5-12)おじちゃん

「……あ」

 叶子の声で、横須賀は目を見開いた。一緒に、その白んだ手も開かれる。どさりと落ちた音に視線を落とせば、新山が喉を押さえてぜえぜえと呼吸を荒くしていた。

 指先がしびれている。肩で息をする新山に、先日の山田が重なった。

 血の気が引く。

「お、おれ……」

「だいじょうぶ。ね」

 叶子が横須賀の近くに並ぶ。冷や汗が吹き出て、横須賀は揺れる視界をなんとかとどめた。

『横』

「あ、すみませ」

『落ち着いたなら良い。そのクズ野郎は放っておけ。向こうが』

 そこで言葉が切れた。理由がわからず不安になる。山田は横須賀と違いイヤホンをしていないので、連絡するためではないだろう。続きを問おうとして、しかし見上げる新山の目つきに横須賀は声を呑んだ。

「は、はは、馬鹿な奴」

 またあの話になるのなら、聞かせるわけにはいかない。横須賀は叶子の腕を引いて、視線を外す。

「……出ます。貴方の話を、俺は聞けない」

「そいつは化け物だぞ!!」

 叫んだ新山を、横須賀は見下ろした。何を言っているんだ、というのが正直な感情だろう。あの黒を知っている。だからおそらくそれを言っているのだろうとは思うが――それでも横須賀にとって化け物は、新山の方だ。

 自分の欲望のために、十年以上も。考えたくもない。恐ろしい。吐き気がする。ひどくざわざわと肌が粟立つ強い感情がなにか横須賀にはわからない。息が詰まる。頭が痛い。

 新山が立ち上がる。赤い鬱血は横須賀の罪悪だが、案じるよりも警戒する心地の方が強かった。自身の非道さをこめかみが責める。

「そいつは化け物の入り口だ、箱だ、窓だ。そいつの薬さえあればいい。化け物が神だとか俺はどうでもいいんだ、それさえあれば俺は認められる。化け物なんざ」

「おとーさん」

 叶子が静かな声で呼ぶ。新山の目は叶子を見ない。ふらりと近づいた新山から隠すように、横須賀が叶子を扉の端にやる。

 結局聞かせることではない。横須賀は扉に手をかけた。

「俺の道具を盗るのもいいが、どうせそいつは帰ってくる。アンタは化け物に突っ込んで食われるんだ、は、はは」

「おとーさん」

 諫めるような叶子の声は届いていないのだろう。横須賀はしかめた眉を申し訳なさそうに下げた。

「ごめんね叶子ちゃん」

 抱えてしまおう。そう考えて横須賀が叶子の腕を引くが、叶子は動かない。じっと新山を見上げる瞳は、真っ黒だった。

「時間になったら帰ってくるんだろう、叶子。お前は俺の為だけだからなあ。その為だけに生まれた、あのババアもよくやったよ。はは、化け物に会いに帰って」

「おとーさん、ちがう」

 はっきりと叶子が言い切った。新山がぴたりと笑いを止める。眉をひそめた叶子の瞳は、感情を語らない。

「ばけものじゃない。かみさま」

 叶子の言葉に、新山が顔を歪める。横須賀は扉に置いた手に力を込めた。

「ああ、神だ。それだけは正しいさ。化け物の神だ」

「だめだよおとーさん」

 新山が近づく。横須賀は叶子の手を強く掴んで、今度こそ引き寄せた。これ以上は不毛だ。山田のことだって気にかかる。さらったと騒ぎ立てるなら問題だが、帰ってくると言っている分には何とかなるはずだ。

 扉を開ける。ごう、と、風が吹く。

「俺に利用される為だけの神だ! お前もあの化け物も、俺の為に」

 黒が、新山の体を飲み込んだ。

「え」

 ひゅ、お、と。空間を裂く音と自身の呼吸音が重なった。瞬くことも出来ない。

 あの大きな、そこになにもかも残さないような黒が津波のように。それでいて絡む触手で補食するようにして新山に押し寄せた。黒が重なった場所はなにもかも失われたようで、細切れにはなっていないはずなのにバラバラに見えた。見開かれた瞳が横須賀から叶子に移る。ぐちゅ、ごり。音が遅れて聞こえた。

「だめっていったのに」

 叶子が横須賀の腕を引く。よろりと屈んだその体に手を置いて、叶子はコードを引っ張った。イヤホンが落ちる。リンが何かを言ったかもしれない。拾わなければと更に身を屈めると、真っ黒い大きな瞳が、新月の夜のように横須賀を見つめていた。

 黒い。ごず、ぐじゅ、ずる。ごり、じゅる、びちゃ。

 声が出ない。ぱきん、と、叶子がイヤホンを踏んだ。

「きょーこね、おとーさんのお願いを叶える子、だったの」

 ひゅ。勝手に浮かんだ恐ろしい妄想に息が苦しくなる。ぞわりと粟立つ肌と、鼻の奥に酸味が上る。

「おとーさん、きょーことあそんでくれなくてね、いそがしーの。でもね、お願い叶える子、きょーこはいいこなの。いいこ、いいこ。ずーんもげーげーもがまんできる、きょーこはつよいこ、叶える子」

 歌うように紡がれる言葉はあまりにも惨い。横須賀の表情を見て、叶子が眉を下げた。黒い瞳の中の情けない顔はひどく頼りない。

「おにーちゃん、やっぱりいたいいたいするのね」

 いいこ、いいこ。叶子が横須賀の胸を撫でた。ず、ず、ず。黒が引いていく。

「きょーこはだいじょうぶ。おとーさん、かみさまおこらせた。おとーさんわるいこだったからだめ。かみさまはね、かみさまなの」

 横須賀の胸を撫でていた細い指が、心臓の上で止まる。

「おとーさん、たまにほめてくれるの。でもね、どんどんかみさまにひどいこというの、きょーこにばけものいうの。かみさまはかみさまで、きょーこは叶える子なのにね」

「きょうこちゃん」

「うん、きょーこは叶子」

 心臓の上。ポケットの異物を叶子はこつりと叩いた。横須賀が体を強ばらせる。

「かみさまは、きょーこにごほうびをくれるの。おじちゃんは、いつもいいこいいこいってくれる。だからきょーこ、おとーさんいなくてもさみしくない、よ」

 最後の言葉は本心だろうか。落とされた声と視線で、おそらく横須賀はその内心を悟る。しかし指摘しても意味はないだろう。新山はいない。そして居たところで、あんなことをしてきた人間に縋り続けることは不毛だ。

 それよりも、引っかかることがある。

「おじちゃ、ん?」

「うん、おじちゃん。おにーちゃんのおじちゃんじゃなくて、かみさまのおじちゃん」

「神様ってこと?」

「ちがう、かみさまとおはなしするの」

 誰だ。その疑問を口にする前に、横須賀は叶子の手首を掴んだ。叶子が長い睫をぱちりと揺らす。

「いかなきゃ」

「おにーちゃん、いっしょにいく?」

「え」

 外に出る意味で言った横須賀に返った言葉は少しずれていた。一緒に。外に遊びに行く状況でないと叶子が理解しているかはわからないが、叶子の言う一緒には遊びにとは別だとわかる。遊びであれば、疑問で返す必要はない。先ほど約束したのだから。

 ならばどこに。

「おにーちゃんいたいいたい。きょーこはお願い叶える。おじちゃんがね、いいこいいこしてくれる。おにーちゃんおなまえないない、かわいそーだからね、きょーこのだから、いっしょにお願い叶える子、する?」

 叶子が反転する。するりと抜けた手首をあわてて握り直し、左手で踏まれたイヤホンを拾い上げた。扉を出る。かび臭い。

(かび?)

 なんで。その疑問は、もっと大きいものに塗りつぶされた。開けた扉の前にあった正面の壁が、ぽっかりと空いている。まるでそこだけ別の入り口のようで、洞穴のようなその場所には黒がびしゃびしゃと跳ねている。

 先ほどの黒が現れ、引いた場所。逆側からと言った山田の声が浮かんではじける。逆もなにも、もうここは真正面だ。

「おにーちゃんも、いっしょ」

「だ、めだ、よ」

 引かれた手を、引き返す。叶子がきょとりと瞬いた。

「だっておにーちゃん、ないない」

 胃の内側にちくちくと針が刺さる。知っている。横須賀は、実感でもって知っている。叶子のような環境にはいなかった。それなのに横須賀は、叶子以上に求められなかった。

「きょーこといっしょ」

「一緒に、なら、こっちにいよう」

「だれもいないのに?」

 真っ黒い瞳が、横須賀を映す。喉がはりつく。眼球が乾く。

「……俺は、目、だから」

 喘ぐように横須賀は声を絞り出した。いなくても問題ない、肝心なときに使われない。それでもいたら便利だと、使ってやると、山田は言う。だから。

「きょーこは、目じゃない。叶えなきゃ、叶子じゃないの」

「ごめん」

 身をよじる叶子を抱きあげる。逃げ出されたら追えない。山田がせっかく終わりにすると言ったのに。結局あれからどうなったのか。

「だっこはこんどでいーの、ね、おにーちゃん、おじちゃんが」

「ごめん、あとで」

「なにが?」

 穏やかな声とともに、叶子が腕から抜け出した。横須賀が振り返ると、壮年の男が笑んでいる。

 はくり。声を出せない横須賀に、男は首を傾げた。

 蛇のような瞳は、叶子と同じ黒。それでいて夜空と言うよりはがらんどうの、まるであの気味の悪い黒いなにかを思い出すような、すべてを塗りつぶす色。

「おじちゃん、ごめんなさい。おとーさん、おこられちゃった」

「ん? ああ、仕方ないよ。彼は君と違っていい子じゃなかったしね。はやく開けすぎちゃったこっちも悪いさ」

 男が叶子の頭を撫でる。叶子が目を細め、男の首にしがみついた。

「君は誰だろう。誰だっけ」

「え」

 男がううんと首をひねる。瞳は蛇のようであるが、しかし美しい顔立ちだった。壮年であるということはわかるが、想定できる年齢よりも顔立ちは人形じみていて、皺ですら彫刻の芸術じみたものがあった。通った鼻筋の下、薄い唇が弧を描く。

「ああ、たっくん」

「へ? 違います」

「そうかそうか、じゃあ」

「おじちゃん」

 なにやら勝手に合点いった様子で横須賀に手を伸ばした男に、叶子が声をかける。ん? と首を傾げる男は、穏やかなのになぜだか目を離しがたい。

 笑っているのに、ずっと蛇の目がこちらを睨むような心地。

「おにーちゃんは、だめ」

「だめ?」

「だめ」

 むい、と叶子が男の頬を摘む。男は笑いながら叶子を見ているのに、横須賀はまだ視線を外せない。

「一人は寂しいよ、治さなきゃ直さなきゃ、あの子が泣いている、なおしてかえさなきゃ、さみしいからつかわなきゃ、寂しいよ、準備しなきゃ、なおさなきゃ、そうだあのこがね」

 穏やかに笑ったまま、男が繰り返す。だめーと言葉の合間合間に叶子が言うのだが、男はお構いなしに繰り返した。

 駄目だ。叶子の言葉とは違った意味で、横須賀はその言葉を内側で呟いた。叶子に手を伸ばす。

「すみません、その子、俺が」

「君は誰?」

 横須賀の手首を、男が掴む。笑っている、のに笑っていない。ぬとり、と手首を伝う。

「あ」

 ぬらぬらとした液体に、黄色が重なる。ぶわ、と吹き出た情報が横須賀の肺を圧迫し――しかし、止まる。

 これは違う。

「なに、が」

「なに? なにこれ、なに? ああ、ああ、準備がたりないんだった。準備しなきゃ、あれは誰だっけ? はやくしなきゃ、なくなっちゃう、なおしてかえすんだよ。さみしいからつかうんだよ。使う。使ったらなくなっちゃう。返す? 返すってどこだっけ。そう、そう寂しいからね」

「……叶子ちゃんを、返してください」

 支離滅裂でどうしようもない。言葉を遮るように、横須賀が低く声を出した。返して、という言葉に叶子がぱちりと瞬く。

「この子は君のじゃないでしょう」

 男の言葉は支離滅裂なのに、突然戻ってくる。はっきりと断じられ、横須賀は息を呑んだ。

「君のものなんてあるの?」

「おにーちゃんはきょーこので、きょーこのおにーちゃんのはおじちゃんなの」

 叶子の言葉に横須賀が青ざめる。そうだ、山田は。新山と話をしようとした山田はどうなって。

「おじちゃん?」

「むこーの」

 叶子が秋のいた場所を示す。ああ、と男は目を細めた。

「なおしてかえさなきゃ、みつけたんだよ。ようやくだ。寂しがるからね、泣いちゃうからね。その為には準備がいるんだ。寂しいのは可哀想だから、もう一度、今度こそ。使ってあげなきゃね。まだ準備が足りないんだ。つかったら返さなきゃ。返す? 誰に? 誰だっけ、誰だっけ。君は誰?」

 男が横須賀を見上げて尋ねる。ぐじゃり、と手が離れ――

 横須賀の手首にあるのは、赤。

「今度こそおしまいにしないと、泣いちゃうからね」

 非常ベルの音、人の足音。そして。

「随分違ったからびっくりしたよ、――」

 男と叶子が黒い世界に消え、横須賀は第三安置室に駆けだした。

 カビ臭さに混じった鉄の香りを掴もうとするように。

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