まった。


 それからすぐに、壁に背を預けてズルズルと座り込む。


「…………」


 両手で前髪を掴むように顔を覆って、ザザとの会話を思い返す。

 彼女の顔を、声を、震える喉の鳴り方を、思い出す。


「……あー」


 フォスキアに挑んだ一件で、あの子の表情を豊かに出来た事については、今も変わらず誇りに思っている。

 あれについて、後悔する点はただの一つもない。今後もそのつもりはない。

 だけど。


(……だけどさあ)


 どれくらい、そのまま固まっていただろう。

 情けなく、閉じた眼が熱くなってきた時だった。


「……みき君」


 掛けられた声に眼を開けばいつの間にか、夜の影よりなお暗く、それでいて星の光を表面へ艶やかに湛える黒髪が、視界の中で揺れている。


「…………みぃちゃん先輩?」


 顔を上げると、そこにいたのは見慣れた年上の女性だった。彼女は、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。


「え、……あー、ごめんごめん、いや違うんだ、別に具合とか悪いわけじゃなくて」


 体調を崩したと誤解されないようにそんな風に言った幹人へ、なおも彼女は気遣わしげな表情だった。


「……お話、してきて、くれたんだね。ザザさんに」

「……うん」


 もしかしなくても、自分が部屋に帰ってくるのを待っていてくれたのだろう。

 会話の顛末についても、彼女はきっと、察している。


「あのね、やっぱり、ザザ、入りたいって言ってくれたよ。はは、いやあ、物好きだよね、俺たちのアレなとこなんて嫌ってくらい見てんのにさ」

「…………」


「ちょっとは迷惑掛けないように気をつけなきゃなあ。絶対無理だと思うけど、でも少しくらいはそういう意識を持っておいて、なんとかね、いや、無理なんだけど。咲と同じ立場で俺たちの奇行を見守ってもらうというね、そんなスタンスで居てもらう他ないかなあ」


「…………みき君」


 ペラペラと軽口を重ねるこちらの目の前、静かにその先輩は床に膝をついて、座り込む自分と視線を合わせた。


「ありがとう」


 そして彼女は、それしか言わなかった。

 それからゆっくりと、少し躊躇いがちに、それでも確かな強さと温度を持った細い指と小さな手のひらで、幹人の右手を包む。


 なんだよ。

 やめてくれよ、そういうの。

 思わず、そんな風に思った。


「…………あの、さ」


 だって、こっちは男の子だ。歳下だってなんだって、精一杯意地とか張って強がる生き物だ。


「………………俺さ」

「……うん」

「あの、…………ニッパーとかプライヤとか、トルクとかメガネとかソケットとかラチェットとか、ノギスとかマイクロメータとか、そういうのの、使い方とかさ」


 わけのわからない事を言い出したとは、自分でも思う。


「鋳造とか溶接のやり方も、旋盤とかボール盤とかフライス盤の操作も、歯車とか軸受けとかプーリとかスプロケとかの構造の理解も、SFDとかBMDとかの書き方も、シャルピー衝撃試験の概要とかテーラーの寿命方程式みたいなもんの考え方も、なんかさあ、そういうのさあ」


 目の前の女性は静かに聞いてくれているけれど、自分は馬鹿な事を言っている。


「うん」

「女の子に、あんな顔させるために、勉強したわけじゃないんだよぉ……」


 支離滅裂な言葉を吐いている。わかっている。

 だって、自分がとてつもなく凄まじい超一流の技術者だったら、あの子を泣かせずに済んだのかと言えば、多分、そんな事はなくて。

 大して関係がないのだ。幹人が地球で日本で高専で、何を学んでいてもいなくても、きっと関係なく、彼女は泣く事になったろう。


「なんだよ、くっそぉ…………!」


 だったら、この無力感はどうすればいいのだろう。

 きっとまた戻ってくるよ、とか。いつでも会えるようになるよ、とか。

 いずれ高い確率で嘘っぱちになるそんな無責任、どうして言える? 言えるわけ、なくて。


 でも、言ってあげられるくらい強い人間だったらよかったのかななんて、思ってしまう脆弱さが、胸の辺りを這っている。


「ありがとう、みき君」

「…………っ」


 この憧れの人の前でせめて、涙だけは落とすものかと唇をかみしめる。

 そういえば昔、一度だけ見せてしまった事があるけれど、同じ轍は踏みたくない。


「とっても、頑張ってくれて、ありがとう」

「…………頑張ったのかな、俺」

「頑張って、くれたよ。だって、でなきゃ」


 そんな顔、しないもの。

 彼女がくれた言葉は降り注ぐ星の光よりずっとずっと優しくて、幹人は、意地を保つのにひどく苦労した。




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