3-5)決まり事

「ありがとう、ございます」

 は、と吐き出された息と謝礼に、横須賀はいえ、と小さく返した。それから机の下に一度蓋を下げると、親指の腹で蓋の縁をなぞるように拭う。

 衛生的に考えればハンカチやティッシュで拭うべきとは思うのだが、流石に目の前でそういう所作は失礼だろうと考えるのでそうすることはない。別段横須賀自身潔癖でもないので、余計そうすべきという考え方がないのだろう。横須賀は几帳面すぎるほどメモを取るが、本人自身は愚鈍なところが多くあった。忘れるからメモをする、と言うことを考えると、実のところその愚鈍さを補うために生まれた処世術が彼にとってのメモなのかもしれない。

 だからこうして蓋の縁を拭うのは、衛生的な問題ではない。自身が飲んだときも必ずする所作で、こうやって水滴を拭っておかねば鞄の中の紙が濡れるかもしれない、という考えからの、特に意味のないなんとなくの習慣じみたものである。そうして拭った指を左手のひらに押しつけて水滴を無くし、水筒の蓋を閉めた。

 それから改めて水筒全体にも濡れがないか確認して鞄に入れる頃には、代田も少しは落ち着いたようだった。

「美幸が、自転車はおうちがいいと。そう言いました。すべてをとのことでしたが、美幸の願いを少しでも叶えたくて、あれは友人から借り物、と偽ってあります」

「それだけ聞いてもひどく奇妙な祭りですよね。電話でも伺いましたが、貴方はなぜそう従ってしまうのです?」

「……妻が」

 ぽつり、と代田が呟く。妻。知らないと言うことになっている、もう一人の子煩悩な親。

「妻が言うんです。決まってしまったことは仕方ないと。今回の件、実は、依頼をするのも随分止められました。あんなに美幸を愛していたのに、なんでそうなのか私はわかりません。何度も説得して、貴方の言葉もあってようやく、です」

 理解できない。そう言うように深く吐き出されたため息を、山田は見下ろす。

「奥様は知らないことにしておく、というのは、奥様を巻き込まないためではなく、奥様がこの土地を裏切れないからですか?」

「裏切れない……そうなのかもしれません。私には理由がわからない。呼んでもいい、ただし娘を祭りからは外せない。そうなっているのだと言われました。なにか行動するなら教えるように、と。……妻は知らないことにして貰っています。が、私は、今、その妻に伝えることがそもそも恐ろしい」

「だから畑を選んだ」

 代田が頷く。ふん、と山田が鼻を鳴らした。

「確かに今回が初めてでないのなら、奇妙なものです。毎度毎度、祭りの度に子供が一人いなくなる、そういうものが繰り返されていることになる。その癖貴方が知らなかったということは、警察が入ってきたこともなく、地元でない人間なら婿入りですら気づけないということ、だ。貴方の判断は間違っていないでしょう。さて」

 山田がそう言って、足を組んだ。ぎ、と椅子に体を預け、代田を見上げる。

「他に言うべきことはありませんか? 我々がすべきはお嬢さんの保護ですが、祭りについて出来る限り子細に知らねばなりません。余所者の貴方がどこまで知っているか分かりませんが、言い残しをされると面倒だ。それと、なにかその祭りについて調べられる場所があればそれが知りたい」

「ええと、そう、ですね。祭りまでの一週間、娘は神社に捧げられた水を飲むように、と言われていました」

「水?」

 山田が聞き返す。はい、と答える代田の目は伏せられている。しかしそれは悲痛と言うよりは思い返すような所作で、閉じた瞼は小さく動いていた。

 水、という単語に、横須賀はペンを強く握った。左手のひらに虫が這うようなぞわりとした震えを持つ。かゆみともしびれとも違う感覚から目をそらすように、ぎ、とペン先を紙に強く押しつける。水、という文字は、その字に似合わず酷く重い、ノミで削るような文字になっていた。

「確か、先々週の水曜日……五日ですね。五日から、十二日間。廻り池神社に娘は毎日通うように言われました。夜が明ける前に廻り池の水を供え、夜が更ける前にその水を飲みに行くように、と」

「夜が明ける前と、更ける前」

 山田が繰り返す。十歳の子供がそんなに朝早くからと考えると途方もないことのようだ。そんなことを十二日間。それを指摘するような復唱に、代田は眉をしかめて頷いた。

「十歳の娘にそんな難しいことを、しかも十二日も。流石にそれは厳しいのではと言ったのですがそういう取り決めで皆やってきたと言われ……娘はよくやったと思います。朝三時に廻り池神社に廻り池の水を供え、夕方の五時半頃ですかね、必ず夕焼けの時に、とのことでした。曇っていても同じ時間です。雨は幸い降りませんでした」

「ということはお嬢さんは昨日の朝、廻り池神社へ?」

 昨日の夕方に降ったとされる雨を考えて山田は聞き返したのだろう。同じ県内ではあるものの山の中ということを考慮してか、出かける前に花田市若草のここ一週間の天気を確認するように言われたことを横須賀は思い出した。メモ帳を開けば昨日の十七時から一時に雨が降ったとの走り書きを確認できる。多少ずれはあるかもしれないが、地面が濡れているから雨が降ったこと自体は間違いない。

 代田も雨が降ったことを山田たちが当然分かっているものとしての発言だったようで、山田の言葉に特に驚くことなく頷いた。

「ええ。供え物は先に少しずつ運んでいましたので、最後の分も雨の前、昼頃には運びきりました。確か一時頃には終わったはずです」

「十三時、ですか。運ぶ時になにかなさいましたか?」

「特になにも。神社の中は私たちは見せてもらえません。組長と実行委員が中にいれたので、あの子がどうなっているかもわかりません」

 最後の言葉とともに、机の上で拳が堅く作られ、それからほどかれる。ほどいたあとも指先はぐりぐりと互いを握り押し、代田は一度息を大きく吐くと山田を見た。

「それから会長の家に提灯を提出したのが夕方五時。早朝に実行委員が飾り付ける間、私たちは外に出てはいけないことになっています。飾り付けが終わった報告に早朝の五時、組長が来て水を一杯飲むように言われました。お猪口に一杯、一口分飲んでます」

「それは前回の祭りもでしたか?」

「はい、あの子が神社にいるからではなく、確か前回もです。その家の家長が、とのことで私が飲みました。以前は随分朝早くに来るものだと思いましたが、あの子の時間を見ていると遅い位なのかもしれませんね」

 代田は少し気力無く微笑むと、それから机においた用紙にふれた。

「廻魂祭りについてですが、十三年に一度の割に会場自体はあまり大きなものではありません。こちらの地域ではお盆が新暦でして、お盆が終わった後に行う儀式的なものという印象でした。提灯を飾り、水を飲み、夜には祭り会場で抽選会を行います。会長が神社に向かって、おしまいですね。……ああ、特別当選者が会長と一緒に神社に行く、までが祭りなのかもしれません」

「特別当選者、ですか」

「ええ。特別の特に当選の当で、特当と言ったりします。発表が二十四時で、ずいぶん遅いんですが大抵の家から家長が出ます。時間も時間ですし、出店もないので子供たちはこの祭りに関わらず、習慣的なものなのかと思っていました」

 実際はその子供がずいぶんと儀式の要だったようで信じられない心地です、と代田が疲れた様子で呟く。でしょうね、と答えながらも、山田は眉間の皺を少し深くした。

「前回の子供がいなくなった件について、貴方は知らなかった。これまでの子供についても、だ。だからそう考えるのは仕方ないとは思います。ですが、本当になにもありませんでしたか?」

「はい。なにも。……前回の祭りに出た子は、不幸にも夏休みに水難事故にあったと聞きました。祭りの後ではなかったはずです。ただ、今思えばそもそも夏休みにその子を見かけることはなかったような気がします」

「そちらのご家族について聞きたい。家はどちらです?」

 山田がとん、と机を指先で叩いた。ハッとしたように顔を上げた代田は、申し訳なさそうに首を横に振った。

「引っ越してしまったので家はありません。連絡先もわかりません。名字は、名取。家長のお爺さんが将太さんで、ええと息子さんが確か史郎さんです。子供は何君だったかな……男の子です」

「そうですか。それなら十分です」

 それだけ言うと、山田が横須賀を振り返った。なんだろう、と見返す横須賀に、手が差し出される。山田が見ているのは横須賀のノートだ。ぱちくりと瞬いていた横須賀は、それに気づいて慌てたように小さくすみませんと呟きながら山田にノートを渡した。

 山田の眉間に皺が寄り、しかしなにも言わずにノートを開く。代わりのメモ帳と付箋を取り出して、横須賀は代田を見る。少し戸惑ったような様子の代田はそれでも山田を縋るように見守っていた。

「そういえば、いろいろと動いているのが組長と実行委員のようですが、こちらはどのように決まってるんですか」

 ページをめくりながら山田が尋ねる。読みながら声をかけられたことに驚いたのか、あ、と小さく声を上げた代田は、それから困ったように頭を掻いた。

「すみません、あまり詳しくなくて……基本的に、組長はローテーションです。だから実行委員もそのような形なのかな、と」

「会長もですか?」

「多分、そうだと思います」

 自信なさげに代田が答える。山田は顔を上げてニコリと笑い、少しだけ肩を竦めた。

「代田さんはお若いですし、町内の集まりにでる機会もあまりないから仕方ないでしょう」

「ああ、はい。自分くらいの歳の人間はやはり少ないですね」

 慰めるような言葉に、代田が小さく息を吐いて微笑む。働き盛りでは仕事で難しいですしね、と山田はその言葉を肯定するように呟いてまた顔をノートに向けた。

 ページが音を立ててめくられる。左手で斜めに立てるように持っていたノートのノドをそのまま押し広げると、右手はノートを撫でるようにしながら右下に落ち着いた。次のページをさするように持ち上げて、山田がまた口を開く。

「奥様のご両親は?」

「二十六年、前だったかな……妻が高校生の時に、流行病で亡くなったと聞いています。可哀想に、妻だけが無事だったようです」

「……わかりました、有り難うございます」

 山田の爪がノートの端をひっかく。山田が開いたページに代田が少し気にするように視線を送ったが、しかし代田の場所からでは見づらいだろう。

 開いているページは代田の家を記した場所だ。元々横須賀の文字は清書しなければ美しいとは言い難い、高い筆圧と小さめの文字なので机に広げても相変わらず見づらいかもしれないが、一応付箋や赤や青と言った色で補助しているので気になる点は目に入りやすいはずだ。それを防ぐために斜めに持っているのだろうか、とまで考え、しかしそうするとノドを開いた理由が思い浮かばないまま、山田がノートを閉じるのを見る。

「過去の新聞やこちらの祭りについて調べられる場所はありませんかね」

「過去の新聞はさすがに、図書館まで降りないと……祭りについてなら、公会堂にあるとは思いますが」

 言外に難しいだろうと言うように、代田が眉をひそめた。ちらりと向けられた視線は、先ほど代田の家のあった方向を見ている。

「承知しました。それらについてはこちらでどうにかしましょう。それと、動く前に貴方と私たちの関係を決めておきましょうか」

「関係、ですか」

 代田が伺うように繰り返す。ノートを膝上に置いた山田が代田を見据えれば、代田の背筋が伸びた。

 関係です。そう静かに復唱を肯定して、山田の手が机の上に乗る。両手を組んだ山田が、両肘をそのまま机につけて少しだけ体を前にした。

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