2-11)おすそわけ

「この時間だと庭は外からですね」

「ああ。さすがに見舞い客じゃないし目立つな」

「まあ中庭なんで探ってるのは普通にバレますが、庭だけならわざわざ表から行く必要もないです」

 病院の周り、というだけでなく、病院の壁に囲まれている場所だ。入院患者からはおそらくよく見える。叶子があの時見下ろしていたように、誰かが見ていないとは限らない。

「……俺一人なら少しはごまかせるかもしれないが、マツはそういうの苦手だからな」

「アタシはパワー型なんですぅ」

 小山が頭を掻くと、唇をとがらせて松丘が答えた。え、と見下ろす横須賀に、松丘は笑う。

 やわらかそうな小さい体を見るだけでは、パワー型という言葉がなかなか結びつかない。少し丸みのある頬をしているが、重量があるようにも見えないので非常に不可思議でもある。

「デカブツは見ての通り……目を考えると居た方が便利だが、まあいい。俺と小山刑事で行くか。どうせさほどかからねぇだろうしな」

「お留守番です?」

「駐車場戻って待っていろ」

 松丘が尋ねると、小山はため息をついて答えた。眉間の皺と山田を一瞥する様から、本意でないことがわかる。はぁい、と松丘が返事をして笑う。

「そういう訳で予定変更だ。そこのと待ってろデカブツ」

「はい。ええとノートは」

「確認だけだ。いらねえ」

「わかりました」

 横須賀が頭を下げると山田が先に行く。お前こっち見ないで歩くのやめろよ、と不満を言いながら小山が追うのを見送って、横須賀はもう一度警備員に頭を下げた。

 意外にも警備員はもう横須賀たちを見ていないようだったので横須賀の一礼はあまり意味が無かった。松丘が小山と山田を遠目に見てくすくすと笑っているのを聞きながら、横須賀は再度あたりを見渡す。

「じゃあ、戻ろうか」

「あ、はい」

 松丘の言葉に横須賀が頭を下げる。松丘は山田ほどではないにしても山田とさほど身長がかわらない程度に小柄だ。その松丘が横須賀を見上げるので、横須賀はいつものように背中を丸めて声を拾う。

「横須賀君はさぁ」

 松丘の声は穏やかで、少し高い声だ。跳ねるように楽しげな声は平塚の芝居がかった調子より自然で、山田の平坦な声より楽しげである。小山の声は山田に対する不満を含んでいたので平時の調子がわかりづらいものの、それでも横須賀自身よりも落ち着いていて、日暮よりもよほど感情の起伏がわかりやすいものだった。

 二人はある意味で自然な調子のようでもある。そうしてその調子のまま松丘に名字を呼ばれ、横須賀は続く言葉を背を丸めたまま待つ。

「昨日の事件の後すぐで、来たかったのはわかるけど大丈夫そう? ちょっとくらい待ってる間寝ててもいいよー?」

 間延びした疑問符でどんぐりの瞳が横須賀をのぞき込む。眠いでしょ、と自身の下瞼を指で示す松丘は優しい顔をしている。その所作につられるように自分の下瞼を隠すように触れた横須賀は、そのまま首横に右手を寄せるとますます申し訳なさそうに頭を下げた。

「えっと、クマ、は、元々、で」

 すみません。酷く恐縮した調子で謝罪すれば、ぱちくり、と松丘が瞬く。それからあわてた様子で手をわたわたと動かした。

「あーごめんコンプレックスだったかな? アタシもねー見ての通りこのそばかすがコンプレックスだから気持ちはわかるようんうん。でもねクマならうまくいけば治るかもしれないしもし眠れないなら」

「あー、おにーちゃんだぁ」

 松丘の流れるような言葉を遮ったのは幼いどこか舌っ足らずな少女の声だった。松丘がそちらを振り向き、横須賀は驚きで身を固くする。

 一瞬強ばった体をあわてて動かしてそちらを見れば、当然の顔で叶子がそこにいた。

 叶子の服装は昨日と同じ薄いピンク色のトレーナーだ。中央にかかれた太ったウサギと箒から落ちそうになる黒い猫のイラストが描かれた絵もまったく同じで、それから両手に相変わらず革手袋をつけていて――昨日と違うことは、手に持っている物とその服の状態だ。

 厚ぼったい革手袋が掴んでいるのは、大きくて底の深いスプーン。濡れた様子はないのでまだ使ってはいないということはわかる。そしてそのスプーンを握る革手袋から視線を動かせば、服の袖口はじっとりと濡れていた。袖口だけではない、運動靴もよくよく見れば水分を含んでいることがわかる。また、長いズボンの裾も膝小僧も汚れている。色がついてはいないもののその濡れ方はたとえば筆を持っていたら自然な気もするが、しかし何度見てもその手にあるのは大きなスプーンだ。

「えっと、知り合い? もしかして恋人?」

「ち、ちがいます! えと、知り合いでは、ありますがそんなんじゃ」

 どこか楽しげに聞かれて横須賀の顔が青ざめる。震えた声に松丘はえーざんねーんと笑った。

「おにーちゃんおにーちゃん、きょーこがみつけたおにーちゃんー」

 立ち話をしていた為、松丘と横須賀はまだ病院の敷地内にいた。そんな二人のそばに来てけらけらと叶子は笑い、横須賀に近づく。幼い叶子の様子に松丘は少し不思議そうにその顔を伺いみた。

 叶子の見目は美しい。うれしそうに笑う頬は紅潮しており、溶けそうなほどやわらかく細められた黒い瞳は愛らしく、体は女子高生特有の、幼さを残したまま大人の色を持っている。

 それでも叶子の言葉や声は、非常に幼い。幼稚園児か小学生のようなまま、横須賀にまとわりつく。

「おにーちゃんねれないのー?」

「え、っと、元々、で」

 松丘の言葉を聞いていたのか、叶子が横須賀をのぞき見上げながら首を傾げる。眠れていないのではなく昔から眠りが浅いだけなんだけれど、とは思うものの叶子にそこまで言うことも出来ずに困ったように眉を下げて横須賀が答えれば、叶子は一等上機嫌に笑った。

「じゃあおいで!」

「えっ」

 叶子が横須賀の腕を引く。どうすればと視線を巡らせば、叶子はそこでようやく松丘を見た。

「おねーちゃんいいでしょー?」

 大きな黒目がまっすぐ松丘を見据える。日の明かりをめいいっぱい取り込んでいるのに真っ黒な夜色の瞳は、猫の開いた瞳孔のようでもあった。

 その瞳の黒に見惚れかけた松丘は、しかしなんとか我に返った。

「えっ? あっ、いいよー。伝えとくねぇ」

 にこにこと松丘が頷いて答える。手を振って見送る松丘と先ほど山田たちが向かった庭の方を見比べる横須賀の腕を、再び叶子が引いた。

「おねーちゃんいいってー! いーこーうー」

「あ、うん、い、いきます。すみませんお願いします」

 松丘に頭を下げて横須賀が叶子について行く。どこに向かうのかと思えば、入り口ではなく階段に連れて行かれた。描かれたフロアの絵を写真を撮ることも出来ずに見送って、階段を軽快に鳴らす音を聞きながら横須賀はきょろきょろと周りを見、叶子を見る。

 叶子は連れて行く場所が決まっているのか、視線は真っ直ぐだ。横須賀がその後を着いていくようになっても腕を解かない。

「えっと、どこに行くの、かな」

「おすそわけー」

「おすそわけ?」

 なにを。そう聞くように横須賀が復唱し聞き返すと、叶子は得意げに笑った。しかし笑ってもらっても横須賀にはなにがどうなるのか見当が付かない。まさか叶子に薬が取り扱えることはないだろうしそもそも地下に薬局はないのだ。周りを見れば安置室があるくらいで、薬局以外も無いのではないかと思う。

 そこまで考えて横須賀は二度瞬いた。個人病院に安置室、というのは意外だったが、脳外科があるのでそういうものかもしれない。だから疑問はそこではなく――一階フロアと比べて地下は思ったよりも狭く感じられたことだ。地下駐車場に圧迫されているのならまだしも、この病院の駐車場は上だけだ。

「ここー」

「え、勝手に入っていいの?」

 言いながら腕を解いて叶子が扉を押す。扉の上を見れば安置室3、と書かれており、左手側には使用中の札が出されていた。文字に遮られるように横須賀が止まるが、叶子はお構いなしに中に入っていった。

「おにーちゃーん」

「あ、ごめ、えっと」

 扉が支えを無くしゆっくり閉まる中、叶子が不思議そうに呼ぶ声が響く。横須賀はしばし無意味に左右に視線を動かし、結局小さくごめんなさい、と呟くとその扉が閉まりきる前に支えた。

「失礼します」

 呟き頭を下げ、扉を押す。中に入ると、叶子が床に座り込んでいた。横須賀を見るとご機嫌に笑う叶子に微笑んで――横須賀は、身を固める。

「これ、」

 部屋に充満するのは、甘い匂いだ。林檎の香りが部屋いっぱいに存在して、息をするだけで肺を占める。

 そうして嗅覚を奪い去るように存在する香りと、床に広がる緑。

 横須賀の喉から空気がひきつったような音が漏れる。

 カツカツカツ。

 スプーンが床をひっかく音。床にこぼれた緑の液体を革手袋を外した左手とスプーンで叶子は掬っている。

 横須賀には、この光景の意味が理解できない。

「できたー」

 スプーンを掲げ、叶子は満足そうに笑う。スプーンを下から眺め見て、それから自分の目の前に引き戻すと中身を覗き見る。ゆっくりと右手を回すようにしてスプーンの中を揺らし、鼻を近づけ――それから叶子は、そのまま舌先を浸けた。

 赤い舌が緑に染まる。縁日でかき氷を食べたような色の舌を、叶子はそのまま口に含み直す。首を傾げ、喉を揺らし。それが舐めたのだと理解するまでに、横須賀は時間を要した。

「おにーちゃんきてー」

「え、あ、うん」

 左手をぱたぱたと振って叶子が呼ぶ。飛び散るしぶきが服につく。けれども何故か色はつかない。

「はい、どうぞ!」

 叶子のそばにしゃがみ込んだ横須賀の眼前に、スプーンが差し出された。甘い林檎の香りが強くなる。この緑の液体がおそらく香るのだ。

 ――横須賀は、この香りを知っている。

「えっ、と」

「これねぇ、おくすりなの」

 戸惑う横須賀に、叶子は穏やかに教える。まるで小学生が幼稚園児に大人ぶるような声で叶子は言葉を続けた。

「わるいところをなおしてくれるの。ほんとはきょーこだけなんだけど、おにーちゃんはきょーこのだからおすそわけ!」

 えへへ、と笑う叶子は愛らしい。真っ黒な瞳、長い睫。それが真っ直ぐ、横須賀を見上げている。

 無邪気な言葉だ。叶子の実際の年齢からは違和感があるかもしれないが、しかしその話口調から考えられる年齢からは非常に素直で愛らしい好意だ。

「きょーこのおにいちゃん、きょーこのだからだいじにするの」

 言葉の後、口元にスプーンが近づく。思わず身を引きかけた横須賀は、それでもぎりぎりで体を押しとどめた。

「おくすり、こぼしちゃったの?」

 横須賀が静かに尋ねる。叶子はきょとりと瞬いた後、首を横に振った。

「んーとね、こうなっちゃうの。きょうはきょーこだけだからいいんだけどね、これはじめてのときはもってかなきゃいけなくて、きょーこいれものにいれるの。たいへんたいへんするの。がんばったの」

 床に広がる液体をスプーンで掬うのは確かに至難の業だろう。スポイトかなにかがあればいいが、そういった提案をする、教える人間はいないのか。それとも、今日は、と行っているのだから以前はスポイトがあったのか。わからないが、しかし今聞くべき場所はそこではない。

 なにを聞けば最善かなど横須賀にはわからない。それでも震える喉をなんとかなだめながら、叶子を覗き見る。

「どこに、もってくの?」

「おとーさん!」

 きらきらと目を輝かせ、叶子が答える。

「おとーさんね、きょーこはそのためにいるっていうの。きょーこね、そうするとほめてもらえるんだよ」

 上機嫌な言葉は軽やかだ。にもかかわらず、横須賀の胸は石が押しつけられたように重くなる。おとうさん。その言葉を復唱しようにも、それは声にならなかった。

 うまく動かなくなりそうな唇を震わせ、横須賀はもう一度口を開いた。

「なんで、そんなことを?」

「きょーこのだから!」

 返事はシンプルだった。予想など出来ないくらい突拍子もない状況で、その返事がそこに来る理由は更に理解できなかった。

 叶子の。何度も聞いた言葉の意味が、掴みきれない。

「きょーこね、いいこなの。おにーちゃんはっぱいたいいたい。ひとのはしちゃだめ、まもってるの」

 まるで話がくるりと飛んでいってしまうように話題がずれていく。けれども横須賀は真剣にその言葉を追いかける。突拍子はない。理解できない。だからこそ、与えられる言葉を横須賀は受け止めるしかできないのだ。

 理解できないからと流してしまうことは横須賀にとって恐ろしい。だから服の裾を握りしめながら言葉を聞く横須賀を、真っ直ぐな黒が見据えている。

「――なのにあのおねーちゃん、きょーこの、いじめた」

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