2-5)『叶子の』

 降ってきた声に視線をあげた横須賀が見たのは叶子の姿だ。窓に肘をついて、長い髪を垂らしていた叶子の視線は前に向けられていた。腕はレールの上に乗っていて、右腕が外側、左腕が叶子の体側で、左手の上には顎が乗せられていた。下から仰ぎ見る形だったので口元がわかりづらく、それでもまるで歌うように上機嫌な叶子がふと横須賀を見下ろした。

 ぱちくり、と瞬いたのが判った。長い睫が爛々とした瞳を隠すのは遠目でもよくわかる。それからまるでかくれんぼで見つかった時のように嬉しそうに叶子は笑った。それでいて瞳だけは爛々と強い意志を伝えてくる。その意志の名前はなにか、と考えていると、小さな唇が動いた。

 お、う、お、お。

 唇だけではわからなかった、と横須賀は思う。けれどその時横須賀の頭に響いたのは、叶子の声だ。

 『きょーこの』無邪気に言い放ったあの声が、少し強い調子で横須賀の頭にその時響いた。満足そうに首を傾げ微笑んだ叶子の意味を考える前に、山田が横須賀を殴って赤月がああなった。

 一連の動作はおそらく流れるようなものだっただろう。異常事態に横須賀はそれがゆっくりと見えたが、実際は数秒のことだ。だからそれがどこまで本当かわからないし、そのあと叶子が見ていたかどうかまでは、あの異様な光景に飲まれて横須賀は確認できなかった。

「てめぇを見ていたなら、まあ見なかったと考える方がおかしいっちゃおかしい、な」

 横須賀の書き出したメモを見ながら、山田が呟く。本当に見ていたかはわからない。何故あそこにいたのかもわからない。それでも山田は横須賀のメモを見て言い放った。

「この状況で見てないって言う気はねえ。てめえの気のせいかもしれねーが、俺はお前を目として使うと決めた。ならその情報の精査は俺の脳味噌で、今の段階ではこれを考えない理由はない」

 山田の指が紙を叩く。それでも横須賀には叶子があの場所に居た理由もそのあとの行動も予想できず、背筋を丸めてノートを見る。書き写す元となったノートには、横須賀の出来なかったことが書かれている。

 赤月は結局助けられなかった。あの時叶子のことを失念したのも、横須賀にとっては酷く自身を責め立てるものだった。あんな光景を見て、彼女は大丈夫だろうか。憂いても答えはない。それでいてそれ以外の疑問も宙ぶらりんで、なんだかどうにも落ち着かないのだ。

「にしても、『叶子の』ね。何について言ったんだコイツ。かくれんぼしてたってわけでもねーだろ。探しモンか?」

「え、っと」

「? 心当たりがあんのか」

 顔をあげ、山田が横須賀に問う。横須賀は少し視線をきょろきょろとさまよわせ、首後ろを指先で三度叩いた。

 叶子は自分のものが何もないと言っていた。そうして横須賀の手のひらに名前を書いて得意げに笑って――しかし、まさかあの場所でまで横須賀を叶子の、という理由もないだろう。そもそも横須賀と目が合って言ったのだとしたら、所有物に所有者であることを示すことになる。念を押すように言う必要がわからない。

「すみません、わかりません」

 なにか自分のものを手に入れたのだろうか。それなら少しだけいいことだろう。叶子の、と横須賀に言ったのだとしたら、もしかするとなにかを見せようとのぞき込んだのかもしれない。音を聞いて、不思議がって。……けれども、それなら何故あんな風に窓際にいたのか。不思議がって覗いたと言うよりはちょうど視線を降ろしたような叶子の真意を考え、しかし横須賀にわかるわけもない。

 眉を少し持ち上げた山田は一度薄く口を開きかけ、しかしすぐに引き結んだ。

「……まあ、いい。調べが付いたらどうせ病院にもいかなきゃなんねーだろうしな。そん時に探して話を聞けばいいだろ」

 メモの書かれたルーズリーフを山田は机の上に置いて、それから椅子に深くかけ直した。背を預け息を吐く様は随分と横柄だが、平時よりも少し考え込むような音でもあった。足を組み直した山田が、そのまま横須賀を見やる。

「テメェは考えなくていい。赤月の時みたいに無駄なことはしねーで、俺の言葉に従え。ガキについても、他についてもだ」

 赤月、という言葉に横須賀が身を縮こまらせる。山田は手を組むと膝の上に置くようにして、椅子に預けた背を離した。下から見据えるような山田のサングラスには、随分と顔色の悪いハの字眉の青年が歪んで写っている。

「細かいことは省くが、俺の仕事には"ああ”いうケースがままある。あそこまで突拍子も無いモンは珍しいが――安っぽく言っちまえばオカルトじみたモンと俺は関わっている」

「おかると」

 山田がそういう雑誌を読んでいることは横須賀も理解していたが、それが現実問題となるとどうにも言葉が浮いてしまう。その奇妙な単語を復唱した横須賀は、しかし有り得ないと言ってしまうには昨日の記憶が鮮明すぎた。

 だがただのオカルトと言ってしまうには、超自然と言うにはあまりにもそれは誰かの悪意のような憎悪のような、頭に直接殴りかかるような暴力性がある。人の肉が溶ける、を、超自然と言うのはあまりにも――

「オカルト。そのままずばり隠れたもの。細かく言い出すとキリがないな。新興宗教、超自然、超科学、超心理学。ぶっちゃけ名称はどうでもいい。それらの当事者だとか調べる人間にとっては名称は大事だろうが、俺はそれを理解する気がない。隠れるものそれ自体にはさほど興味がねーんだ。とにかく理解できないモンがある。それだけ分かっておけばいい。だからテメェは考えるな。どうしようもねえことをどうにかしようなんてするな」

「でも」

「使われるだけで十二分だろう? テメェに何が出来る」

 何が。その言葉で浮かぶのは、落ちた水筒とぼろぼろの手だ。唇を引き結び固く手を握る。何も出来なかった。それどころか、いたずらに傷つけただけだ。

「アレはテメェに言っておかなかったこと、そもそもあそこまで露骨なモンが出てくるとは思わなかった俺のミスだ。テメェは目であり続けた。ついでに考えんじゃねえ、ってだけだ」

 静かな山田の声が横須賀に向いている。それでも横須賀は俯いたまま、首肯も否定も出来ずにいた。

「殴られたいなら殴ってやるがな。まあそういうことだからテメェは考えるな。俺がテメェに求めるのは別だ」

 は、と短く横須賀が息を吐く。山田が言葉を止めた。ひゅ、と喉が鳴り、顔が持ち上がる。

「山田さん、は」

 山田は答えない。横須賀の右手の親指と人差し指が左手人差し指を握り、もぞもぞと動く。

「山田さんは考える、んですか」

 理解できないものを。そういう意味を含んだ言葉に山田はしばし無言だった。ほんの数ミリ、ただの揺れかと感じそうなほどのささやかなずれで、斜め下を向いたのがわかる。おそらく外された視線は、椅子の背に体を預け直した山田の動きですぐにわからなくなってしまった。

「俺が考えるものは決まってる。理解できないモンを暴くのはいつだって学者先生で、俺は探偵だからな。俺がオカルトと呼んで考えようとしねぇものを、当事者や学者先生は考える。俺がそれにどうこうする必要はない。存在する。存在だけ知っておけばいいから、俺にとっては隠れたもので構わない」

 一辺倒の調子で山田が空気を吐き出すように言葉を吐く。投げやりとも、あざけりとも違う。ただそうであると告げる平坦な声は、少し遠くを見るようでもあった。

 背を預けた姿勢が、まるで空を見るように見えたからかもしれない。けれど山田は別にどこかを見て誰かに言っているわけでもない。横須賀が目の前にいるのに、その言葉は答え合わせをする教師のようでもあった。

「俺が考えることは単純明快なことだ。オカルトだろうが何だろうが、人間が関わるなら動機がある。人間が関わるなら過程がある。殺し方の現実性だとか理解できないもんを考える必要なんかねーんだ。考えて分かるならとっくに先生方が結論をだしている。そんな不毛なコトに時間を掛ける暇はねぇ。だが、人間の考えなら同じ人間に考えられないこともない。思考を理解する必要はない。そいつにとって何が始まりでそいつの行動をなにが示しているか。道筋だけ考える。俺にはそれが出来る」

 しばしの間。そうしてから、山田が横須賀を見据えた。

「お前には出来ない」

 声は静かだ。ナイフで刺すだとか殴りつけるような言葉ではない。ただ柔らかい地面に杭を静かに沈めるような、重石をそっと置くような言葉だ。声はいつもの凄むような調子と違い、まるで姉が幼い弟に言い含めるような調子でもあった。

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