23
「御詞である」
四方に反射する立体音響が寄合所の中を駆け巡る中、修行者の厳かな声が、針となって水面を突いた。
老人達は恍惚の表情を浮かべ、やがて敬虔な信徒の顔となって一心に祈りを捧げる。九条が位置を補正して視界を確保すると、御簾の奥に小さな人の姿があることに気付いた。
《ノイン、見て。誰か居る》
《補正をかけてみるけど、ダメだ、あの御簾自体が高度に暗号化されてる》
教祖、というものなのかもしれない。
このひまわりの國を統べ、神の言葉を吐き、教えをもたらす存在。ならばあの修行者は、彼の人物に付き従う使徒のようなものだ。
カツテハシッタアイノカタチモ、マダ、ナニモシラヌ、オサナゴノヤウニ、ダキシメテイキテイコウ、イキテイコウ、アイダケハシンジテイタ、シンジテイタイ。
ワタシノコエハ、トドカナクテ、マダ、ナニモシラヌ、オサナゴノヤウニ。
「まだ、何も知らぬ、幼子のように」
「まだ、何も知らぬ、幼子のように」
大合唱である。
村人達が肩を揺らして、降りてきし言葉を唄い始める。壇上の教祖の言葉が場内に溢れるのと共に、老人の群れが一心不乱に唱和する。異様な光景。そして、渾然とした一体感がある。何とも奇異な信仰だ。
舞台前の老婆も涙を流して聴き入っている。かなりの効能が期待できそうな様子だ。
唄われている言葉は、口語である上に理解も容易い。心情をそのまま吐き出したかのような、まるで散文詩だという感想を抱く。出典の小難しい仏教用語よりも、ずっと流布しやすいのか。
《オープンネットではヒットしなかったよ、ノイン》
《元ネタがあるとしても、すでにネットのログから落ちている可能性がある。サルベージするなら戻してからじゃないと》
九条は逡巡する。祭祀の監視にはムニン一匹で充分そうだ。見つからぬうちに現在までの音声と画像データをフギンに持ち帰らせよう。
「戻ってこい、フギン。ムニンは監視を続けろ」
了解を告げ、大音声が響くなか、寄合所の壁を二三度叩くフギン。九条はウェアラブル・コンピュータに常駐させていたソフトを走らせた。腕に柔らかな熱を感じる。バックドアが開いていき、壁に小さな穴が開き始めた―その作業で奇妙な処理落ちを感じ、九条は違和感を覚える。
「――いや、待て。待て、フギン! マズい!」
すでに遅かった。ソフトの一時停止が効かない。ヘマをしでかしたと気付いたとき、修行者がすっくと立ち上がり、鴉たちを睨みつけた。口元に僅かな笑みを伴う。
「ファイアウォールでなく、バックドアに反応する防壁……!」
トン、と杖の石突きが壇上で鳴り響いた。
その瞬間、黒い燭台の影――視覚化されたコンピュータウィルスであると解った――が無数の蛇のようにのたくり、拡張現実内を這い進む。
「くそっ、フギン、ムニン、逃げろ!」
自立思考の反応より早く、二条の影が鴉の足にまとわりつく。即座に九条はプログラムの一部を切り捨てて、本体を再暗号化した。それでもプログラム自体の
ざわめく老人たちの頭上で、二羽の鴉が羽ばたき、足の爪を穴に引っ掛け拡げようとする。修行者が胸元から紙片を取り出し、息を吹き掛けた。彼の指先で、紙片が炎上する。修行者は鴉めがけて紙片を飛ばした。つづけて二枚、三枚と。振りかかる火の粉を避けながら、懸命に穴を拡張するフギンとムニン。
――通信制御を乱すパルス波か。前にフギンを落としたのもあれだな。
九条は舌打ちを漏らし、最小の手順で
《あわわわわ! マズいよ、ノイン!》
九条は無用の長物となったウェアラブル・コンピュータを投げ捨て、演算処理をPCのほうに移行させる。焦るな、落ち着け。
処理を高速化させるために、検索補助システムのパフォーマンスをとことんまで下げる。鴉たちのグラフィックは荒くなっていき、モニタの解像度もどんどん落ちていく。モスキートノイズだらけの画面に、修行者の呪詛と放たれた紙片が飛び交っている。
《ノイン、これじゃまだ全然通れないよ! どうにかしてくれ!》
「わかってるさ。背に腹は代えられない」
音声補正、映像データ補正、高輝度処理ファイルの一括削除。さらにオーバークロックによって、一時的に処理速度の限界まで上昇させる。持ち込んだ排熱用機材が、地獄の業火に炙られたかのような熱さを持つ。九条の一手で僅かに優勢に持ち込んだが、次の瞬間、寄合所の中に修行者の低い声が響き渡る。
「
九条が認識するより早く変化は訪れた。
それまで居たはずの村人達は消え去り、寄合所の外郭が抽象的なテクスチャとして再構成されていく。
――ふざけるな。
《ノイン、拡張現実のドメインが仮想現実上に書き換えられている! このままじゃ出られなくなる!》
冷静な目線で、九条は修行者を見据える。彼は手許で印を切り、懐から長い針を取り出す。
「オン、ケンバヤ、ケンバヤ、ソワカ」
修行者はタン、タン、と不気味な調子で床に針を打ち込んでいく。その都度、寄合所の壁が狭まり、それと共に中央で極大の火球が練りこまれていく。見るからに脅威であった。
九条は決断を下す。
「画像データを全部捨てる。バイト数が一気に下がるはずだ。それで帰ってこい」
《ラジャ!》
九条はそこで場内に篭る立体音響を意識する。急激に音量が上がっているのだ。耳許でがなり立てるように、包括的に耳朶に絡み付いてくる爆音。まるで動悸でも起こしているように、体内へと雪崩れ込んでくる神託。
ワタシノコエハ、トドカナクテ、マダ、ナニモシラヌ、オサナゴノヤウニ。
オサナゴノヤウニ。オサナゴノヤウニ。オサナゴノヤウニ。
オサナゴノ、ヤウニ―
「や、止めろ……」
九条の指が動かない。HMDを付けているせいだ。没入性が高すぎるあまり、信者とさして変わらぬ身体経験をしてしまっているのだ。身体が火照っている。
脂汗が顎から滴り落ちる。フギンたちが必死で逃げ惑いながら、入力をしてくれと喚き立てている。すべてが遠い。神託が耳を掴んで離さない。意味を失った言葉が、九条の脳髄を暴力的に揺さぶる。エンターキーが遠い。遠すぎる。
火球が迫る。モニタが朱に染まる。修行者が高らかに笑う。
《ノイン!》
フギンの絶叫とともに、九条は意識をなくした。
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