4-13)直臣

「ぁ」

 小さなしゃがれた声。とん、と扉を押さえた音。

「入るよ」

 声は穏やかなままだった。ぅ、という小さな声は、そのまま部屋の中に消える。

 爪が扉を叩く音が一度響き、横須賀はそちらを見た。小さな首肯。待て、という意味なのだろうか。身動きがとれないまま、横須賀は両手で指をすり合わせた。

「ぉぉきぃ、ひとは」

「……そこにいる。二人も入ると怖くないかい?」

 少し布の擦れる音。

「へぃき」

「そう」

 言葉に横須賀は逡巡するように視線を巡らせた。

 秋山は戻らない。見るな、と言われている。けれども相手の言葉から、先ほどの話のような危険性は見つけられない。

 不可思議なのは、声がひどくしゃがれていることくらいか。十五にしては幼い声なのに、同時に十五にしては声が年老いているようにも聞こえる不可思議な音。

「お前も来るか?」

 山田が部屋から顔を出す。疑問の声に一度部屋と山田を見比べると、首肯が返った。先ほどの言葉と、それでも子供の声がぐるぐると巡る。いいのだろうか。その疑問をどうとする事も出来ず、それでも首肯に従うようにして横須賀は山田の傍に近づいた。

 すん、と臭いが鼻につく。すえたような臭気は湿気を含んでいて、消臭剤の香りと混ざって少しこめかみが痛くなる。不思議な臭いと湿度は部屋全体を停滞しているようで、気づくとどうにも落ち着かない。強すぎて耐えられないわけではないが、ひどく淀んだ腐臭が満ちている。

「ぉぉきぃ」

 見上げるような声。びくりと身を屈めるが、あまり意味はないだろう。申し訳なさで眉を下げる。

 部屋の中にも関わらず子供は少し体に大きいだろうフードをすっぽりとかぶっていた。まだ成長期がこないのか、背は山田より小さいようだ。夏なのに厚ぼったいトレーナーが体型を隠すので、体格はどうなのかまではわからない。どちらにせよ違いは少しでしかないだろう。

 山田がするりと部屋の中に入りきる。

「大きいけど、怖い人じゃないよ」

「ん。やくざさんじゃ、なぃんだね」

 子供の言葉に、ふ、と山田は笑った。横須賀も中に入る。山田がぐいと押し開けた扉は開いたままで、子供が少しそちらを見た。

「悪いけど開け放させてもらうよ。なにか止められる物あるかな」

「じてん」

「借りるね」

 とん、とん、とん。大きな昆虫図鑑、植物辞典、国語辞書が扉が閉まらないように扉の前に置かれた。元々ある程度開ければ止まるようになっているようなので、念のためなのだろう。子供は落ち着かなそうだが、しかし止めずなにも言わなかった。

「どうもありがとう。一応ね、私もやくざさんじゃないよ」

「そぅなの」

「うん。ちょっと見た目が怖いかもしれないけど、まあ君と似たような理由だよ」

 子供が少しだけ固まる。それからフードの裾を握り俯いた。

 握る手は袖に隠れている。すっぽりと覆われているので、実際はどうかわからないがまるで手袋をしているようだった。長ズボンも随分大きすぎるようで、裾を踏んでいるから足も見えない。

「まずは君の勇気に感謝を。直臣くん、私が君に語ることはさほど多くない。許されているだろう時間もね。単刀直入に言うよ。私たちは君を連れ出したい」

 子供――直臣は足を半歩だけ擦り下げ、しかし停止する。山田は直臣を見下ろし、横須賀は視線を本棚に向けた。

「理由は、わかっているね」

 直臣が頷く。しかし、頷いたまま顔を上げない。

「つかまっちゃぅ」

「保護だよ。君のそれは、君の意志だったかい?」

「ぉばぁちゃん、は」

「……おばあちゃんが捕まってしまうなら、動かない?」

 静かな山田の声は固い。一つ一つ確かめるように直臣の調子に合わせながら尋ね、直臣はフードをそのたび強く握る。

 声を聞きながら、下の棚から順に本棚を見ていく。まず目に付くのは図鑑。蝶、野草、動物、鳥。世界地図、日本地図もあるようだった。そうして近くにはファーブル昆虫記、ドクタードリトル、名犬ラッシー、といった児童書。ある意味、持ち主がそのままでている本棚。

「つかまっちゃぅのはやだけど、そのまま、は、もっとやだ」

 ひゅー、と、どこからか空気が漏れるような高い音といっしょに、しゃがれた幼い声がこぼれる。うん、と山田が小さく頷いた。

「いい子だね直臣くん」

「ぃぃこじゃなぃよ」

 優しい声に、ぺしょん、と悲しげな声が返る。うん、と山田はもう一度頷いた。

「だとしても、今私にとってはいい子だよ」

「ぅ」

 ひゅ、ひゅ、ひゅ。漏れる音のリズムが狭い。まるで泣きそうな音だ。

 横須賀は首後ろを中指の腹で押しながら本棚を更に眺めた。上の棚はあまり使っていないようだ。背から考えて当然だろう。小学校の教科書、ノートなどがそのまま並んでいる。下の棚と違ってきっちり本の背表紙が揃っていた。

「でも、ぼく、ぼくじゃなぃ、のが、ぁる」

 不可思議な言葉に、横須賀は二人に視線を向けた。ちょうど山田が顔を上げたところで、顎で本棚を示される。

 視線を戻せば、山田がうん、と頷く声が後ろで落ちた。

「でもそれは君が選んだ訳じゃない」

「けど、ぼく」

 とつり。つっかえた言葉がそのまま止まる。本棚の上、右隅には黒い背のノート。

「かぇすのも、こわぃ」

 しにたくない。しゃがれた声で響いた音は、ひどく暗い。背筋を這うような低音。子供らしくないその音に、うん、と山田はもう一度頷いた。

「死んじゃうのは、怖いね」

 ひゅー。空気の漏れるような音がまた響く。首後ろがざわざわとして、横須賀は手のひら全体で撫で押さえた。

 意識がそちらに向いて、うまく見ることができない。

「でも、こわぃ」

 続いた声に、今度はなにも返らない。山田が言葉を待っているのだろう。しばしの間。つん、と、漂う臭気が濃くなったように感じた。

「おじちゃん」

 布の擦れる音。強ばった声。

「ぼく、ぃってぃぃの。ぼく、へんだよ」

「ここにいてほしくないから、付いてきてくれるなら嬉しい、かな」

 山田の声は相変わらず優しい。ずー、と、異音が響く。

 しばしの間。布の擦れる音、と、ぱさりと落ちた音。臭気。

「……へぃき?」

 床を叩く音がひとつ。心臓が一緒に鳴る。本棚を見据える。それでも落ち着かない。

 見ないことが不安で仕方なかった。

 息を吐く音が小さく響く。

「ああ」

 返事には足りない。それでも同意を示す音に混ざった意味がなにか、横須賀にはわからなかった。ただ山田が警戒したことにはなっていない。それだけを察する。

「いたいね」

 もう一度布の擦れる音。

「へぃき。でも、わかんなぃ。おばーちゃんは、かぇなきゃって」

「うん」

「かぇせなぃ、けど、かぇるのもこわぃ」

「うん、君は賢い子だね」

 かぶせるよ、と山田が続けた。布の音で、おそらくフードをかぶせたのだとわかる。同時に、山田がその顔を見たことも。

「こわぃ、ばっかりなんだ」

 もごもごと直臣が呟く。黒い背表紙のノートは本棚で奇妙に浮いていた。教科書と並んだノートはパステルカラーでそろえているのに、これだけが黒。

「くずれちゃぅからなぉさなぃとってぃぅけど、でも、ひとの、で。ぼくのはどんどん、くずれてくんだ」

 ノートをとっていいのか悩み、そっと山田と直臣を伺い見る。フードをかぶったままの直臣を、山田はしゃがむようにしてのぞき込んでいた。

 声の調子から予想したように、おかしなところはないようである。直臣は顔を上げないままで、横須賀はそっと本棚に手を伸ばした。

 すごくいけないこと、だと思う。横須賀は人のものを勝手に見ることが苦手だ。

 それでも部屋の持ち主に見合わず、唯一浮いたようなその背が誘う。

 黒が、呼んでいる。

「くずれて、かぇちゃって。ぼくのはなくなって。そしたらぼくは、なんだろう」

 子供には届かない高さでも、横須賀の上背ではノートにあっさり指が届く。ざわり、と、まるで指の腹を撫でるような背表紙の感触に首後ろが落ち着かない。

「ぼくのぅではだれかの。ぼくのぁしも、だれかの。きっとこのままだと、めも、ぁたまも、くずれちゃぅとかわって、それは、こわぃ」

 ノートを開く。黒。ミミズがのたくったような、という言葉が比喩でなく実際に思えるほどぐずぐずと黒鉛でつぶれた文字。それは文字と行って良いのだろうか。記号と言うべきか、絵と言うべきか。それとも黒でしかないのか。

 声が遠ざかる。

「ぃっしょに、ぃきたぃ、ぃく、けど、でも、けど」

 ひゅー。ひゅー。遠くで、音がする。ページをめくると、見慣れた文字があった。日本語。文字を追う。

「ぼくは、ほんとぅに、ぼく?」

 遠い場所で響く直臣の声と、部分転移の呪文、という文字が重なった。

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