異世界生活32日目夕方、ビラレッリ邸にて
「絶対おかしいって、絶対おかしいよアメちゃん」
「何がだいイヌちゃん」
ビラレッリ邸の階段を二階から一階に降りている途中、足を止めて犬塚が何やら言い出した。付き合って立ち止まった幹人に、級友は続ける。
「なんで階段降りるときって疲れんの?」
「……なんでって」
「だってさだってさ! 俺たちはもうさ、階段を上がった時にエネルギーを支払ったじゃん? 位置エネルギーって形で貯金をしたわけじゃん? なのに何で階段を降りる時に疲れなきゃいけないんだろう……理不尽だよ……」
「……うん?」
犬塚の言葉に幹人は首をひねる。確かにそれは。
「……そう言われてみれば」
「だろー! こんなのひどすぎる……」
「そこまでじゃないけども。そうだなあ、ええと」
言いつつ、改めて考えて幹人は自分の意見を口にする。
「少なくとも、階段って、下に降りるだけじゃなくてちょっと横方向にも動くじゃん。保持された位置エネルギーは地表へ対して垂直にあるものだから、横に動く分は新しく支払わなきゃ駄目だ」
「でもさでもさ、それだけだとさ、例えば
「ん、んん……いや、梯子で降りるときだって微妙に足を水平方向に動かすでしょ? その分は疲れるはず」
「そっか、……でも、だったら梯子と階段なら梯子の方が疲れないって事になる? いや、梯子の方が俺多分疲れるんだけど」
「……確かにそうだ、そうだわ。そうだ」
階段を降りるよりも、梯子を下る方が疲れるのはその通りなはずだ。移動距離で言えば短いはずなのに。
「…………ええっと……いや、いやいや、いやいやいやイヌちゃん、マクロ的にはそうなんだけど、視点をここでミクロに変えよう」
「どういう事?」
「階段を降りるっていうのも、梯子を下るっていうのも、そのための体勢を作る必要があるじゃん。同じ長さの両足を、一本だけ下方向に伸ばすってのは結構無理がある。その姿勢を作ろうと身体の各部が稼動するから」
「あー…………移動というマクロな視点から見ると既に支払った位置エネルギーだけでよさそうだけど、そのための身体の稼働というよりミクロな視点に立つとしっかりエネルギーを使う?」
「そうそう。んで、階段と違って梯子は全身使うから」
「おおー、なるほど。横方向へ移動量は階段の方が大きいけど、それを差し引きしても梯子の方が身体の稼動総量を積算すれば消費エネルギーが多い。なるほど、なるほどなるほど」
なるほど感あるぜと、犬塚はうんうんと何度も頷いた。
「合ってるかどうか知らないけど、そんな感じかな」
「合ってる気がする、わかんないけど。俺は納得したよアメちゃん。ならしょうがない、疲れるのもしょうがないとしよう!」
「そうだね、甘んじて受け入れよう。俺たちも駄々をこねる子どもじゃないからね」
「ね!」
一応の納得が得られてか、犬塚の顔はすっきりとしている。幹人もなんとなく晴れやかな気分だ。
「あれ? お兄ちゃん、犬塚さん、そんなところで何してるの?」
「お、咲」
上からトントンと降りてきたのは妹の咲だ。階段の中途半端なところで止まっているこちらに不思議そうな顔をしている。
「おー妹ちゃん、いやさあ、なんで階段降りる時って疲れなきゃいけないんだろうねって話をね」
「……?」
犬塚の説明に咲は首を傾げ、そして言った。
「この階段を降りたくらいで、人は疲れないのでは……」
「…………」
「…………」
そのシンプルな論には、幹人も犬塚も、一言だって言い返せなかった。
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