20


 再び二ツ山村に降りた許子の、視界の全てが赤い夕陽に染まる。

 考えられないこと。それまでは街灯も無く、村はただ夜の闇に浸されていたはず。ただ一つ、この風景がまやかしだと解るものといえば、深いオレンジの空で太陽と月が隣り合わせになっていることくらいだ。


「指向性ホログラフィーを最大に開いて、擬似的に夕暮れの光景を再現している。こんなふざけきった使い方をすれば、異常なD率の数値を叩き出してもおかしくない」


 眼鏡から九条の音声が流れる。


「これが、村の人が見ていた風景、なんですか」


 許子の言葉に、九条は答えを出さない。質問ではなく、感嘆と受け止められたようだ。

 ――この風景を、みんなが見ている。

 許子の足を進ませたものは、なんであったか。


「結論から言えば、村人は囚われている」


 墓場での九条の言葉。

 スープへの没入が高い程、身体的には負荷がかかる。こうしたスープ中毒となる人間は、概して若者よりも耐性の無い老人が多いという。社会問題として顕在化しつつある今、この村で起こっていることは、その最たるものだと、九条は語った。


「不当なスープへの没入を阻止することも、サイバー犯罪抑止課の務めだ」


 お為ごかしの言葉にも思えたが、そう告げる九条の眼光は鋭かった。多くを語らない上司が、何か信念を持って、今回の一件に臨んでいる。許子がその事に気付いた時、彼女にとっても、本当の意味で最初の仕事が始まった。


「猪原さん、フギンとムニンでナビさせるけど、自分でも注意して辺りを見ておいて」


 許子が頷くのと共に、夕焼け空から二羽の鴉が舞い飛んで来た。彼らを目で追いつつ、周囲にも目を配る。

 山の端が赤と黒にざわめく。夜道で落ちないように注意していたはずの枯れた用水路も、今となっては滔々と音を立て、西日の輝きと共に流れ続けている。遠くでカラスが鳴き、近くをトンボが飛んでいく。それらが紛い物ビジョンであることは、許子にも容易に解った。


「本当に異様な使い方だ。拡張現実の技術を応用した仮想現実。凡そ、どこかのデータを流用したんだと思うが、照り返しのレンダリングまで再現するとは。狂気の沙汰だよ、まったく」


 九条の嘆息。許子には、言葉の意味が理解できなかったが、この光景が異常であることは大いに伝わった。

 ここは、ずっと夕暮れに沈む村。

 人の手によって造られた郷愁。その言い知れぬ不快感に、許子の心はざわついた。


「あの、これって眼鏡を取ったらどうなるんですか?」

「多少は処理が落ちると思うが、基本的には同じだと思うよ。ログインした人間全てに見えるようにしている指向性ホログラフィーだからね。ログアウトすれば、元の夜の風景に戻ると思うが、生憎、僕がいないと再度ログインするのは難しいだろう」


 許子が機械に弱いから、という制約以上の技術的問題があるらしい。


「それで、改めて説明するけど、猪原君、今の君は中々に面白い状態にある」

「面白い、って、誰のせいでこんな事になったと思ってるんですか」


 先に亡くなった花田のアカウント。九条の手によって偽装され、今では許子を排他的フォーラムへと運び込むトロイの木馬となった。その一方、死人の衣服を身にまとうようななんとも言えない気味の悪さも、許子は感じている。


「識別IDは隠してあるから、他の村人からは普通の猪原許子に見えるはずだ。だからこそ、君はフォーラムに接続していることを悟られないように振る舞え」

「振る舞えって言われても、私はまだ現状が良く飲み込めてないんですけど」


 許子の小さな不平には耳を貸さず、九条は言葉を続ける。


「まず視界の左側にいくつかアイコンが並んでいるだろう。そう、その緑色の文字列だ」

「え、九条さんも見えてるんですか?」

「ああ。僕は眼鏡を通して、君の視界をモニタしている」


 ある意味では究極の覗き見趣味だ、と許子は心中で毒づく。


「それで、アイコンの上から三番目に視線を合わせて。そう、そこで指でサイン。よろしい、上出来だ」


 つい先日覚えたばかり、とは口が裂けても言えない。

 一方で、九条の指示通りに操作を続けていくと、視界の端に人物名が連なった名簿のようなものが浮かび上がった。便利なんだろうが、つくづく度し難い機能である、と許子は漫然に思う。


「それが今、この二ツ山村のフォーラムに接続している人間だよ。誰がログインしているかは、他の誰からでも解るようになっている。で、数はどうなってる?」


 促されるまま、空中に浮かび上がる名簿のようなグラフィックを視線と指の動きで操作していく。「すべてを選択」を選ぶと、総数として五百十二人分の名前があることが解った。


「なるほど。それじゃ聞くが、二ツ山村の人口は?」

「え、そんなの知りません」


「それは君、市の職員として下調べぐらいしておきなさい」

「ご、ごめんなさい」


 少し強い口調で叱られてしまった。流石に不用意であったと反省する許子。


「いいさ、二年前の国勢調査で出た数字が五百十二、だ」

「そ、それって」


 ――まったく変わっていないではないか。


「そういうことだ。フォーラムに接続している人間と、村の人口は全く同じ」

「村人全員がログインしてる、ってことですか?」

「それ以上に厄介だろう。なにせ老人連中ばかりの村、二年も経てば、十数人は亡くなるはずだ。少なくとも花田氏と三神氏は鬼簿帳に載っている。だのにログイン数は変化していない。自ずと答えは出てくるな」


 薄ら寒くなった。

 この村にあるのは、変わることのない夕暮れと、さまよい続ける亡霊。許子は恐る恐る解答を口にする。


「死んだはずの人間も、外部には死者として計上されていない」

「正解」


 許子は先程見た、墓場の光景を思い起こす。

 死んだはずの人間が、機械になって、映像だけになって、生者と混じって村に暮らしている。死を待つだけの村は、それを超越し、生者と死者の見せかけの共存をもたらした。


「市の方も、二ツ山村で死者が出ていることを把握していない」

「死亡届を出さないで、年金を不正に受給するとか、そんな事件があった気がしますけど」


 許子の僅かな思い付きは、九条の短い溜め息によって否定された。


「僕も最初はそう思って、その線から調べたことがあった。しかし、どうにもそっちからでは一向に尻尾を出さなかった」

 だから君にこんなことをさせる、と九条は詐欺師めいた甘い言葉を吐く。




 詐欺師の甘言に乗せられて、許子は夜の帳――色を違えたそれだ――が下りた村を練り歩く。月の光る茜空のもと、まるで自身が死者になったかのように。カアカア、とどこかで不気味にカラスが鳴く。母の作る夕餉の優しげな匂いが漂ってきそうな、午後五時の鐘が永遠に鳴り止まぬ村。あまりにアンバランスで、冒涜的なセカイ。

 冷や汗を垂らしながら油断なく歩を進める許子の横を、ランニングシャツ姿の少年がふたり走りすぎていく。羽虫を追いかけていたようだ。老人しかいないはずの村に、子供の姿。顔はよく見えなかったが、充分に驚愕する事実だ。いや、事実ではないのだろう。ここは仮想だ。ヴァーチャルが支配している。


「子どもの頃に戻っているんでしょうか」老いが求めるのは、若さだけだ。

「生前の3D写真などが残っていれば難しい技術じゃない。データ量は増えるだろうがね。ただ……」


「ただ?」

「何でもない。不安を煽るだけだ。気にせず進んでくれ」


 九条の歯切れの悪い態度に、むしろ恐怖心を植え付けられた許子。とはいえ、進むほかない。

 そうして村を歩いていると、遠くから声が響いてくる。ぼやけた調子の音。老人とも子供ともつかない、ノイズ混じりの歓声。顔を向ければ、材木所の空き地で子供達がぼやけた影となって遊んでいる。駆け鬼、銀玉鉄砲、あるいは名も知らぬヒーローを名乗りポーズを決める。彼らは許子の方に意識を向けることなど無く、それぞれが完結した思い出の中で泳いで回っている。月の暈が、夕日の色と重なって歪む。


「そこの人、良ければ碁の相手をしてくれんか」


 声に許子が振り返ると、商店の軒の下に色の剥げたベンチがあり、そこに老人が腰かけていた。麦藁帽をかぶり、団扇を扇いでいる。老人を無視して、アイスの詰まった――それが本物かはもはや区別の無い――縦開きの冷凍庫に、子供が群がっている。


「あっ」

「言葉は返さないで良い。適当に笑顔を向けて流しておけ」


 九条の言葉が飛ぶ。許子は言われた通りにし、その場から足早に立ち去った。


「あの人は、本当の人なんでしょうか」

「BOTと生きた人間の区別なんて、その村だと無意味だろうな。映像を通してだと、僕から見ても解らないしね。気になるなら、近づいて触れてみれば良い。もしかしたら透けるかもしれない」


 頭を強く振って、その提案を拒否した。

 用意されたパターンのなかで、繰り返し繰り返し語り合う、老人を模したロボット。死してもなお現世に縛り付けられた彼らは、今やこの天国を彩る風景インフラストラクチャに過ぎない。

 許子は、地に足の付かない感覚に、次第に恐怖を覚え始める。


「く、九条さん……この辺にしときませんか」

「落ち着け。お化け屋敷にでも入ったとでも思えばいい。いつでも出られる」


「やっぱり怖いじゃないですか……いいですよね。九条さんは。ふもとの宿で映像を視てるだけですもん」

「怖くないといえば嘘だ。ホラー映画を鑑賞してる気分さ」


 そういって一頻り笑った。彼のツボがわからない。それとも、彼なりに楽しい気分にさせようと努力してくれたのか。だとしたら逆効果だ。殺意しか芽生えない。


「さて。少し、そこの辻を曲がって、三軒目の家に向かってくれ」


 九条が言うのと共に、眼鏡の端までフギンが飛び、その下方に矢印が現れる。これによってナビゲートされるという訳だ。


「その家だ。そこに用があるから、遠慮せずに入ってくれ」


 許子は不安に苛まれながらも、矢印が示す家屋の門を叩く。自らの恐怖心を払うつもりで。しかし、現実世界では午後九時を回っているはずだ。失礼ではないかと逡巡している間に、戸が開いた。


「父ちゃん、お帰り」


 許子を迎えたのは、老婆の顔を貼り付けた振袖姿の少女。


「うわああ!」


 思わず二、三歩引き下がる許子。彼女の顎あたりを見つめて、同じ文句を繰り返す老いた少女。思考停止に陥った許子を、九条が助ける。


「安心しろ。BOTだ。ここの家屋も、リアルでは住む人間は居ない――思った通り」

「な、何が思った通りですか! 先に言ってくださいよ、もう……」


 涙目になった許子はへなへなとその場に崩折れる。フギンとムニンが、彼女の肩に止まり、頬をつついた。映像的なもの。チクチクとはしないが、だからといって現実感は喪失していない。これは夢じゃない。


「その家は花田氏の家だよ。君の目の前にいるのは、先に亡くなり、既に供養された彼の伴侶だ」

「伴侶、って……」


 許子の目の前に、皺に塗れた笑みを浮かべ、朱色の振袖を翻す幽霊がいる。少女の首を、白髪混じりの老婆の物に挿げ変えたような、異形の姿。

「その恰好は、花田氏の奥さんにとっては思い入れのある姿なのかもしれないな。それか、それらしいものをスープのデータバンクから借りてきたか。どっちにしろ、若い頃の顔までは用意できなかった、あるいは老いてからの写真を流用しているんじゃないかと予想していたが」


「予想が当たって良かったですね!」


 上司に怒鳴り散らしても、少女は消えない。

 九条もまた飄々とした態度を崩さず、事務的な指令のみを告げる。許子としても、残念ながら、唯一の現実は彼だけであった。


「さっきからフォーラムの構造を解析してるんだが、どうも特定の領域エリアに鍵がかかっているみたいなんだ」

「どういうことですか?」


「いま猪原さんが見ているのは一般信者向けの交流用フォーラムと仮定しよう。恐らくその下部に、もう少し踏み込んだ信仰活動をする――教会のような場所が存在するみたいだ」

「そこに入る方法を探せ、と」


 許子はチラリと家屋に視線をやる。

 更なる迷宮への落とし穴が――口を開けている。


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